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第三十一話― 阿修羅工業高校編② 機械科四天王 宣戦布告(1)

 阿修羅工業高等学校――。生徒数は男子のみ四百九十三名。

 矢釜市の中心地から離れた北東部、精密機器工場が集積しているエリアの一角に居座る公立高校。

 在校生のほとんどが素行不良といっても過言ではなく、遅刻、欠席、早退は日常茶飯事で学業もスポーツ活動もまるで機能していない。卒業後の大半の生徒が社会的に批判される進路へ進むと吹聴されるまさに悪の巣窟だ。

 凶暴かつ凶悪な印象から他校の生徒は誰も近寄らず、警察機関が定期的に巡視するなど常に監視下に置かれている学校である。

 この学校は他校に比べて上下関係に厳しいが、それは学年ではなく喧嘩の強さで決まる。その構造はピラミッド型になっており、強き者は幹部として学校を支配することになり、弱き者は最後まで下っ端としてこき使われる運命だ。

「…………」

 ここは阿修羅工業高校の体育館の裏にある部室。入口付近の看板には”応援団室”と書かれているが、この学校には応援団なる組織など存在しない。果たして、誰がここにいるのだろうか?

 緊迫感に包まれた室内にいるのは数人の男子生徒だ。その中には、派茶目茶高校の勝にたった一撃で叩きのめされた番長を含めて配下たちの土下座する姿があった。

「……申し訳ございません。派茶高もんに恥を晒してしまいました」

「ほう、部下が言っていたことは本当だったってわけか」

 先ほど伝えた通り、この応援団の部室には応援団員も応援団長もいない。その代わり、この学校の不良生徒を束ねる猛者たちが居座っていた。

 番長は絆創膏を貼った鼻を床に擦り付けて謝罪した。彼ほどの人物がここまで頭を下げなければいけない相手、そうだ、少し前に触れた“アノ人たち”なのであった。

 アノ人たちの人数は合計で四人。彼らこそ、阿修羅工業高校のトップに君臨する支配者たちなのである。

「おまえほどの男がいとも簡単にやられるとはな」

 肘掛けの椅子にどっしりと腰を据えているのは、リーゼントカットに長い襟足、細く整えた眉で切れ長の目つきをした男子生徒だ。彼の学生服の背中には”虎”の刺繍が縫い込まれている。

 彼のすぐ横にいた生徒がゆっくりと立ち上がる。ウェーブのかかった金髪、ギラギラとした三白眼の目をしており、学生服の背中には”炎”の刺繍が縫い込まれていた。

「でもよ、おまえらそれでおめおめ帰ってきたってわけか、おい?」

 炎の刺繍を持つ男は黒光りしたローファーの靴底を土下座しているタカシの後頭部に押し当てた。そして、グリグリと力を込めて痛め付ける。

「阿修羅工業の看板汚しちまったんだぜぇ? どう責任取るつもり」

 もう一人、髪の毛を剃り落した丸坊主、こめかみ付近に縫い傷がある男子生徒も立ち上がった。彼の学生服の背中には”鯱”の刺繍が縫い込まれている。

 平謝りしているジローの後頭部へ足の裏を叩き落とした鯱の刺繍を持つ男。その直後、ジローの悲痛の叫びが部室内にこだました。

「誰が相手だろうが関係ないな。番長には責任を取ってもらおうか」

 最後の一人、短髪のリーゼント、剃り落とした眉と一重まぶたの細目をしている男子生徒がニヤリと不敵に笑った。学生服の背中には”鬼”の刺繍が縫い込まれていた。

 鬼の刺繍を持つ男が手にしているのは床屋によくあるバリカン。スイッチを入れると、不快な音とともに機械の刃が回転してバイブレーションが発動する。

「ま、まさかそれは――!」

 番長の顔色がみるみる青ざめていく。

 阿修羅工業高校の鉄の掟、負け戦の総大将はみそぎを済ませなければならない。

 鬼の刺繍を持つ男にガッチリと肩を掴まれてしまう番長。抵抗するなんて恐ろしくてできるはずもなく、情け容赦ないお裁きを震えながら受けるしかなかった。

『ジ~、ジ~、ジジジ~』

 バリカンで撫でられた頭は雑草がまばらに残るだけの荒野のようだ。番長ご自慢のリーゼントはわずか数分のうちに坊主頭と化してしまった。

 これでは番長のプライドも威厳もまるでなし。だが、まだこれぐらいで済んで良かった。もしこれが彼ら四人の逆鱗に触れる醜態だったとしたら……それはもう想像ができないほどの制裁が下されていたかも知れない。

 虎の刺繍を持つ男を取り囲むように、他の三人の男たちはドカッと椅子に腰掛けた。これから作戦会議でも開くのだろうか。

「どうする? このままじゃシメシが付かんだろ」

「わざわざ遠くまで出向くのは面倒くさいけどな」

「やるというなら俺がまず偵察がてら行ってやる」

 やられたらやり返すのが道理。刺繍を学ランに背負った男たちは暴れたくて仕方がないのか皆血気盛んだ。

 派茶目茶高校なんぞにのさばらしておくわけにはいかない。阿修羅工業高校の実力を如何なく示さなければいけないだろう。それは、リーダー格である虎の刺繍を持つ男が一番よく理解していた。

「そりゃよ、やらなきゃなんねーだろ」

 虎の刺繍を持つ男はニヤッと不敵に笑う。見開かれた目は狂気に満ちており、全身から醸し出す悪意のオーラも半端ではなかった。

 派茶目茶高校を抹殺する――。そのために、四人の不良学生が動き出す。

 阿修羅工業高校の機械科に属し、混沌とする学内でまさに血で血を洗う闘争に勝利した彼らは、ピラミッド階層の頂点に君臨し絶対的権力を誇示している。

 虎、炎、鯱、そして鬼の刺繍を持つ猛者たち、人呼んで”機械科四天王”――。この学校で彼らに逆らえる者はたとえ教師であっても誰もいない。

「番長、ヤツらのいそうな場所はわかるんだろうな?」

「はい! だいたいは調べが付いております」

 機械科四天王の命令により、番長たち一同は案内役としてすぐに支度を始める。さらに、兵隊となるべく他の生徒たちにも戦闘態勢に入るよう伝達した。

 こうして、市街地で起こった些細ないざこざが発端となり阿修羅工業高校の標的となってしまった派茶目茶高校。これが恐怖に怯える地獄の始まりであった。


* ◇ *

 阿修羅工業高校の脅威。派茶目茶高校の二年七組でそれが騒動になっていた頃、ここは学校から十数分ほど離れたところにある喫茶店だ。

 店名は”喫茶ランデブー”。喫茶店とは想像も付かないネーミングを考えた店長が、昔ながらのサイフォンを加熱して薫り高いコーヒーを抽出していた。

 内装は和風でどこか赴きがあるものの、誰が書いたのかまるでわからない掛け軸やサインが飾ってあって、お客の誰もがコクッと首を傾げてしまうような不思議な店内だった。

 一時限目の授業をエスケープしてここへやってきたのは拳悟と由美の二人。時間が時間なだけに、お客は四人掛けのテーブルで向かい合う彼らしかいない。

「よう、お待ちどうさま」

「ありがとうございます、センパイ」

「おい、センパイじゃねーだろ、マスターと呼べ」

 拳悟の頭にゲンコツを落とした店長、いやマスター。彼の正体だが、実は派茶目茶高校の卒業生でつまり拳悟たちの先輩なのである。

 卒業してからいったんサラリーマンに就職した彼だが、学生時代のやんちゃぶりが悪影響してどうにも馴染めず数ヶ月で離職。その後、知人からの紹介でこのお店の店長を任されることになった。

「でも、マスターはどうもしっくりこないんですよねぇ」

「それじゃあ何か? 俺がマスターっぽくないって言いたいのか?」

 またしてもゲンコツが拳悟の頭上に落下した。このやり取りを見ながら、由美は思わず頬を緩めて微笑した。

 ちなみにマスターは拳悟の四つ先輩なのだが、留年などいろんな事情もあって一年だけ交流があった。その頃から親しくしていたこともあり、今でもこうしてお付き合いをしているというわけだ。

「ケンゴの彼女を拝むことができて良かったよ。かわいい子じゃないか」

「えっ、あの、違いますっ。わ、わたしはただのクラスメイトです!」

 由美が慌てて否定するも、マスターはケタケタと笑うだけで聞く耳を持たない。しっかり見張っておかないと浮気されるぞと忠告までする始末だった。

 一方、やり玉に挙げられた拳悟は苦笑するしかないわけで。ただ内心では、彼女からハイスピードで違いますと拒まれてしまいショックを受けたことは嘘ではないだろう。

「一時限とは言わず、一日のんびりしていけよ。ハッハッハ」

 マスターは豪快に笑いながらカウンターの向こうへと戻っていった。

 お互いに照れた顔を向け合ってコーヒーを口にする二人。芳醇な香りが鼻をくすぐると同時に、コーヒー特有の豊かな苦味が口いっぱいに広がった。

「ケンゴさんはよくここへ来るんですね」

「まぁね、センパイ……いや、マスターからよく電話が入るんだ。売上目標に貢献してくれって」

 有名なコーヒーチェーンや評判のいいコーヒーショップと違い、地元密着型の喫茶店では新規のお客を増やすことは簡単ではない。実際のところ、常連客に頼るのが実情というやつだ。

 そういう理由もあって、拳悟は仲間を誘ったりご近所に紹介したりして営業活動のお手伝いもしているのである。これも頼まれたら断れない義理堅い彼らしさであろう。

「いや、実はね。ここへよく来る理由が他にもあるんだよ」

「他の理由ですか?」

 拳悟がわけありで語ったもう一つの理由とはいったい何だろうか?それから数秒後、由美はその真相を知ることになる。

 パタパタと店内の奥から聞こえてくる足音。それは思いのほか小さくて軽やかだ。

 店内の奥から顔を覗かせたのは幼稚園児くらいの少女だった。ポニーテールに結った髪の毛とどんぐり眼がとても愛らしい。

「おはよう、マスター!」

「やっと起きたか、おはよう」

 マスターと微笑ましく朝の挨拶を交わした少女。お寝坊のせいか衣装が少しばかり乱れていて、パジャマからすぐに普段着に着替えた印象が否めない。

 この少女だが、マスターと一緒に暮らしているところから親族のように見えるが、お父さんでもパパでもなくマスターと呼んでいるところに違和感を覚えるが……。

「あっ、お兄ちゃんだっ!」

 少女がパッと表情を明るくして兄と呼んだ人物。ここにはマスターの他に拳悟と由美の二人しかいないわけで、どう考えてもお兄ちゃんと呼ばれたのは拳悟しかいないということになる。

「よっ、今日も元気みたいだな」

「うん、今日も明日も明後日もずっと元気だよー」

 満面の笑みを浮かべてはしゃいでいる少女。拳悟をお兄ちゃんと呼んで慕う彼女の正体とは?

「ケンゴさんの妹さん……ですか?」

 由美は唖然とした顔で明るく振る舞う少女のことを見つめている。

 この光景を見たら兄妹と思うのが当たり前。でも、妹が他人の家とも言うべき喫茶店の奥からやってきたら複雑な事情があるのではと勘繰ってしまう。

「いや、違うんだ」

 拳悟が言うには、この少女は妹ではないという。だからといって、マスターの娘でも肉親でもないという。これではますます頭がこんがらがってしまうわけで。

 少女は人見知りもせず由美に対してペコっと頭を下げる。そして拳悟の隣にちょこんと腰掛けると、何ら躊躇う様子もなくその複雑な事情を教えてくれた。

「あたし、ママがいなくなっちゃったの」

「えっ、ママってお母さんが?」

 母親が蒸発――?幼稚園児のまさかの告白、これには由美もびっくりである。

 解釈があらぬ方向へ行かないようにと、ここからは拳悟が経緯を含めて説明し始めた。事の始まりは今から数カ月前のことらしい。

「学校帰りの途中、駄菓子屋で肉まんを買って歩いていた時にね……」

 拳悟と少女の出会いのシーンは回想シーンでお届けしよう。


* ◇ *

 空は鉛色の曇り空、寒さが深まってきて暖かい肉まんが身も心も温めてくれる、そんなある日。拳悟は偶然にも、公園のブランコで寂しそうにしている一人の少女を目撃した。

 ピンク色のシャツにフリルのスカート、そしてポニーテールが特徴的な女の子。雰囲気からしてまだ幼児といった印象だ。

 彼女を乗せたブランコが静かに揺れている。人の力よりも北風に背中を押されているぐらいゆっくりだ。ちらりと窺える横顔からは楽しさを感じ取ることができなかった。

(もう夕方遅くなのに、あの子、どうしたんだろう)

 拳悟はお節介と思いつつも少女の傍へと近づいていく。

 一方の少女はというと、夕闇に包まれていた公園内をキョロキョロと見渡してポツリと呟く。ママ、遅いな……と。

 ほかほかの肉まんを一つ袋から取り出した彼。それをそっと少女に向けて差し出してみる。

「いるかい?」

「……えっ?」

 少女は目を丸くして呆気に取られていた。ママならまだしも、見ず知らずの男の子から声を掛けられたら動揺するのは当然だろう。

 警戒しているのか、彼女は数回首を横に振って断りの意思を示した。知らない人から物をもらっちゃいけない、そうママから言われているからだと。

 厚意を受け入れてもらえなかったのは残念だが、小さい女の子にしては言い付けを守ってしっかりしている。拳悟はうんうんと頷いて感心していた。

「ごめんなさい、お兄ちゃん」

「いやいや、無理しなくてもいいよ」

 拳悟はここで困った顔をする。実をいうと、これ以上肉まんを食べてしまうと楽しみにしているディナーに影響を及ぼしそうだからだ。

「お兄ちゃん、お腹がいっぱいになってこれ食べられそうにないんだよ。だからどうかな、と思ってさ」

 家に持って帰っても残すだけ。とはいえ、捨てるなんてもったいない。いっそ、公園をうろつく野良猫にでも上げてしまおうか。拳悟はそんな台詞を零しながら公園内をクルクルと見回した。

 それをぼんやりと眺めていた少女、最初こそ興味なさそうだったが、彼が本当に困っているように感じて時間の経過とともにそわそわし始めた。そして――。

『グゥ~~』

 少女は恥ずかしそうにお腹に片手を押し当てる。夕方遅くともなれば誰だってお腹の虫が騒いでしまうはず。

「待って、お兄ちゃん!」

「ん、どうかしたかい?」

「あたしに頂戴、肉まん」

 野良猫に上げるぐらいならと、少女は恥じらいながら両手を差し伸べた。言い付けを守るよりも空腹を紛らわす方を選択したようだ。

 しっかりしていてもやっぱり育ち盛りの女の子だな。拳悟は厚意が実を結んだ嬉しさからニッコリと微笑んだ。

 肉まんを頬張りながら夕暮れのひと時を過ごす少年と少女。歳の差は離れていても、不思議と打ち解けてしまう二人であった。

「ふーん、ママを待っていたのか」

「うん、あたしね、ママがいつもお出掛けすると置いてけぼりなんだぁ」

 少女は身の上話を淡々と話した。母親しかいない母子家庭であること、母親はいつも仕事が遅くて独りぼっちが多いことなどを。

 それでも彼女は泣いたりせず明るく振る舞っていた。普段からおしゃべりの相手がいないこともあって、拳悟みたいに気さくに接してくれた人に心を解放したくなったのだろう。

「でもねー、今日はいつもよりもお迎えが遅いんだよね」

「もう少ししたら夜になるもんな。まぁ、もうすぐ来るんじゃないか?」

 少女の表情は宵闇に暮れるほど暗くなっていた。母親がいつになっても迎えに来ない寂しさ、孤独感が幼女の心をより窮屈にしていたようだ。

 一抹の不安を拭えないまま拳悟はブランコから立ち上がる。彼だって帰らなければいけない家があるのだ。

「お兄ちゃん、もう帰っちゃうの?」

「一緒にいてあげたいけどな、さすがにお兄ちゃんもママに怒られちゃうし」

 余談ではあるが、拳悟の母親はそれなりに厳しい。門限を設けてはいないものの、あまり帰宅が遅くなってしまうとディナーのおかずが減らされてしまう恐れがあるのだ。食べ盛りの彼にしたら大問題なのである。

 あと少しの辛抱さ!彼はそう慰めながら少女の頭を優しく撫でてあげた。今、彼にできるのはこれが精一杯だった。

「バイバイ、また会ったら遊んでね」

「うん、約束しよう。またな」

 後ろ髪を引かれながらも公園を後にする拳悟。少女の悲痛の表情が頭から離れなくても、彼は気掛かりを引きずったまま家路へと急ぐしかなかった。

 ――それから時間が流れて夜がやってきた。それぞれの家庭からおいしい香りが漂ってくる。

 それは拳悟の自宅も同様で、これから楽しいはずのディナーの幕開け……と思いきや、それをぶち壊す事件が勃発してしまった。

「すき焼き食べるってーのに、生卵がないってどーいうこっちゃ!」

 すき焼きと言ったら生卵だろう。冷蔵庫を隈なく探しても見つからなかった卵のパックを購入すべく、拳悟は自宅を飛び出して近所のスーパーマーケットまでダッシュした。

 卵がなくてもすき焼きは十分においしくいただける。そう思われる読者もいるだろうが、ごちそうはきちんと定番でいただくのが彼のポリシーなのであった。

 暗がりの中を走ること十分以上は経過したであろうか。彼はすっかり人気がなくなった公園の脇に差し掛かった。そう、あの少女と出会った公園だ。

(――ん、ちょっと待てよ!?)

 拳悟の横目に映り込んだのはブランコで揺れている少女の後ろ姿。

 大慌てで急ブレーキを掛けて立ち止まる彼。生卵もお楽しみのディナーも忘れて、静寂に包まれた公園内へと向かっていった。

「おい、まだいたのか!」

「あっ、お兄ちゃん!」

 夜になっても少女はまだそこにいた。迎えに来るはずの母親を待ち続けていた。

 これはどう考えてもおかしい。いくらなんでも大切な娘を公園に放置したまま外出している母親なんていないはずだ。拳悟は最悪の事態まで想定してしまう。

 いずれにせよ、この寒空の下では風邪をこじらせ兼ねない。母親の迎えを待たずに家に帰ろう、送ってあげるからと手を伸ばす拳悟であったが……。

「あたし、お家までの道がわからないの……」

 寒さと寂しさから来る不安を瞳に映している少女。ここで不安をさらに煽る信じられない事実が明らかとなる。

 少女は母親に連れられてここまでやってきた。ところが、ここは彼女の自宅から遠く離れたまったく知らない土地だったのだ。幼児一人で帰宅など到底不可能なほどに。

 家路までの道のりがわからないとなると拳悟でも送りようがない。これでは八方塞がりで成す術なしである。

(参ったな。何かいい方法はないだろうか)

 腕組みしながら思案に暮れる拳悟。

 少女をこのまま引き取って一緒に暮らす?それとも、一緒に母親探しの旅に出掛ける?世界名作劇場ではないのでそれは許されるものではない。

 悩んでいても時間ばかりが経過してしまう。彼は結局、相談できそうな人に頼ってみるしかなかった。

 公園内の電話ボックスへと駆け込んで知り合いに電話を掛ける。そのアドバイスを頼りにして彼はすぐに行動を開始した。

「あのさ、ママがやってくるまでしばらく俺の知り合いのところへ行こう」

 母親はきっと蒸発したに違いない。受け止めたくない現実だがそう言わざるを得ないだろう。一時的に預かってくれる場所を確保した拳悟は、交番にも立ち寄って状況を説明しつつそこまで導いてあげることにした。

 事態をすぐに飲み込めるわけもなく呆然としたままの少女、しかしその数秒後、涙をポロポロと零しながら承諾を示すように小さく頷いた。

 お互いに手を取り合い、寒さを紛らわせながら向かう先こそ彼の先輩が経営している”喫茶ランデブー”。そして、現在に至るのであった。


* ◇ *

「そういうことだったんですね」

「だから、俺もこうして時々様子を見に来るんだよ」

 喫茶店での居候生活が始まって数ヶ月、いまだに母親の消息がわかったという吉報は入っていない。そろそろ何かしらの連絡があってもいいはずだが。

 ――いや、もしかすると今更合わせる顔がないと思って姿を見せることができないのかも知れない。娘を放置して行方をくらましているのだから。

 母親に対する無責任さに憤りを感じずにはいられなかったが、それでもこうして難なく生活できていることが不幸中の幸いというものだ。

 複雑な事情を知って由美は胸の奥が熱くなった。親元を離れて暮らしている彼女もちょっぴり人恋しい私生活を送っているからだ。

「ママがいないとやっぱり寂しいでしょ?」

「ううん、ぜんぜん寂しくないよー。マスター優しいし、お兄ちゃんはもっと優しいもん」

 屈託のない笑みを浮かべる少女。どうやら由美の心配は無用だったようだ。

 父親や母親がいなくても頼れる人たちがいる。その心強さが一人の少女をより成長させてくれたのだろう。ただ、拳悟の腕にすがりつく姿はまだまだ子供のようだが。

「うん、ケンゴさんは本当に優しい人だよね!」

「おいおい、ユミちゃんまで勘弁してくれよっ」

 二人の女の子から羨望の眼差しを向けられて、拳悟はさすがに照れくさくなって窓の向こうの景色へ視線を飛ばすしかなかった。

 学校の一時限目が始まっている朝のひと時。ジャズの演奏が流れるこの喫茶店にももう一つのドラマがあった。


* ◇ *

 物語の舞台は派茶目茶高校二年七組へと移る。

 志奈竹がポケットにしまっていた金ボタン。それが派茶目茶高校にとって非常事態を意味するものだった。

 拓郎が念のためにと思って金ボタンを凝視してみる。阿修羅を象った紋章は間違いない、阿修羅工業高校の校章だ。

「……ということは、俺たちは阿修羅に喧嘩を売ったってことか?」

「ま、まさかあの連中が。冗談じゃねーよ、学区外なのに何でいるんだ?」

 勝は頭の整理ができなくて髪の毛を掻きむしった。だが阿修羅工業高校の番長たちとやり合ったのは紛れもない事実であり、ここにある金ボタンがそれを証明していた。

 拓郎に須太郎、そして地苦夫に中羅欧も表情から明るさが失せていた。阿修羅の看板がどれだけ強大で恐ろしいか知っているからだ。

 それを具体的に知り得ない志奈竹はキョトンとした顔をしている。

「阿修羅って、いったい何者なの?」

「何だ、ボウズ。おまえ阿修羅を知らないのかよ」

 無知である志奈竹のために、地苦夫が阿修羅工業高校の解説を始めた。

 矢釜市の中心部からずっと離れた矢釜海岸方面、工業団地の傍にどっしりと構えている男子校。不良の溜まり場で暴力沙汰は日常茶飯事、警察も手を焼いている危険な学校だ。

 困ったことに阿修羅工業高校は上下関係が徹底しており、下の者を小突いたら上の者が、それを小突いたらさらに上の者が報復に動き出す、そういう極道のような組織なのだ。

「でも、番長をやっつけたんでしょ? それならもう上はいないんじゃないの」

 志奈竹の疑問はもっともで、番長クラスを撃退したということはもう報復なんてないのではないか?確かに納得できなくはないが、地苦夫の表情にこれといった変化はなかった。

「いや、そんな単純じゃねーんだよ、あの阿修羅ってヤツは……」

 二年七組にどんよりとした暗い影が落ちていく。

 みんながみんな無口となってしまう中、ポツリと一言呟いたのは冷静沈着が売りの須太郎であった。

「……そういえば、ケンゴはどこにいるんだ?」

 ただいま、一時限目の授業が終わった後の休み時間。拳悟はまだ登校していなかった。ご承知の通り、彼は授業を堂々とサボって由美と有意義なコーヒータイムを楽しんでいたからだ。

 肝心な時に限っていないものだから、勝と拓郎だけではなく二年八組のメンバーも焦れるばかりである。いつも貶してばかりいてもいざという時には頼りになる男、統率力があるリーダーとして認められる存在なのだ。

 さすがに二時限目も欠席するのは学生としてあるまじき行為。これはもちろん優等生の由美の発案ではあったが、拳悟は渋々ながらもようやく二年七組の教室に姿を現した。

「諸君、おっはよう!」

 遅刻しておきながらさわやかな笑顔で挨拶を交わす拳悟。その横で、後ろめたさ満点の由美も控え目ながらクラスメイトの前でお辞儀をした。

 ここは一つ物申さねばなるまい。遅刻はいつものことだが由美が一緒というのは許せないと、勝はズカズカと靴音を鳴らしながら詰め寄っていく。

「やい、ケンゴ! てめぇ、また遅刻か。それよりもユミちゃんと一緒なのはどういう理由だっ!?」

「えーい、控えろ、控えろ!」

 拳悟は一枚の紙切れを突き出した。さも、水戸黄門様の印籠のごとく。

 その紙切れの正体は”遅延証明書”。由美が矢釡中央駅から発行してもらった遅刻を無効化にできる貴重なアイテムである。

「電車が事故ってこの有り様よ。どうだ、これなら文句あるまい?」

「バカやろう、おまえは電車通学じゃねーだろうが!」

 こんなオチで終わればクラス内にも爆笑が起きる。それが一体感を生む二年七組の良いところなのだが、今はそんな状況ではない。拳悟は机に付く間もないままに勝から襟足を掴まれて引っ張られていった。

 教室の隅っこに集まる男子生徒たち。そこにお隣の二年八組の三人組もいるものだから物々しさ満点だ。由美は不思議そうに首を傾げながら自分の席へと着席する。

 意味も分からず強引に引っ張られた拳悟も同じ心境だ。いったい何事だ?と問いただした彼だが、その数秒後には信じ難い現実を突き付けられることになる。

「はぁ!? それマジかよ」

「マジ、大マジだ」

 あの阿修羅工業高校を敵に回してしまった――。バトルにおいて百戦錬磨の拳悟でも、こればかりは容認したくはなかった。

 事の発端は数日前の日曜日、チンピラ風情の悪ガキと肩がぶつかり、少しだけお灸を据えてやろうと調子に乗って威張って見せた。それが報復となって跳ね返り、気付いた時には番長まで蹴散らしてしまっていた。

 これもすべては”短気は損気”が招いた結果。いつもは笑ってごまかす勝も今回ばかりは反省するしかない。仲間たちの曇った顔色を窺えばそれもやむを得ないところだろう。

「で、被害とかはどうなんだ?」

「いや、まだない。番長やったのが昨日のことだからな」

 被害といえば勘造と志奈竹の二人が怪我を負ったものの、それ以外に影響の余波はない。

 とはいえ、この先いつ、どこで、誰がターゲットにされるかわからない。いや、もしかすると何もトラブルが起こらないことだってあり得る。つまり、拳悟と勝にしたら現時点ではどうしてみようもないのが実情だった。

「このこと知ってるのは?」

「ここにいる俺たちだけだ」

 まだここだけの秘密にしておこう。公表して学校内をパニックにしない方がいいと、拳悟たち全員はそう判断して他言しないよう約束し合った。

 これにて短い休み時間での作戦会議はいったん散会となった。それぞれが、どうか大騒動に発展しませんように……と神に祈りを捧げながら。

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