第三十六話― 大ピンチ! 落第脱出大作戦(2)
それから数日後、落第脱出作戦は今日も続く。
拳悟は一人きりの時に国語の追試対策を進めていた。分厚い辞書があればどうにか学習できるという理由からだ。
試験の問題だが、メインは漢字や四文字熟語、そしてことわざの穴埋めだ。実際のところ、彼がもっとも苦手にしているのがことわざであった。
国語の担当教師から事前に試験対策問題を受け取っていた。さっそく問題に取り掛かってみることにしよう。
「え~と、どれどれ」
ペラッと問題用紙を捲ってみると、次のような問題が記載されていた。
■( )で( )を釣る
■( )に( )棒
■転ばぬ先の( )
■馬の耳に( )
■( )を叩いて( )る
■( )も積もれば( )となる
ご覧の通り、よくあることわざの穴埋め問題である。
教科書や辞書に頼ったりせず、己の記憶力と理解力だけで挑戦してみる。拳悟はズバリ正答できるであろうか?
「まぁ、こんなもんだろ。こんなの楽勝じゃん」
拳悟の解答は次の通りであった。
■(なんぱ)で(おんな)を釣る
■(ごくう)に(にょい)棒
■転ばぬ先の(て)
■馬の耳に(みみせん)
■(もち)を叩いて(こね)る
■(ゆき)も積もれば(ごうせつ)となる
――国語の追試、こんな調子で本当に大丈夫なのであろうか。
* ◇ *
拳悟は過去に経験がないぐらいがむしゃらに勉強に励んだ。脳がパンクしそうになって発狂したりしても理性だけは保ち続けた。
そこには協力者である由美とミユキの存在が大きかった。彼女たちが数回に渡り学習のサポートをしたおかげで、彼の学力もみるみる向上していった。
欠席に遅刻、さらに早退といった不摂生な行為も当然ご法度。授業に集中できない時があっても、授業にだけはきちんと出席しただけでも立派なものだった。
こうして時が流れて、国語、基礎解析、英語の三教科の追試当日の朝がやってきた。
試験会場は派茶目茶高校の二年七組の教室。開始時刻は午前九時より。試験時間は教科ごとに五十分。
一時限目は英語、二時限目は基礎解析、そして三時限目が国語という順番で試験実施となり、それぞれの試験の間には五分間の休憩時間がある。従って、計二時間四十分という長丁場だ。
「どうケンゴくん、順調かしら?」
本日の試験監督を務めるのは担任の静加だ。教師という立場ながらも、内心では愛する教え子が難関を乗り切ってくれることを期待しているに違いない。
拳悟の方だって担任の期待を裏切るわけにはいかない。やる気満々の表情で絶好調ぶりをアピールした。
「おう、任せてよ! 早くテスト用紙配らんかーい」
「あら、ずいぶん自信があるみたいね」
「まぁね。これでもみっちり勉強したからさ」
試験開始五分前。英語の問題用紙と解答用紙が配られた。静加は教壇へと引き返す途中、後ろ姿のままポツリと一言漏らした。
「英語の問題は少しばかり優しくしておいたわ。がんばんなさいよ」
「サンキュー、シズカちゃん!」
勇気付ける応援メッセージをもらって、拳悟はますますやる気がみなぎった。絶対に落第なんてしない、留年なんてしてたまるか。勉強に付き合ってくれたあの子たちのためにも。
* ◇ *
英語の試験が始まって四十分ほど経過した頃だろうか。
本日は指定休校日だというのに、派茶目茶高校の廊下を走っている一人の女子生徒がいた、しかも制服姿で。
その女子生徒は二年七組の教室付近までやってきた。懸命に走ってきたせいか、はぁはぁと息を切らせて苦しそうだ。
(ふぅ、一時限目がまだ終わってないみたい)
小声で独り言を囁いた女子生徒、その正体はクラスメイトの由美であった。
ではなぜ、彼女がわざわざ来訪したのであろうか?理由は単純明快で、まさに二人三脚で拳悟に熱血指導してきただけに、試験の出来栄えが気になって居ても立っても居られなくなったのである。
少しばかり待機しているうちに、一時限目の終了を告げるチャイムがスピーカーから鳴り響いた。
ドキッと心音が高鳴る由美。自分自身の試験でもないのに、まるで自分のことのように不安を感じてしまうから不思議だ。
それから数秒後、解答用紙を手にした静加が教室から出てきた。
「あらら、ユミちゃんじゃない。どうしてここへ?」
「ケンゴさんのことが心配になっちゃって……」
英語の試験はどうだったのだろうか。由美が真剣な目でそう問うてみると、静加は解答用紙をじーっと見つめた後クスッと微笑を零した。
「採点してみないとわからないけど、解答は一通り埋めてるし、安全圏内に入ったんじゃないかな」
由美はホッと安堵の吐息を漏らした。成果が出たとなれば先生役としてこれほど嬉しいことはない。彼女はすっかり保護者の気分であった。
とはいっても、まだ残り二教科ある。三教科すべてをパスする必要があるのだ。由美は祈るような気持ちのまま静加に問い掛ける。
「先生、教室に入ってもいいですか?」
「いいわよ。ケンゴくんを元気付けてあげて」
教室の出入口の扉をそっと開けてみると、たった一人、机の上でうつ伏せている拳悟の背中が視界に映った。
いくら気合十分だったとはいえ、日頃から勉強していない彼にしたら肉体労働よりも疲労困憊といったところか。由美が教室に入ってきてもまったく気付かなかったようだ。
(あと二教科もあるのかぁ。面倒くせぇな~)
短くて貴重な休憩時間を仮眠で過ごそうとする拳悟に、黒髪を揺らした清楚な女神がそっと優しく声を掛ける。
「お疲れさまです」
「おっ、ユミちゃんじゃないか!」
思ってもみなかったクラスメイトの来訪に、拳悟は睡魔も疲労も忘れて飛び起きた。しかも相手が由美ともなれば嬉しくないはずがない。
彼はすぐさま試験の出来具合を報告した。自分なりに納得のいく解答ができた、これも一重に勉強を教えてくれたおかげだと。これには、控え目な彼女でも少しばかり誇らしげの顔だった。
実をいうと、彼女がわざわざここまで足を運んだのは結果を逸早く知るためではなく他にも理由があった。彼がそれを尋ねてみると、彼女は制服のポケットから何かを取り出そうとした。
「うん、渡したいものがあって」
「えっ、もしかしてカンニングペーパーかな?」
「ケンゴさん、ダメですよっ!」
ジョークとは思いつつも、お調子者のことを叱りながら由美が取り出したもの。それは紫色の布に黄色い糸で刺繍が施された小さなお守りであった。
優秀な公立高校受験に無事に合格できるようにと、当時中学生だった彼女が期待と祈願を込めて名のある神社で買ったものだという。もちろん、結果は見事に合格だったわけだ。
彼女が差し出したそのお守りには、残りの二教科もいい調子で乗り切ってもらいたい、そして一緒に三年生になりたいという期待と祈願が込められていた。
「きっとこのお守りが役立ってくれます」
「どうもありがとう!」
拳悟は感謝の気持ちを伝えてお守りをしっかりと受け取った。不安が残る二教科だが、これがあれば安心して取り組めるだろう。何たって女神からのプレゼントなのだから。
そうこうしているうちに休憩時間が終了。静加が二時限目の試験のために入室してきたため、由美は迷惑にならないよう速やかに退室した。
* ◇ *
二時限目の基礎解析、三時限目の国語と難解な試験が続いていく。
それはまさに頭脳の持久戦のような感覚。日頃から頭を使わない者からしたらそれはもう荒行のごとく険しい試練だ。
拳悟が精神集中して戦っている中、二年七組の教室の外で待っている由美も一緒になって戦っていた。手に汗を握って、そわそわと歩きまわって落ち着きがないほどに。
時刻も正午に近づいてきた頃か。まだ試験は終わってはいないが、廊下の奥の方からパタパタと足音が聞こえてきた。その足音はゆっくりと二年七組の教室へと近づいてくる。
来客用のスリッパを履いた普段着姿の女性が一人。見ず知らずの人物を横目に捉えた由美は、不審に思ってコクリと小首を傾げた。
そのまま教室の前を通り過ぎるだろう。由美はそう思いながら黙り込んだまま俯いていた。ところが、その女性は予想を裏切って由美の傍でピタリと両足を止めてしまった。
「あなたは? なぜここにいるの? 今日は休校日よね」
その女性も由美とは面識がなかった。見知らぬ女の子が教室の前でポツンと突っ立っているのだから、あれこれと質問してくるのは何ら不思議なことではない。
「あ、あの、わたしはここで人を待っているんです……」
「そうか、ケンゴくんを待ってるんだね」
拳悟の名前が出てきてびっくりする由美。ということは、この女性がここへやってきたのも彼が目的だったのだろうか。
「ケンゴさんをご存知なんですか?」
「あたしね、彼とは一年生と二年生の時のクラスメイトだったんだよ」
この女性こそ、基礎解析の追試対策で拳悟の勉強に付き合わされたミユキなのであった。
彼女も彼女で試験結果が気になっていた。もうすぐ県外にある寮へ引っ越さなければいけないのだが、その前に試験の出来具合だけでも知っておこうとここまで足を運んだというわけだ。
簡単な自己紹介など小声で会話をしていた女子二人。しばらくすると、三時限目の試験終了を告げるチャイムがスピーカーから鳴り響いた。
それから数十秒後、やり切った感を表情に映した拳悟が教室から出てきた。やはり疲労感が半端なかったのだろう、フラフラとしていて足取りはいつになくおぼつかなかった。
「ケンゴくん、お疲れさま」
「よう、ミユキも来てくれたのかぁ」
これで追試三教科すべてが終了した。女子二人は心配そうな顔をしながら彼のもとへと詰め寄っていく。果たして、出来栄えはどうだったのであろうか?
「やるだけやった。燃え尽きたぜ」
解答欄を埋めるだけ埋めることができたと、拳悟は誇らしげな微笑を浮かべてガッツポーズで応えてみせた。その様相は、チャンピオン相手に最後まで戦い抜いた挑戦者のようだ。
拳悟はおもむろにポケットからある物を取り出す。それは、最後の最後まで集中力を持続させてくれたであろうあのお守りであった。
「ユミちゃん、これ返すね。あれから脳がすっきりと冴えた気がするんだよね。ホントにありがとう」
「本当ですか。役立ったみたいで良かった」
由美は声こそ謙虚でも心の奥底から喜んでいた。最愛の人に貢献できたことが何よりも嬉しかったのだろう。
こうして追試も無事に終わったわけで、拳悟も午後からは気ままに振る舞える自由時間となった。というわけで――。
「あのさ、勉強教えてもらったお礼にランチご馳走するよ」
「あはは、ラッキー!」
時刻はもう間もなく正午を迎える。女子二人ともおごってもらえるならお誘いは大歓迎である。
フレンチにしようか、それともイタリアンがいいか、はたまた中華料理かなといった感じで、ミユキは由美の手を引っ張って嬉々としながら教室の前から駆け出していった。
お財布の中身は大丈夫だろうか?拳悟は不安材料に恐々としながらも、お世話になったのだからと早足に彼女たちを追い掛けた。
結局、この三人が向かった先は矢釜中央駅近くにあるファミリーレストランであった。スープ付きのハンバーグランチやフライドポテトといった注文により、それとなく財布の中身が飛んでしまったことは否めないが。
おいしい料理に舌鼓を打ち、楽しい語らいも終えて店内を後にしたのは午後二時を過ぎた頃だった。
「ケンゴさん、ご馳走様でした」
由美はとてもご満悦な様子で、電車へと乗るために矢釜中央駅構内へと消えていった。他の二人、拳悟とミユキは手を振って彼女のことを見送った。
「ユミちゃんって、おとなしくてかわいらしい子ね」
「そうだな。うちのクラスでも人気者だからな」
駅構内の雑踏に紛れていく親友の姿をずっと目で追う拳悟。その直後、ミユキから頬っぺたをギュッと摘まれてしまった。
「あなたの好きな子ってあの子ね?」
「いててっ!」
ここで白を切っても無駄だろう。拳悟はその通りだと清々しく白状した。
「いいんじゃない? あの子なら、あなたの無茶ぶりを止めてくれそうだしさ。さっさと告白しちゃいなよ」
「他人事みたいに言うなって。彼女にだって人を選ぶ権利があるんだから」
拳悟は頭をポリポリと掻いて照れくさそうに悩める心境を語った。
――鈍感にもほどがあるというもの。彼が由美の本心に気付く日は果たしてやってくるのであろうか?
* ◇ *
それから数日後――。追試結果の発表日がやってきた。
望み通りに三年生になれるのか、それとも留年して二年生をやり直すことになってしまうのか?拳悟にとって重大局面を迎える運命の日がついにやってきた。
ここは派茶目茶高校の教務室。二年七組の担任の静加の真正面には、不安のあまりビクビクと震えている彼の姿があった。
正直なところ、試験が終わってからというものまともに熟睡できていなかった。落第してはならないというプレッシャーが悪夢となって現れて眠れない夜を何日も過ごしていたのだ。
バツ当番ぐらいならいくらでも我慢できるが、いざ留年ともなればそうはいかないだろう。ポジティブ思考の彼でも、今回ばかりは精神的に参ってしまうのは止むを得ない。
というわけで、良い意味でも悪い意味でも安眠できない夜から解放される日がやってきたのである。
「ケンゴくん、それでは結果を発表するわよ」
小さく頷き、緊張の生唾をゴクッと呑み込んだ拳悟。
なお、合格点は各教科でそれぞれ四十五点以上。決して難しい合格ラインではないが、赤点を取った当人からしたら安全圏でもない微妙な点数だ。
まずは一教科目の英語。これは自信がある科目だ。由美に基本から応用までしっかりと教えてもらっていたから。
「英語は……六十点。合格よ」
「やったっ!」
まずは第一関門を突破。拳悟はガッツポーズをしながら喜びを表現した。そして、心の中で感謝の気持ちを伝える。由美ちゃん、どうもありがとうと。
続いては二教科目の基礎解析。これは英語ほどではないが、それなりに納得ができる解答ができた教科だ。ミユキが忙しい中、貴重な時間を割いてまで教えてくれたから。
「基礎解析は……五十三点で合格ね」
「よっしゃあぁぁ~~!」
これで第二関門も突破した。拳悟は歓喜の雄たけびを上げた。
その雄たけびは教務室の窓を揺らすほどの勢いであった。これには静加もびっくりして、静かにしなさい!と慌てて注意するほどであった。
「残り一教科。国語よ」
いよいよ三教科目の国語だ。拳悟は祈るような仕草で天を仰いだ。
実をいうと、国語だけは自信がなかったのだ。他の二教科は女子二人に勉強を教えてもらっていたが、これだけはたった一人で学習したからだ。
しかもご承知とは思うが、ことわざ問題がまるでダメ、さらに漢字や熟語もそれほど納得できる解答ができなかった。この状況ともなれば、もう神頼みしかないというわけだ。
「国語…………」
どうしたのだろう、国語の点数発表だけ静加の沈黙がやけに長い。
まさか――!拳悟の心臓がバクバクと激しく鼓動する。
一教科だけでも不合格なら留年が決定する。いよいよ、彼女の重たそうな口から結果が発表された。
「……四十六点!」
「ということは――!」
拳悟は目を大きくして驚きの表情を示した。そして、静加はコクリと頷いて頬を緩めた。
「合格よ。おめでとう」
第三関門も突破。三教科とも合格点を叩き出し、これで仲良しのクラスメイトと一緒に三年生になれる。拳悟は瞳に大粒の涙を浮かべて喜びのあまりその場で飛び跳ねた。
「いやっほぉぉ~~い!」
他の教員がさまざまな顔色で見守る中、拳悟はしばらくの間、奇声を上げながら教務室内を駆けずり回った。これには静加も呆れ顔だが、かわいい教え子がどうにか進級できて気持ちは穏やかだった。
一人でも落第者が出るとボーナスに響く……という現実問題はあえて触れないでおこう。




