第三十八話― 春のキャンプは危険がいっぱい!?【後編】(1)
派茶目茶高校の二年七組のお馴染みのメンバーは、矢釜渓谷キャンプ場にて一泊二日のキャンプ旅行にやってきていた。
一日目はテントの設営、青空の下でアウトドアをエンジョイしてからお楽しみのお夕食。おいしい料理と炭火を取り囲んで賑やかな時間を過ごしていた。
キャンプ場の夜は早い。真っ暗な空を仰いでみると、キラキラと輝く星空が広がっている。炭火から舞い上がる火の粉が暗闇の空間を美しく演出する。市街地から離れた大自然の夜は幻想的でロマンチックだ。
「カレーライス、おかわりね」
「おっ、俺もちょうだい」
花より団子、幻想的でロマンチックなムードが似合わないのがここにいる男子諸君だ。
それにしても、年頃の男の子の食いっぷりには頭が下がる。拳悟と勝の二人はすでにカレーライスを三杯もおかわりしていた。
「あんたら、食い過ぎよ。余った生野菜で我慢しなさい」
女子だって年頃だけに控え目というわけではない。カレーを死守しようと、麻未は調理で余ったニンジンを彼らの口の中に詰め込んだ。
「固くて食えんわっ! 茹でるぐらいしろ」
「そうだそうだ、せめてマヨネーズぐらいくれよ」
「うるさいなぁ。それぐらい自分たちでやりなさいよ」
女子だからといって配膳係と決め付けられては困る。麻未は男子の文句などまるで無視で料理をおいしそうに口に運んでいた。これには、他の女子たちも同意の意思を示していたようだ。
うだうだと小言を並べながらも、ニンジンを茹でようとお鍋に火を掛ける拳悟と勝の二人。これも働かざる者食うべからずというやつか。
「おっ、うまそうな匂いがするな」
「カレーの匂いだな~」
突如、何者かの声がどこからともなく聞こえてきた。ハチャメチャトリオ三人とは違う男性の声だった。
テントの脇からスッと姿を現した男性二人。一人は低身長でにやけた笑みを浮かべた少年、もう一人は大柄でちょっと小太りな少年、どちらとも顔立ちからして高校生ぐらいの年齢のようだ。
「俺たちにも恵んでくれないか?」
「カレー、恵んでくれよ~」
その少年二人は図々しくかつ馴れ馴れしく声を掛けてきた。彼らに応対するのは、お鍋の前でしゃがみ込んでいる拳悟と勝であった。
「あいにくカレーは残り少なくてな」
「よかったらニンジンでも食うか?」
「おいおい、俺たちは馬じゃねーよ」
馬ではない少年たちが食べたいのはカレーライスだ。特に小太りの少年なんて、大きな口からよだれをダラダラと垂らす始末である。
いきなりやってきて食わせてくれと言われても、丹精込めて作った料理をそう簡単に恵んであげるボランティア精神が拳悟たちにあるはずもなく。金銭をきちんと払うのなら話は別だが。
「だいたいよ、何で他人にメシ食わさなくちゃいけねーんだよ」
「つれないなぁ。これも何かの縁、俺たちはもう友達だろ?」
「初めて会って友達面されたら世話ないぜ。調子に乗るな」
拳悟と勝が疎ましそうに門前払いしとうとしても、少年二人は引き下がろうとせずに食わせろの一点張りだ。このままでは口論がエキサイトして喧嘩に発展してしまいそうだ。
女子チームの面々も困惑めいた表情を見合わせていた。拳悟たちに任せていいものかどうか迷っているが、だからといって仲裁に入るきっかけも見つからないといった感じだ。
そんな男子四人が言い合いを続ける中、仲裁役を買って出た者こそ心優しき美少女の由美であった。
「……あの、少ないけどよかったらどうぞ」
由美の両手には二つの紙皿が握られており、そこには少量のカレーライスが盛り付けてあった。二つで一人分ぐらいの分量だ。
実はこれ、彼女のために残してあったおかわり分のカレーライスだったのだ。
「おっ、ありがたき幸せっ!」
「いただきま~す!」
少年二人は紙皿を奪うように受け取ると、喉に詰まらせるほどの勢いでカレーライスにむさぼり付いた。余程空腹だったのだろうか。
由美の心遣いにより事態は収拾に向かっていった。だがしかし、他人に譲られたら拳悟も勝も内心おもしろくはないだろう。麻未も眉間にしわを寄せてちょっぴり口を尖らせていた。
「ユミちゃんもお人よしだなぁ。ここまで優しくすることないって」
「わたし、もうお腹いっぱいだったし。余らせるよりはいいかなって」
せっかくのキャンプ、他人同士とはいえ楽しさを分かち合えればもっと楽しくなるのではないか?由美はそう訴えながら説得に回った。
これには麻未も他の連中も苦笑しながら頷くしかなかった。心に表裏がなくてお人よしの性格な由美のことを、ここにいる誰もが認めているのだから。
それはそれとして、突然やってきたこの少年二人はいったい何者なのだろうか。メシをご馳走になった以上、自己紹介ぐらいしてもらうのが道理というやつだ。
「俺さ、このキャンプ場のオーナーの息子なんだ」
キャンプ場のオーナーのご子息と名乗るのは、お坊ちゃまっぽく生意気そうな口振りの低身長の少年であった。ちなみに、一緒にいる小太りの少年は彼の友人で同級生とのこと。
この春休みを利用してオーナーが借りている別荘へ遊びにきていたという。別荘でダラダラとテレビゲームしていても息が詰まる、そんな理由でキャンプ場まで散歩にやってきたというわけだ。
「それだったら、別荘に帰ったら豪華なメシにありつけるだろうが」
「今夜さ、家政婦が実家に帰ってるんだよ。だから夕食は冷凍食品しかなかったんだよな」
カレーライスを恵んでもらえてご満悦な様子のオーナーの息子。他人への配慮や気配りといったものに無縁なお坊ちゃまらしく、礼儀らしい礼儀もなくただケラケラと笑っていた。
それから数分間経過しても、少年二人はそこから離れることなく留まり続けた。派茶目茶高校のメンバーにしたら何とも居心地が悪い。早いところ別荘へ帰ってほしいと願うところだが。
「そうそう、お礼といっては何だがいいこと教えてやるよ」
とっておきの耳よりの情報なのだろうか。オーナーの息子は口角を上げて不敵な笑みを浮かべる。
さほど興味も関心もなかったがお礼はきちんと受け取ろう。派茶目茶高校のメンバー全員が会話を止めて耳を傾けると、オーナーの息子はひそひそ話をするような素振りで語り始める。
「このキャンプ場付近にはな、巨大な人食いグマが出没するらしいんだ」
巨大な人食いグマ――!一人の少年の小さな口からとんでもない大きなキーワードが飛び出した。
人類にとって脅威とも言うべき森の猛獣。毎年のように、偶発的な遭遇により大怪我をする人や命を落とす人までいる。クマはそれだけ避けるべき危険な動物なのだ。
あまりの衝撃にこの場がシーンと静まり返ってしまった。ここにいる誰もが、クマという存在の恐ろしさに萎縮していた――と思いきや、派茶目茶高校の少年少女たちはどこか感覚がズレていた。
怖がるどころか、彼らはいきなり大声で笑い出してしまった。
「そのいかにも作った真顔がたまらんなっ」
「人食いグマなんて、ジョークは寝てから言えよ」
「やべぇ、おかしくて腹が痛くなっちまった」
ハチャメチャトリオの三人は大爆笑である。きっと現実味がないのだろう、クマそのものを別次元の生物と解釈しているようだ。
冷静になって考えてみると、キャンプ場付近でクマが出没するというのも信じ難い話だ。子供を守るなどの防衛本能がない限り人を襲ったりはしないので、人を食らうという表現もどうも疑わしい。
女子たちも作り話であろうと思ってか、ホッと胸を撫で下ろしつつクスクスと頬を緩めて冷笑していた。
「な、何笑ってんだっ、おまえら。人食いグマが怖くないのか!?」
笑い者にされたオーナーの息子は憤怒の表情だ。見た人が何人もいる、犠牲者もいると悔し紛れの台詞をわめき散らして真実を訴えたが、誰一人としてそれを信じる者などいなかった。信じてほしかったら証拠を見せてみろと。
「よし待ってろ! 人相書きを見せてやる。人食いグマの恐ろしさを思い知るがいい」
クマに人相書きというのも違和感を覚えなくはないが、それは置いておいてオーナーの息子は汗だくになってあらゆるポケットをまさぐり出した。そして、ポロシャツのポケットの中から一枚の紙切れを取り出した。
頭が高い、控えろと言わんばかりに示された人相書き。そこに描かれているのは間違いなくクマの容姿なのだが、何か変だ。
体長二メートル四十センチぐらいの人食いグマ、別名はビッグ・フェアリー。片目に切り傷があり強面なのはいいが、なぜか口にはパイプをくわえてアロハシャツを着こなしている。
こんなヤツいるか!闇夜に轟く拳悟たちのツッコミもごもっともだ。
まるでサーカスのショーに出演しそうな印象を受けるこのクマ。これが人食いグマと恐れられているとはとても思えない。しかも、別名を日本語にすると“大きな妖精”というのもどうかと思う。
「ど、どうだ、怖くなっておしっこ漏らしただろっ!」
オーナーの息子は人相書きを持ちながらガクガクと震えている。青ざめた表情とその興奮ぶりは、本物のクマに遭遇しているかのような錯覚に陥っているようだ。
「漏らしてるのは、おまえの方じゃねーか」
「……う、うるさい! 最近、しまりが悪いんだ」
興奮し過ぎたせいか、オーナーの息子の股間がしっとりと濡れていた。ここに来る前にトイレに寄っておけばと後悔しても今更遅い。
拳悟たちに嘲笑されてしまった彼は、悔しさと恥ずかしさのあまり顔を真っ赤にして地団駄を踏んだ。
「せいぜい気を付けるんだな! おまえらなんかみんな食い殺されちまうぞ」
居たたまれなくなったので、オーナーの息子と小太りの少年はそそくさとその場から立ち去っていった。忠告なのか捨て台詞なのかわからない罵声のようなメッセージを残して。
それでも、拳悟と勝といった面々はまったく動じたりしない。満面の笑顔のまま手を振って逃げていく少年たちを見送っていた。
「またいつでも来いや」
「その時はちゃんと紙おむつ履いてこいよ~」
ようやくお邪魔虫がいなくなった。派茶目茶高校の二年七組のメンバーにまた賑やかで楽しいひと時が戻ってきた。ところが……。
この中で一人だけ、血の気が引いた表情をした女の子がいる。チラチラと周囲に視線を送るばかりでおしゃべりに参加せずに押し黙っていた。その様相は何かに怯えているかのようだ。
「ユミちゃん、どうかしたの?」
「――えっ、ううん、何でもないですよ」
拳悟に声を掛けられてビクッと肩を窄めたのは由美だった。作り笑いを浮かべて平静を装ったものの、彼女は何かをごまかしている感じだ。
夜のキャンプ場にふとして沸いた人食いグマ騒動。このまま何事もなく終わらないのがこの物語のおもしろいところなので。
* ◇ *
物語の舞台はキャンプ場のオーナーの別荘に移る。
緑が生い茂る木々の中に囲まれたこの別荘。木造の二階建てで二階にはベランダ、一階にはテラスが備わっている。そのテラスには、バーベキューセットやプラスチック製のテーブルと椅子が並べてあった。
室内は一階と二階が吹き抜けの構造で、リビングには陽光を注ぎ入れてくれる大きな窓があり、ダイニングキッチンにインテリアも豪華絢爛。さらに冷暖房もきちんと完備されている。
キャンプ場がどれぐらい儲かるかは定かではないが、お金持ちでなければこんな別荘を持つなんて贅沢は到底できないだろう。
春休みを利用してこの別荘にやってきたオーナーの息子。おとなしくテレビゲームでもやっているかと思いきや、オーナーの自室の押入れに首を突っ込んで何やら探し物をしているようだ。
彼と一緒に別荘へ遊びにきた小太りの少年。お団子を頬張りながら、不思議そうな顔でその様子を眺めていた。
「おかしいなぁ、確かにあったはずなんだ」
オーナーの息子は脇目も振らず必死になって何かを探していた。
布団、衣類、小物、ぬいぐるみ。押入れからありとあらゆる物が出るわ出るわ。それでも、彼が探している物は一向に見つからない。
――それから数分後であろうか、彼はついに見つかったと声を発した。それは長方形の木箱で、深さもそこそこあるものだった。
木箱の蓋をそっと開けてみる。中には毛むくじゃらで真っ黒な着ぐるみが入っていた。胴体に手足、そして頭部と一通り揃っている。
「これだ、これだよ。いひひひ」
薄気味悪い微笑を浮かべるオーナーの息子。ギラギラと光る彼の目は狡猾としていた。この着ぐるみで何をしようというのか。
「何が見つかったんだ~?」
小太りの少年は興味津々で押入れの傍へ近づいてみる。彼がそこで目撃したものとは――。
『グオォォ~!』
「ぎゃあ~!」
押入れの中から現れたのは何とクマ、ではなくオーナーの息子がクマの頭部を被って脅かしたのだ。
これには小太りの少年もびっくり仰天。後ろ向きのまま床の上にぶっ倒れてしまった。
そもそもなぜクマの着ぐるみが別荘にあったのか。オーナーは大のイタズラ好きらしく、着ぐるみを着てはキャンプ場に遊びにきた子供たちをよく驚かせていたそうだ。
驚かされたのは何も他人の子供ばかりではなく息子も同じだったりする。いつか父親に仕返ししてやろうと思って、着ぐるみの隠し場所を小さい頃から記憶していたというわけだ。
もう一つどうでもいい情報だが、オーナーは着ぐるみコレクターでもあるらしい。まだ秘密の着ぐるみを隠し持っているという噂があるとかないとか。
「どうだ、びっくりしただろ、ってあれ?」
オーナーの息子は目を丸くして唖然としている。なぜかというと、床の上で寝転んでいる小太りの少年が口から泡を吹いて痙攣していたからだ。
「このバカ、気絶しちまいやがった。おい、しっかりしろ!」
頬を十数回ビンタされて、小太りの少年はどうにか意識を取り戻すことができて事なきを得た。体格は恵まれているようだが精神面は割と脆弱なようだ。
それはさておき、クマの着ぐるみを持ち出してきた理由。もうおわかりかも知れないが、これを使って人を驚かせようとしているのだ。もちろん、ターゲットはオーナーの息子を笑い者にした派茶目茶高校の連中である。
目には目を、歯には歯を、クマにはクマを。それを身をもって知ってもらおうと画策している彼、父親譲りなのか性格は意地悪でかなり執念深い。
「でもさ、カレーを分けてもらった恩もあるんじゃないか?」
「安心しろ。俺は女の子をいじめたりはしない。狙いはムカつく男連中さ」
オーナーの息子は口角を吊り上げて復讐心を燃やしていた。人食いグマの話をまるで信じなかったこと、それにお漏らしまで笑ったことを後悔させてやると。
というわけで、人食いグマに扮したオーナーの息子発案のびっくり大作戦決行となったのである。果たしてどうなることやら。
* ◇ *
時刻は夜七時を回った頃。キャンプ場周辺は静寂に包まれていた。
ここは派茶目茶高校二年七組の女子チームのテント内。就寝にはちょっと早いからと、ハチャメチャトリオも混じって時間潰しに興じているのはトランプ遊びであった。
ババ抜き、七並べ、神経衰弱。ジョーカーを引いた者には罰ゲームをやらせたりして、女子チームのテント内は思いのほか盛り上がっていた。
さて次はどんな遊びをしようかな。そんな会話の途中にふと飛び出してきたある一言、それはキャンプ場のオーナーの息子が口にしていたあのキーワードだった。
「さっきの人食いグマだけど、ホントに冗談なのかな?」
ポツリと囁いたのは、本日ゲストで参加していた高校一年生のさやかだ。疑っているのか疑っていないのかわからないが、彼女の目は少しばかり関心がある様子だ。
そういう意見がある一方で、興味があるどころか記憶の片隅にしか薄っすらと残っていない男子たちの反応は無関心そのものだった。人食いグマなんて所詮は映画といった架空の世界の存在であろうと。
「怖がらせようと思って、アイツが勝手にでっち上げたんだろ」
「だろうな。ちやほやされたいから適当に言いふらしてるんじゃないか」
「そもそもさ、キャンプ場でクマが出るようじゃ運営できないしな」
彼らが言うことも頷ける。人食いグマが出るキャンプ場を一般開放しているなんてまずあり得ない。通常なら看板を設置して注意喚起したり入場禁止の措置を取るだろう。
いくらオーナーの息子とはいえ、あまりにも根拠が乏しくて信憑性がない。さらに、サーカスに出てきそうなクマの人相書きを見せられては尚更だ。
ここにいる誰もがうんうんと共感する中、さやか一人だけはなぜか納得していない表情だ。腑に落ちない何かしらの理由があるのだろうか?
「あたしと同じクラスにね、動物の生態に詳しい子がいるんだけど」
さやかが語るに、クマつまり本州であればツキノワグマだが標高の高い山の奥深くで暮らしており、植物性の強い雑食で木の実や昆虫類を食料としている。
人類とは住む世界が異なるわけだが、嗅覚が犬の数倍もあるクマは食料欲しさに人里まで下りてくることがあるのだという。
臆病な性格なので人を遠ざける傾向があるものの、その反面で攻撃性が高いのも承知のこと。遭遇による痛ましいニュースが起きるのは何も山奥だけではなく、ここキャンプ場も例外ではないのだ。
「ちょっとちょっと、脅かさないでよっ」
「そうですわ。クマが出てもらっては困ります」
人食いグマに対して真実味が増したせいか、麻未と舞香はブルっと全身を震わせて怖がった。自宅から遠く離れたテントの中では逃げたくても逃げようがないからだ。
さやかは悪びれることもなくケロッと笑った。クマが夜に下山するなんて確率的にも低い。クマがやってくる理由、つまり食べ残しや生ゴミを散らかしたり放置していなければ大丈夫だろうと。
お鍋もお皿もすべてきちんと片付けた。キャンパーとしてのモラルを守っているから心配ない、そう言い聞かせて心を落ち着かせる彼女たちであった。
「…………」
場の空気が元に戻り、少年少女たちの顔色にも安堵が戻ってきた。ところが、由美だけはまだ青ざめた顔色のままだった。無言を貫いて、深く考え事をしているかのような雰囲気だ。
人一倍怖がりの彼女だけに、もしかすると人食いグマを信じて恐怖と不安に囚われてしまっているのか。
「ユミちゃん、どうかした? お腹でも痛いの?」
「――えっ、えっと、ううん、大丈夫だよ」
引きつった笑みで内心をごまかした由美。気を紛らわすことが最良と思ってか、誘われるがままにトランプ遊びに付き合うのだった。
* ◇ *
薄暗い別荘の出入口前、そこでは小太りの少年が独りぼっちでオーナーの息子がやってくるのを待っていた。
木々に覆われている周囲は物静かで人の姿はない。彼は肌寒さと心細さからブルッと全身を震わせた。
「よう、待たせたな」
「おおっ――!」
小太りの少年の前に姿を現したのは紛れもなくオーナーの息子だった。しかし今は、全身毛むくじゃらで真っ黒なクマの着ぐるみを着た猛獣である。
着ぐるみとはいえかなりのリアリティー感。小太りの少年は思わず生唾を呑み込んだ。友達とわかっていても見間違えてしまうぐらいクマに成りきっているからだ。
それに周りが暗いこともあって体毛の黒さがより人間らしさを消していた。これに遭遇したら誰でも悲鳴を上げておののいてしまうだろう。
「すげぇな~、どこからどう見てもクマだ」
「そうだろ。俺も鏡を見た瞬間、失神してしまいそうだった」
こうして、人食いグマのびっくり大作戦の準備は整った。
目指すは派茶目茶高校の連中がいるテントだ。気合を込めていざ出陣――と思った途端、クマに扮したオーナーの息子がいきなりストップを掛けた。何か忘れ物でもしたのか。
「本番前にテストしようぜ」
「テスト~?」
見た目はクマに成りきっているとはいえ、本当に驚くかどうか他の標的で一度試してみたい。オーナーの息子はそう思い立ったわけだ。
どうしてそこまで完璧さにこだわる?と、面倒くさそうな顔つきをする小太りの少年だったが、お世話になっているオーナーの息子の意向には逆らえず渋々了承するしかなかった。
別荘から数分ほど木々の合間を縫っていくと、どこかから男女二人の話し声が聞こえてきた。付近に人がいる証拠であろう。
忍び足で草木を掻き分けていくと、彼らの視界に薄っすらと映ったのは大木に寄り添って話し込んでいる一組のカップルだった。話している内容まではさすがにわからないが。
「よし、アイツらを脅かしてやろう」
これこそ絶好のカモの登場だ。オーナーの息子、いやクマはのそのそと獣のような歩調でゆっくりとカップルの傍へと近寄っていく。
一方その頃、真っ黒い脅威が迫っているとは露知らず、カップル二人は向かい合ったまま何やらおしゃべりをしていた。
「ねぇねぇ、俺のテントにおいでよ」
「困るわ、そろそろ戻らないと」
会話に耳を傾けてみると、この男女二人は恋人同士ではないようだ。夜のキャンプ場にもナンパ師はいるらしく、男性の方が女性にしつこくアタックしていた。
どうも女性は乗る気ではなく迷惑がっているように見えなくもない。夜は何が起きるかわからず危険だからと、漠然とした理由を並べて抵抗感を示していた。
「怖がりだな。まさか、おばけでも信じてるのかい?」
「違うわ、もっと現実的なものよ。たとえばクマとか」
「はっはっは、クマがキャンプ場付近にいるわけないさ。現実的じゃないよ」
断ろうと思って苦し紛れに言ってみたものの、さすがにクマ出没は現実的ではなかったかも知れない。声高らかに笑っている男性に女性は何も言い返すことができなかった。
――その直後だった。男性の背後に突如現れた黒い影。クマ出没がまさに現実的となる決定的瞬間であった。
(――――!)
それを目撃した女性は恐怖におののき卒倒してひざから崩れ落ちた。
一方の男性は何が起きたのかさっぱりわからない。唖然としてその場に立ち尽くしたままだ。
「あれれ、どうしちゃったの?」
目を剥いて気絶してしまった女性。男性は気が動転しながらも、しゃがみ込んで彼女を介抱しようとしたが。
『ツンツン』
背後から何者かに指で突かれた感触。気のせいだろうか、今は気にしている状況ではないからと男性はそれを無視する。
『ツンツン、ツンツン』
またしても背中を指で突かれた。気のせいではないようだ。彼はゆっくりと背後へ顔を向けてみた。
「へ?」
男性の視界に映っているもの、それは鋭いツメを突き上げて仁王立ちしている、真っ黒い体毛で覆われた体長一メートル五十センチほどの猛獣。そう、オーナーの息子が変装しているクマである。
『グオォォ~!』
「うぎゃあ~!」
クマとのショッキングな遭遇により腰を抜かしてしまった男性。
この暗がりの中ではクマが偽者だとは当然気付くはずもない。彼は泣き叫びながら、四つん這いになってその場から逃げ出していった。
テストは見事に成功した。オーナーの息子と小太りの少年はハイタッチして大喜びだ。人を驚かせて喜び合うなんてとんでもない悪ガキである。
それはそれとして、置き去りにされてしまった女性はどうしよう。気を失ったまま大木の幹にもたれ掛かっていた。
「チャンスだ、別荘に連れて帰るぞ」
「こらこら、そうじゃないだろっ」
「冗談だって。とりあえず寝かせておこう」
女性を連れ去ろうとしてツッコまれてしまったオーナーの息子。冗談などと言って遊んでいる場合ではない、目的はあの憎き派茶目茶高校の連中を驚かせることなのだ。
目的地のテントを目指していざ出発――と思ったら、またしてもオーナーの息子がストップの号令。今度はいったい何があったのか。
「もう一人だけテストしようぜ」
「まだやるのかよ~。もうやめようぜ」
小太りの少年の制止にまったく耳を貸さないオーナーの息子だが、人を驚かせることにすっかり味を占めてしまったようだ。さすがはイタズラ好きの父親を持つだけに血は争えないといったところか。
テスト二人目に指名されるのは果たして誰か?しばらくすると、草むらで焚き火を起こして休んでいる一人の男性を発見した。
年齢は五十台後半の初老の男性で、ほろ酔い気分でカップ酒をあおっていた。メガネを掛けて鼻ひげをはやしており、キャップの帽子にダウンベストといういでたち、登山靴を履いているところからするとキャンパーではなさそうだ。
驚かすには男性一人の方が丁度いいだろう。オーナーの息子は次なるターゲットをその初老の男性に決めた。
小太りの少年にこの場で待つよう指示すると、オーナーの息子は先ほどと同様にのそのそと獣のような歩調でゆっくりと近寄っていく。その姿はまさにクマそのものである。
『ツンツン』
初老の男性の肩を軽く叩いてみる。しかし、酔っ払っているせいか彼はそれに気付かない様子だ。
『ツンツン、ツンツン』
もう一度、肩を叩いてみる。今度は反応があったが、すこぶる機嫌が悪そうだ。
「誰だぁ? こんな夜中に失礼なヤツだな」
ここがまさに絶好のタイミング――!
クマに扮したオーナーの息子は両腕を上げて威嚇のポーズを取った。そして、怪獣のごとく雄たけびを轟かせる。
『グオォォ~!』
誰もが悲鳴を上げてびっくりするシーンを想像したであろう。――ところが、今回は展開が違った。
「ぬおっ! いよいよ現れやがったか」
初老の男性は何と、片付けていた猟銃を取り出した。彼の正体こそ、森林の安全を守っている害獣専門のハンターだったのだ。
彼はニヤリと不敵に笑って銃口をクマに向けた。この時を一日千秋の思いで待ち焦がれていたと言わんばかりに。
この思ってもみない展開にびっくり仰天。銃口を向けられた瞬間、クマ、いやオーナーの息子は生命の危機に直面していることを悟った。
「わー、ちょっと待ってくれ!」
「待つもんかっ! 撃ち殺してやる」
初老の男性は容赦なしに引き金を引こうとする。というよりも、待ってくれという人間の声を耳にしたことに違和感を覚えないところが不思議だ。酔っ払ってしまい感覚が鈍くなっていたのだろうか。
クマもきびすを返して大慌てで逃走を図る。パニック状態に陥っているせいか、四つん這いではなく二足歩行で。これも野生の動物ではあり得ない光景と言えよう。
『パン、パン、パン――!』
「うわぁ、助けてくれぇ~!」
闇夜を切り裂く発砲音、そして断末魔の叫び声。翌朝のニュースに取り上げられてもおかしくないこの出来事の結末はいかに?
猟銃から放たれた弾丸は四方八方へ飛び散ったが、オーナーの息子は幸いにもかすり傷一つ負わずに逃げ切ることができた。九死に一生を得たとはいえ、しばらく生きた心地を感じることができなかった。
汗をびっしょりかいて、息を切らせながらひざまずいている彼。そこへ小太りの少年が青ざめた表情でやってきた。
「大丈夫かよ~? すごい音が聞こえたぜ」
「ま、参った、危うく殺されるところだった。はぁ、はぁ……」
激走すること百メートル少々。足元の悪い草むらを重たい着ぐるみを着てよくここまで走れたものだ。
ちょっとしたイタズラのつもりが命に関わる事態にまで発展した。これで少しは懲りたと思いきや、オーナーの息子はまだ改心する気はないようだ。それよりも、本物と間違えられたおかげでよりやる気をみなぎらせていた。
「もうテストの必要はないな。よし、ヤツらのテントへ向かうぞ」




