第三十六話― 大ピンチ! 落第脱出大作戦(1)
「えっ――! 三教科……」
「そう、三教科。国語に基礎解析、そして英語ね」
ただいま夕暮れ間近の放課後、ここは派茶目茶高校の教務室のとある一角。
そこにいるのは唖然とした顔をしている拳悟、そして気難しそうな顔で椅子に腰掛けている静加の二人。彼ら二人の間にいつになく緊迫した雰囲気が漂っていた。
それもそのはずで、つい先日実施された学期末テストの結果を伝えていたからだ。もうご推察のことと思うが、結果が芳しくなかった生徒は個別に呼び出されてしまうわけで。
「マジに赤点……なの?」
「そう、このままだと落第、留年確定ね」
落第、留年――。それはすでに一年留年している拳悟にとって、あってはならないし認めるわけにはいかないキーワードだ。
「……ゆ、夢じゃないよね?」
「頬っぺた、つねってあげましょうか?」
これは夢でも幻でもない、今ここにある現実なのだ。
拳悟は日頃からの怠慢さが災いし、赤点三教科で進級することができない危機的状況に迫られてしまったのだ。
遅刻は常習犯、さらに早退だって少なくない。予習も復習もまるでしないし、宿題なんて無視しまくりの劣等生の彼。当然ながら、学期末テストの前日も遊び呆けていたことは言うまでもない。
本当なら赤点は三教科だけではなかったそうだ。これも教え子を愛する親心であろう、進級のチャンスをあげようと静加が説得に回ってくれてどうにか三教科で済んでいるのだ。
彼女は担任として、また一人の教師として厳しく言い放つ。二週間後の追試までにしっかり勉強すること、三月中は遅刻、早退、欠席を一切しないようにと。
「いいわね、それを守らなければ助かる見込みはないわ」
この期に及んで逆らう義務などない拳悟であるが、それとは別に、彼はここで信じられないショッキングな事実を知ることになる。
二年七組で同じく留年生であったハチャメチャトリオの仲間である勝と拓郎の二人。何と彼らは学期末テストでギリギリの成績を収めて進級が確定しているというのだ。
そればかりではない。自分と同じく欠席日数が危うかった麻未もテスト結果で挽回して進級を難なく勝ち取っていた。つまり、二年七組の落第生は拳悟ただ一人なのであった。
「うおぉぉ~! 俺だけ留年なんて冗談じゃないぜ~!」
拳悟は教務室内で悲嘆の声を張り上げた。クラスメイトのみんなが進級するというのに自分ばかり置いてけぼりなんて悲劇そのものだ。しかも、親愛なる由美とも離れ離れになるのもあまりにも切ない。
「だから三学期の最初に言ったでしょう。真面目に授業に取り組みなさいって」
「……うう、今更そんなこと言われても」
両膝を床につき、ガックリと肩を落として途方に暮れている拳悟。後悔先に立たずを体現したような結果となり嘆くばかりである。
落ちこぼれでもかわいい教え子に変わりはない。まだ留年が決まったわけではないからと、静加は中腰になって彼の肩にそっと両手を添えた。
「さっきも言った通り、追試までにしっかり勉強なさい。いいわね」
「わかったよっ。俺、勉強がんばる!」
「よし、その意気よ。もう戻ってよろしい」
両手でガッツポーズを決め込んだ拳悟であったが、二週間という限られた期間内でどうやって勉強したらよいのかさっぱりわからなかった。しかし、そう宣言しないわけにもいかない彼であった。
* ◇ *
二年七組の教室には、放課後にも関わらずお馴染みの生徒たちが残っていた。
みんながみんな、教務室に呼び出された拳悟の動向が気になっていた。今日は遅刻もしていない、また宿題の提出もなかった。呼び出された理由が思い当たらないだけに気になるのも頷ける。
ハラハラドキドキしながら待ちわびる生徒たちのもとへ、どんよりとした曇り顔をしてフラフラとした足取りで戻ってきた拳悟。事の真相を知らされた生徒たちの反応とは――?
「ハッハッハ、そうか三教科か」
「で、追試が決まったわけだな」
ケラケラと高笑いしたり、ニヤニヤと含み笑いをしているのは拳悟の親友であり悪友でもある勝と拓郎の二人だ。
彼らだって落第一歩手前の学力だったはず。留年だけは回避しようと死に物狂いで教科書と向き合った。それが功を奏して進級を勝ち取ったからこそ、ここで笑っていられるというものだ。
その一方で、笑うに笑えないのは後輩に当たる勘造と志奈竹だ。慰めたり励ましたりするのも気が引けるようで、二人とも口をつぐんで複雑そうな顔をしていた。
「でもさー、ケンちゃんだったら別に不思議じゃないよね」
「アサミさん、それはひどいよっ」
笑うよりも呆れてしまう女子生徒の一人の麻未。無事に進級を手に入れた彼女に苦言を呈するのは、留年や落第なんてまずあり得ない優等生代表の由美だった。
学期末テスト前に努力しなかったのだから当然の報い。麻未からそう突き放されてしまっては、さすがの由美も反論できずに口ごもってしまう。同情だけでは何も解決しないのもまた事実なのであった。
「……信じられん。この俺だけが赤点だなんて」
ショックを隠し切れないのだろう、拳悟は呆然としながら頭を抱えている。
生気すら失い崩れるように机の上に突っ伏した。本来であればこういう時に勇気付けてくれる親友がいるものなのだが。
そこへそっと優しく手を差し伸べてきたのが勝と拓郎の二人。さすが親友である……と思いきや、彼ら二人の表情は憎たらしいほどに歪んだ微笑みだった。
「もう留年は確定したな」
「次の二年生によろしくな」
「ふざけるなっ、まだ決まったわけじゃねぇ!」
拳悟はガバッと頭を持ち上げた。追試の結果次第では進級できると、彼は怒気を含んだ叫び声を教室中に響かせた。
赤点だった三教科で好成績を残せればそれでいいのだ。確かに理屈はそうなのだが、問題はそれができるかどうかなのである。ただでさえ勉強大嫌いな拳悟にそれが実現できるのであろうか。
追試まで残り二週間、しかも三教科ともなれば相当な猛勉強が必要だ。たった一人ではどうにもならない。彼は悔しさと歯がゆさに縛られててショートウルフの髪の毛を掻きむしるしかなかった。
「そういうわけで、もう諦めろ」
「そうそう、無駄なあがきはやめるんだな」
それにしても非道なクラスメイトである。勝と拓郎は応援どころか無情な言動を繰り返す始末であった。麻未や由美から止めるよう制止されてもまるっきりお構いなしだ。
この無礼千万な振る舞いに拳悟の怒りは頂点に達した。髪の毛がゆらゆらと逆立ち、ワナワナと全身を震わせながら仁王立ちする。
「て、てめぇらぁ、それでも人の子かぁ~?」
さすがにやり過ぎたか。仁王様の降臨を目の当たりにして、勝と拓郎は表情を引きつらせて一歩、また一歩と後ずさりする。
「おいおい! ジョークだって、ジョーク」
「そうだよ! ジョークも通じないのかよ」
「ジョークもコークもねぇ! 俺の拳であの世へ行け!」
後悔しても時すでに遅し。二年七組の恒例行事とも言うべきハチャメチャトリオの鬼ごっこが始まってしまった。
こうなってしまうと他の生徒たちにはもうなす術はない。麻未と由美はフーッと重たい溜め息を漏らしながらその様子を見つめていた。
「あの三人は一緒にしとかないと、いろんな意味で危ないね」
「うん、ケンゴさんも絶対に進級してもらわないと」
* ◇ *
二年七組の騒動から少しばかり時間が経ち、ただいま夕方の五時近く。
派茶目茶高校から矢釜中央駅までの道のりの途中、隣り合って下校しているのは拳悟と由美の二人。話題はもちろん、進級できるかどうかの追試のことだ。
「大変なことになりましたね」
「まったくさ。何とかなるって思って毎日過ごしたのがまずかった」
自宅では勉強なんてしない、教科書もノートも学校に置いたまま。学期末テスト前もテレビ観賞、ヒマさえあれば街に繰り出して遊び呆けていた。これでは落第の烙印を押されても文句は言えない。
とはいえ、悔いてばかりいても何も始まらないだろう。追試という重大イベントが二週間後に控えているのは紛れもない事実なのだ。
追試の科目は国語に基礎解析、そして英語。拳悟の独学で国語だけは辞書とのにらめっこでどうにかなるが、問題は残りの二科目、こればかりは一人ではどうにもならない。
彼はすっかり途方に暮れており、足つきもどこかおぼつかなかった。傍に寄り添う由美が支えてあげないと、何かにつまづいたら転んでしまいそうだ。
「あのケンゴさん……」
「ん?」
躊躇いがちに声を掛けた由美。拳悟は気力のない返事をする。
「英語のお勉強手伝いましょうか? わたし、英語ならちょっと自信があるし」
「ほ、ホントかい、ユミちゃん!?」
拳悟は飛び上がるほどに歓喜した。ネコの手も借りたいと思っていた矢先に、まさかのクラスメイトからの善意を喜ばないはずがない。願ったり叶ったりとはまさにこのことだろう。
どうもありがとう! 拳悟ははしゃぎながら由美の両手を握り締めた。
彼女は頬を赤らめて照れ笑いを浮かべていた。好意を寄せる男子と別の学年になるぐらいなら自由時間を犠牲にしてでも全力で支援したい。彼女の表情にはそんな純真な想いが見え隠れしていた。
そうと決まればすぐにも行動開始だ。いつになくやる気になっている彼は早くも勉強会の開催を要求する。
「いつものサ店に行こうよ。コーヒーごちそうするからさ」
「えっ、これからですか?」
善は急げとは言うものの、由美にも由美の都合がある。現在は時間的に夕刻を悠に過ぎており、本格的に勉強を始めたら帰宅が夜になってしまうだろう。
ご承知の通り、彼女には同居するお姉さんがいる。遅くなるのであれば、事情を説明して了承をもらっておかねばなるまい。
「もう少ししたら、姉に電話させてください。心配するだろうから」
「あのお姉さんを怒らせたら怖いもんね。それならお店の電話を借りようか」
勉強会を開催できるかどうかはお姉さん次第。というわけで、拳悟と由美の二人は馴染みのある喫茶店へ足を向けることになった。
* ◇ *
「お姉ちゃん? あのね――」
ここは派茶目茶高校から数十分ほどの距離にある喫茶店。ちなみにお店の名前は”喫茶ランデブー”。
日も沈んで時刻は夕方六時を回った頃。由美はカウンターに置かれた公衆電話から自宅アパートへ電話を入れた。どうやら、姉の理恵は残業することもなく真っ直ぐに帰宅していたようだ。
由美は電話越しに状況をかいつまんで説明した。お友達に勉強を教えるために帰宅が遅くなってしまうことを。
あまり遅くならないことを条件に許しを得ることができた。彼女はゆっくりと受話器を置くと、テーブル席でコーヒーを嗜んでいる拳悟の向かい側に腰掛けた。
「これで大丈夫ですよ。さぁ、始めましょうか」
「すっかり先生気分だね。まずはコーヒーでも飲もうよ」
ちょっぴり張り切り過ぎたか、由美はクスリと笑って恥ずかしそうにはにかんだ。
流れてくるジャズミュージック、そして芳しいコーヒーの香りが安らぎと落ち着きを与えてくれる。ここは勉強会の開催場所としてうってつけであろう。
また丁度いいことに、他のお客もおらず拳悟たち二人の貸し切り状態だった。これなら苦手な勉強にも実が入るというものだ。
コーヒーの深みをたっぷりと堪能し、いよいよお勉強タイムである。
テーブルの上に広げられたのは”たのしくてやさしい英語”というタイトルの教科書。高校の教科書っぽくないが、これが派茶目茶高校の知能レベルとお考えいただきたい。
「学期末テストで間違えたところをチェックしましょうか」
「間違えたところ? ……ほとんどのような気が」
「う~ん、それなら一問目からやりましょう!」
基礎は理解できていても応用はまるでちんぷんかんぷん。これは骨が折れそうだと、由美は不安を抱きつつも気合を込めてワイシャツの袖を捲くった。
一方の拳悟だって試練と困難は覚悟の上。必勝と書かれた鉢巻きを頭に巻いて気合十分だ。
「ねぇ、ユミちゃん、これ何だっけ?」
「疑問文ですよ。ケンゴさん、これ中学校で学んだ……」
「そうなの? それ自体が疑問だよ」
――こんな感じで一時間ほど。由美の熱血指導と拳悟の猛勉強は休みなく続いた。二歩進んでは一歩下がり、三歩進んでは二歩下がりながらも着実に成果は上がっていった。
初日から根詰めると気力低下に繋がる。彼女はそういう心理面も考慮して、本日の勉強会を切れのいいところで締めくくった。
「いやぁ~、疲れたぜっ」
「お疲れさまでした」
おもむろに立ち上がり全身を使ってストレッチ体操を始めた拳悟。由美も緊張していたらしく、首を左右に捻って肩の凝りを解きほぐしていた。
お勉強の終了を見計らっていたのだろうか。ここ喫茶ランデブーのマスターが暖かいコーヒー持参でテーブル席までやってきた。
彼は二つのコーヒーカップと一緒に、ミルクとガムシロップをテーブルの上に置いた。
「ブラックも悪くないが、頭を使った時は甘い方がいい栄養になるぞ」
拳悟と由美は口元を緩めてお礼の気持ちを会釈で伝える。
マスターのお奨め通り、ミルクとガムシロップをお好みで加えたコーヒーを口に含んでみると、不思議なぐらいの高揚感と満足感を得ることができた。勉強も悪くないと思える瞬間でもあった。
粋な計らいと心遣いの男、このお店のマスターは派茶目茶高校出身ということで拳悟と由美の先輩に当たる。
高校時代は拳悟と同様にやんちゃぶりが目立っていたというマスター。臆面もなく自分も留年したことを笑ってカミングアウトするところは肝が据わっている証拠であろうか。
「情けないぞ、ケンゴ。留年が怖くて男やってられるか?」
「いやいや、男だったらカッコよく卒業できないとでしょ」
男同士らしく雄々しい談義に花を咲かせる男性二人。かつて一緒になって愚行したりした仲だけに、会話のやり取りは和気あいあいとして賑やかなものだった。
女子の由美を交えての他愛もない会話はそれから数十分ほど続き、時刻はあっという間に夜の七時を過ぎていた。
「わたし、そろそろ帰らないと」
由美がレースのカーテンを捲って窓から外を覗き見ると、辺り一面は夜の帳が降りて真っ暗だった。
「駅まで送っていくよ」
「お願いします」
防犯上の観点から女子高生が一人で出歩く時間帯ではない。拳悟がしっかりとボディガード役を買って出た。無論、由美はそれを嬉しく思い笑顔を向けて快諾した。
「また来いよ。ここを勉強部屋に使ってくれて構わないからさ」
「ありがとうございます、センパ……いやマスター」
「その代わり、売上貢献ヨロシクなっ!」
マスターとハイタッチして、ひと時の別れを告げてお店を後にする拳悟と由美。勉強会がこんな風に楽しく続けばいいのだが、果たしてこの先どうなることやら。
* ◇ *
追試が決まってから二日後の夜のこと。
『ジリリリリ……、ジリリリリ……』
電話のベルがけたたましく鳴り出した。
「はい、もしもし?」
受話器を上げて応答したのは拳悟、ここは彼の自宅である。
「おう、ミユキか。そうか、いよいよ引越しの日が決まったんだな」
電話の向こうの相手はミユキという名の女性。つい先日派茶目茶高校を卒業したばかりで、拳悟とはかつての同級生でありクラスメイトであった。
彼女は就職先が矢釜市ではない県外ということで、この三月中には会社専用の寮へ引っ越す予定だった。その日程がようやく決まったらしい。
ちなみにこの二人だが、恋仲とはちょっと違うがクラスメイト時代は親しい男女関係だったのは事実で、今日の電話は二人きりのデートの約束についてだった。
――そう、離れ離れになってしまう前の、思い出作りの記念すべきデート。
「明日の午後一時な。待ち合わせは矢釜中央駅でな」
翌日は日曜日、デートするには絶好の日だ。これといった用事もない拳悟はすぐさま了承の意志を示した。
「ムフフ~、明日はデートかぁ、楽しみだね」
健全な男子なら女子とのデートが楽しくないわけがない。ましてやミユキはクラスのアイドルと謳われるぐらいの美少女なのだ。拳悟がルンルン気分になって浮かれるのも無理はないわけで。
(あっ、そういえば、ミユキって……)
自室へと戻る途中、拳悟はふと何かが頭に浮かんでピタリと足を止める。
立ち止まったまま数秒間、顎に人差し指を突き当てながらしばらく考え込んだ、そして。
「よし、カバンぐらいは持っていくか」
* ◇ *
翌日の日曜日。時刻は午後一時を回った頃。
『ジリリリリ……、ジリリリリ……』
電話のベルがけたたましく鳴り出した。
「…………」
ここは拳悟の自宅である。今日は誰も電話に出ない、留守中であろうか?
(……ケンゴさん、いないのかな)
拳悟の自宅に電話していたのは由美だった。数コールほど鳴らして待ってみたが、いつになっても出てくれなかったので止む無くそっと受話器を置いた。
(残念。せっかく予定のない日曜日だったのに)
由美は電話機の前に立ったまま寂しそうに独り言を呟いた。
日曜日ということもあって、もし拳悟の都合が良ければ英語の勉強会を開きたかった。だがその本音は、彼と休日を一緒に過ごしたいという想いがないといえば嘘になる。
少しばかり肩を落としている妹に気付いたのは、のんびりとしたお休みを満喫しようとテレビ観賞を楽しんでいる姉の理恵であった。
「ユミ、どうかしたの?」
「う、ううん、何でもないよ」
いつまでもくよくよしていても仕方がない。そう気持ちを切り替えた由美は、理恵が座るテーブルの向かい側にちょこんと腰を下ろした。
ランチも食べ終わったばかり。とはいうものの、テーブルの上にはデザートのイチゴがガラス製のお皿に盛り付けられている。育ち盛りの女子としてデザートはやっぱり別腹だろうか。
そのイチゴを頬張りながら、仲良し姉妹二人はテレビのクイズ番組を見たり、時折雑談しながら緩やかな昼下がりのひと時を過ごしていた。
「そういえば、お勉強を見てあげてるんだって?」
「うん、英語なんだけどね」
話題の中心は何の前触れもなく勉強会ネタへと移っていく。根掘り葉掘り詮索するつもりはないが、動機や経緯など理恵も気になっている様子だ。
「赤点取っちゃってね、そのお友達。わたしも復習ついでにいい勉強になるかと思って」
当然ながら、由美はここで拳悟の名前を出すわけにはいかない。不良大嫌いの姉と彼の深い因縁は承知の上だからだ。名前を公表せず女子と匂わせる言い方でごまかした。
理恵は勘が鋭くて疑い深い性格。由美は内心ドキドキしていたが、姉はそれほど訝る表情を見せたりはしなかった。勉強そのものは悪いことじゃないからと、それなりの理解も示したようだ。
「ふ~ん、あなたもお人よしね」
「えーっ、そんな言い方しないでよ~」
姉の承諾も得て勉強会に支障はなくなった。ホッと安堵する由美だったが、肝心の拳悟は今頃どうしているのかというと――。
* ◇ *
少々時間が遡り、午後一時まであと五分といったところ。
ここは人の往来が激しい矢釜中央駅。日曜日らしく、駅構内は買い物客や観光客でごった返していた。
待合室の前で佇んでいる一人の女性がいる。肩先まで伸びる黒髪をリボンで結い、
ピンク色のリップがとても愛らしい。
クリーム色のショート丈のワンピースから伸びた両足が色っぽいこの女性こそ、デートのために待ち合わせをしているミユキであった。
腕に巻いた腕時計を見つめると、約束の時間まで残り五分を切っていた。キョロキョロとせわしなく視線を動かしてみても、デートの相手である拳悟の姿は一向に現れる気配がない。
念のために待合室の室内もチラリと覗いてみたが、それらしい風貌の人物は見当たらなかった。
いつものことでまた遅刻かな……。待つことに慣れてしまっている彼女は、待合室のガラス窓にもたれ掛かって小さな吐息を漏らした。
(ふぅ……)
いくら慣れているとはいえ、待ちぼうけというのは心細いものだ。
午後一時まで残り十秒。ミユキは無意識のままにコンクリート張りの天上を仰いだ。
『コツコツ――』
ガラス窓を叩く音だろうか?しかし、雑踏の音にかき消されてミユキの耳には届いていないようだ。
『コツコツコツ――!』
先ほどよりも大きくなった音。ミユキはそれに気付くなり、咄嗟的に待合室のガラス窓の方へ顔を向ける、すると――!
「キャッ!?」
ミユキは悲鳴を上げて仰け反ってしまった。
そこには何と、顔をガラス窓にへばり付けている怪しい男がいるではないか。鼻っ面や頬がべったり張り付いているせいで、これではどこの誰だかさっぱりわからない。
驚きのあまり声を失っていた彼女だが、よくよく凝視してみると……。見覚えのある髪型、そして特徴のある青いネクタイ、この人物はまさか?
「ケンゴくん?」
ご名答である。ネイビー色のジャケットに身を包んだおしゃれな青年、その名も拳悟が待合室の中からここぞとばかりに登場した。
「オッス、ミユキ。久しぶり」
「びっくりさせないでよっ!」
実をいうと、拳悟は約束の時間前にはすでに到着しており、待合室の中で身を隠しながらミユキが来るのを待っていた。
普通に登場したらおもしろくない、そう思い立った彼は午後一時ピッタリにこんな下らない演出を恥じらいもなくお披露目したというわけ。高校生にもなっていったい何をやっているのやら。
「すまんすまん、せっかくだから脅かしてやろうと思ってな」
「まったくもう! あたしはいいとして、他のお客さんに迷惑でしょっ」
「そう怒るなよ。遅刻しなかっただけでもお利口だろ?」
イタズラ好きで子供っぽい拳悟のことを叱責するミユキであったが、そんな彼に惹かれてしまう自分もいてちょっぴり複雑な心境だった。
何はともあれ、こうして無事に合流できたことが何より。彼女はクスッと頬を緩めて胸を撫で下ろした。
「それで、どこへ連れてってくれるの?」
「もちろんゲーセン!」
「いきなりそこ!? もう少しムードを考えてよ」
ムードもへったくれもあったもんじゃない。マイペースの拳悟の手を掴んで颯爽と歩き出していくミユキ。今日のデートは彼女がリーダーシップを発揮しそうな予感である。
お天気も曇り時々晴れというまあまあの好天の中、同級生二人は矢釜市のデートスポットへと繰り出した。
学生時代ではなかなか入店できなかったブティック、アクセサリーショップ、ファンシーグッズのお店などを巡ってウインドウショッピングとしゃれ込んだ。
こんなコースでは男子の拳悟が拗ねてしまうだろう。というわけで、遊技場が連なるエリアまで足を運んで、ボウリングにビリヤード、バッティングセンターで汗を流したりもした。
「こんなに遊んだのは久しぶりだわ」
「俺もだよ。おかげさまでストレス発散できたわ」
ミユキと拳悟は目一杯デートを楽しんだ。下校デートの時とは違う背伸びした大人のデートを満喫した。
とはいえ、楽しい時間というのは瞬く間に過ぎてしまうもの。卒業記念と題したデートもいよいよ終盤。
太陽が商業ビルに隠れていく頃、若い二人はイタリアンレストランでディナーを堪能した。そして、夜のネオンが煌くホテル街へと消えていく――。
* ◇ *
シャワー室は使われた後なのか、換気扇が回っており床も濡れていた。
シャンデリアから照らされるオレンジ色の優しい明かり。真っ白な壁に覆われた四角い空間の真ん中にはダブルベッド。
ジャケットにワンピースなど、脱ぎ散らかされた衣類が無造作に床に転がっている。ここはとあるラブホテルの一室だ。
ダブルベッドの上で仰向けになって寄り添い合っている男女、拳悟とミユキの二人は満足げな表情をして恍惚感に酔いしれていた。
瞳を閉じて幸せそうに微笑む彼女、想いを寄せる男性の腕枕はまさに夢心地と言ったところか。
「お別れするのが惜しいわね」
ミユキは小さな声でポツリと呟いた。今日のデートが終われば、県外にある就職先の寮へ行かねばならない運命が待っているからだ。
「もう二度と会えなくなったらどうしよう?」
「それならそれで仕方がねぇじゃん?」
「もう! 意地悪な人ねぇ」
拳悟の首筋に歯を立ててあまがみしたミユキ。
彼は表情をしかめながらも、彼女の肩をそっと抱き寄せる。
「またすぐに戻ってくればいいんじゃんか」
「そう簡単には帰ってこれないよ 。住み込みみたいなもんだからね」
孤独感いっぱいの寮生活になる。そう語るミユキの横顔には憂いが映っていた。
すぐに帰郷できない理由はそれだけではない。住まいとなる寮が、ここ矢釜市から遠く離れており新幹線や電車一本では辿り着けない先にあるという。
「電話ぐらいはできるけどね。でもさ、声聞いちゃうと余計に……ね」
声は届いても会うことが叶わないもどかしさ――。これがたとえ恋愛に発展しても遠距離になってむしろ悲哀を生むばかり。ミユキは拳悟のことを潔く忘れる決心を固めていた。
「だからさ、早く彼女作っちゃいなよ」
「彼女ね~」
拳悟は天井のシャンデリアをおもむろに見つめる。その時、彼の脳裏を掠めたのは、同じクラスのマドンナの愛くるしい笑顔であった。
「できるものなら、告白してるわな」
「ケンゴくん、好きな子がいるんだ?」
コクッと頷き、嘘偽りなく正直なままに返事する拳悟。
女の子の扱いは器用でも、いざ本気の恋愛となると人一倍不器用になる。縛ったり縛られたりといった息苦しさを嫌い、自由気ままに女の子と遊びたいのが彼の信条だったりする。
それではいつまで経っても幸せにはなれない。ミユキからそう諭されると、彼もその信条ばかりにこだわる恋愛に疑問を感じなくもなかった。女の子のことで弱気になる彼なんて珍しいかも知れない。
いずれにせよ、ホテルの一室でくどくど語り合う話題でもない。今夜は二人きりの夜を最高に盛り上げなければいけないだろう。
「まだ時間は大丈夫だよな?」
「もちろん! これから延長戦に突入よっ」
拳悟の上に馬乗りになるミユキ。かつてのクラスのアイドルが大胆な腰つきをお披露目するのだろうか。――今夜は身も心も燃えたぎる熱い夜になりそうだ。
この先は大人である読者の皆さんのご想像にお任せすることにして、本編は次のシーンに移動することにしよう……とした矢先。
(忘れてた――!)
拳悟は何かを思い出してガバッと起き上がる。しかも、馬乗りになっているミユキを持ち上げながら。
いきなりのことに彼女は唖然としてしまった。いったいどうしたのか?と。
「べ、勉強だよ、勉強!」
「はぁ!?」
勉強と言われてもさっぱりわからないし、せっかくの気分が台無しだ。ミユキは頬を膨らませて不満そうな顔つきだ。
そんな彼女をよそに、拳悟は持参していたショルダーバッグから教科書やら筆記用具を取り出すと備え付けのテーブルの上にそれらを並べ出した。
「おまえさ、基礎解析得意だったよな?」
「うん、一応ね」
ここで拳悟は包み隠さず事情を説明する。学期末テストで三教科も赤点を取ってしまったこと、追試の結果次第では落第し留年が決定してしまうこと、そして一人の力ではどうにもならないことも。
そういうわけで基礎解析の学習に協力してほしい。素っ裸で土下座した彼は恥を忍んでそう懇願した。
寄りによってこんな時に……。ミユキの火照りはスーッと冷めていった。本当にムードもへったくれもあったものではないと嘆くばかりだが、拳悟の頼みともなれば無情に断ることもできないというわけで。
「わかったわ、バスローブ持ってきて」
「サンキュー! 神様、女神様、ミユキ様」
こうして拳悟とミユキのムーディー(?)な勉強会が幕を開けた。
数列やら関数やら、彼はここでも基本からのやり直しが必要らしい。彼女は溜め息交じりながらもとことん付き合うことを約束してくれた。
時計の針は知らず知らずのうちに進んでいく。今夜は身も心も燃えたぎる熱い夜というよりも、身も心も疲れ果てる眠れない夜になりそうだ。




