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第二十九話― チョコレートこわ~い! バレンタイン大激走(2)

 それから午前中の授業が終わり、時刻は十二時を回ってお昼休憩となった。

 ここまでの休憩時間、教室まで親衛隊が押し寄せてくる場面もあったが、クラスメイトたちの協力もあってこれといった大きなトラブルもなく無難に時間が流れていった。

 お昼のお弁当も教室で済ませて一歩足りとも机から離れない拳悟だったが、生理現象だけは我慢するわけにはいかない。彼はトイレに行くためにもう一度変装をする羽目となった。

 サングラスにマスク、さらに野球帽子を目深に被っていざ教室のドアをそっと開けてみる。すると案の定、親衛隊の面々が所狭しと教室前を陣取っていた。

 周囲の迷惑を考えない不届きな行為に物申したいところだが、ファンを公言してくれるのも男性としてはやっぱり嬉しい。彼は複雑な感覚を抱きつつトイレに向かって歩き出した。

『ドドド――!』

 次の瞬間、押し寄せる波のごとく激しい足音を耳にした拳悟は全身が硬直してその場に立ち止まってしまった。

 恐る恐る振り返ってみると、そこには彼のことを睨んでいる親衛隊の女の子たちがいた。みんな目が血走っていて、戦慄を感じさせるほどに鬼気迫る様相だった。

「あはは、お、俺に何か用かい?」

「ケンゴ先輩ですよね? ごまかしても無駄ですから」

 さすがはファンだけに臭いでわかるのだろうか、彼女たちは拳悟の完璧な変装を見破ったようだ。ここまでわざとらしい変装なら、ちょっと鈍感な人でも気付いてしまうかも知れないが。

 拳悟はそれはもう必死になって言い逃れようとした。本物の拳悟は今日は欠席だからと、自分自身が偽者と告げているようなもので言い訳も支離滅裂であった。

 ここで会ったが百年目。彼女たちはこの絶好のチャンスを逃すまいと一斉にチョコレートを差し出した。――いよいよお待ちかね、バレンタイン攻防戦が幕を開けてしまった。

「うぎゃあ~、チョコレートこわ~い!!」

 悲鳴を上げながら廊下を駆け出していく拳悟。そして、彼のことを黄色い声を上げながら追い掛けていく親衛隊の女子たち。それは傍目で見たら異様な光景で、廊下でたむろしている生徒たちも唖然とするばかりだ。

 いくら運動神経抜群の彼でも、狭くて滑りやすい廊下を逃げ続けるには限界がある。しかも、追っ手が一人ではなく十人以上もいるので逃げ切ることもまず不可能に近い。

 親衛隊も執念なのか追走の足を止めようとはしない。廊下にいる男子生徒を弾き飛ばしながら突進してくる様は、さも特攻隊を彷彿とさせる勢いだ。

(それにしてもしつこいな! このままじゃ捕まるじゃないか)

 さすがの拳悟も走るペースがだんだん落ちてきてしまった。息継ぎしにくいマスクや動きにくい学生服など、変装グッズが彼の体力をさらに奪っているのは明白だった。

 ここで不運とは重なるものなのか――。背後にばかり気を取られていた彼は、進行方向の曲がり角から近づいてくる一人の男子生徒に気付くことができなかった。

『ドッカーン!』

「どわぁ~!?」

 曲がり角での出合い頭、二人の男子生徒が激しく衝突した。

 野球帽子やサングラスが宙を舞い、マスクすらも口元から外れた拳悟は床の上に転げ落ちてしまった。

 全身を痛打してしまった彼。ここで痛みのあまりのたうち回るのが普通の男子だが、彼は痛みよりも怒りの方が先行したのかすぐさま起き上がると、尻餅を付いている男子生徒の胸倉を掴んで無理やり立たせた。

「ど、どこ見て歩いてやがる! この俺がどれだけ苦労してるかわかってるのか? 殴るぞ、この野郎」

「わー、わかるわけがありませんが、どうか許してくださーい!」

 一方的に因縁を付けられた挙句、握り拳まで振り上げられてしまっては男子生徒も恐ろしくなってひたすら謝るしかない。こんな理不尽な思いをさせられてしまうのは脇役の悲しい宿命というやつか。

「あっ、やっぱりケンゴ先輩に間違いないわ!」

「――ヤバイ!」

 拳悟は拳悟で男子生徒相手に憤慨している場合ではなかった。変装が解かれた以上、もう偽者ではなく本物として親衛隊の魔の手から逃げなければいけないからだ。

 女の子に取り囲まれるあと一歩のタイミングで、つまづきそうになりながらもその“チョコレート包囲網”からの脱出に成功した彼は、逃げ場を求めて階段をがむしゃらに駆け上がっていく。

 親衛隊だってここで引き下がるわけにはいかない。拳悟の背中を追って、階段をドカドカと足音を轟かせながら駆け上がっていく。――その場に無関係な男子生徒を一人だけ残して。

「な、何だったんだ、今のは……?」

 それはさておき、拳悟と親衛隊が繰り広げる校舎を舞台にしたバレンタイン攻防戦はまだまだ続く。

 追う者と追われる者、心理的には追われる者の方が精神面も肉体面も疲労感が増すはず。彼もスーパーマンではないのでそろそろ体力の限界に近づいてきた。

 額から流れてくる汗が目に入って視界も薄らぎ、さらに意識まで薄らいでしまいそうになる中、彼は幸運にも逃げ場と成り得るスペースまで辿り着いた。それは女子禁制の男子トイレであった。

 滑る廊下の上で急ブレーキを掛けた彼は、藁にもすがる思いで男子トイレへと逃げ込んだ。これでは親衛隊の面々もあからさまに強行突入するわけにもいかず、ドアの真ん前で足止めを食らってしまった。

「う~ん、困ったわね。ねぇ、どうする?」

「待ちましょう。どうせ、ここから出られるはずもないんだし」

 男子トイレの出入口はここに一つだけ、つまり袋のネズミである。拳悟が観念して出てくるまで親衛隊の女子たちはここで待機することにした。

 彼女たちが言う通り、トイレという空間は基本的に出入口が一つであとは窓があるぐらい。ここは校舎三階であるため、窓から脱出するなんて到底できっこないわけだが……。

(よし、これぐらい長ければ届くだろう)

 親衛隊の思惑とは裏腹に、拳悟はすでに脱出の準備に取り掛かっていた。

 彼が持ち出したのは用具置き場に置いてあった水道のホース。長さにして五メートルほどはあろうか。これを使っていったい何を始めようというのか?

 長い水道ホースの先端を便器のパイプ管に縛り付ける。そして、もう一方の先端を窓の外に放り投げた。もはやおわかりと思うが、このホースを伝って階下まで逃げようとする無謀な作戦なのである。

 窓から顔を覗かせてみる彼。宙ぶらりんになっているホースの先端が階下の窓まで到達している。第一段階はクリアといったところか。

 結び目をしっかりと確認し、ホースの強度も念入りに確認した。いよいよ作戦決行ではあるが、一つ間違えば学校中に知れ渡る重大事故に繋がるだろう。とにかく慎重に行動しなければならない。

「ひえ~、俺は映画のスタントマンじゃないんだぞ~」

 窓から身を乗り出した拳悟は、ホースを両腕でガッチリと掴んで壁伝いにゆっくりと降りていく。一応警告しておくが、良い子のみんなは危ないから絶対に真似しないように。

 外気は当然ながら冷たくて、感覚がなくなるほど両手が凍えている。眼下を一瞬でも見たら気が遠くなるようなめまいに襲われる。それでも彼はもう後戻りすることはできない。

 デンジャラスなクライミングを続けること数分後、彼はどうにか目的の窓まで無事に辿り着くことができた。しかし、冬場の校舎では窓など開いているはずもなく校舎内へ入る術がなかった。

 ホースを揺らして振り子の原理で窓を蹴破ろうとも考えた彼だが、それこそアクション映画のようにうまくいくわけもなくしばらく辛抱の時間が続いた。

(お~い、誰かここを通ってくれ~!)

 窓の内側は校舎の三階と二階を繋ぐ踊り場だった。拳悟は両足を使って窓をドンドンと叩きまくったものの、お昼休みの割には思いのほか通行人がおらず気付いてもらえない。

 ホースを握る両手も痛み出して鍛え抜かれた精神力も残りわずか。彼が怪我も覚悟で一階へ飛び降りようとした瞬間、奇跡的にも窓の内側に人影が映った。

 丁度、三階から二階へと下りてくる一人の女子生徒がそこを通り掛かった。ドンドンと異様な音をキャッチした彼女は、窓の方向へ視線を合わせるなり悲鳴にも似た絶叫を上げた。

「頼む! カギを開けてくれっ」

 状況がまったく掴めないながらも、まずは人命救助が最優先。女子生徒はすぐに開錠して窓を目一杯開け放った。

 九死に一生を得るとはまさにこのこと。拳悟はようやく校舎内に戻ることができた。一生分の忍耐力を使ったといっても過言ではなく、彼はぜーぜーと息を切らして踊り場でうずくまってしまった。

 女子生徒の心優しい介抱もあって、彼は少しずつ体温も上昇して気力を取り戻していった。

「いや~、ホントに助かった。恩に着るよ」

「いえ、どういたしまして。手品とか余興か何かの練習でもしてたんですか?」

「えっ? えーと、曲芸の練習みたいなもんかな、ははは」

 窓からホースを垂らして階下に脱出できたのだから、これも立派な曲芸であろう。拳悟は恥じらいながらジョーク混じりでごまかすのが精一杯だった。

「あれ、もしかして勇希拳悟さん……ですか?」

 さすがは派茶目茶高校屈指の有名人。顔と名前がハッキリ一致していないようだが、女子生徒は拳悟のことを知っているようだ。

 ただでさえ女子の大群から逃げてきた直後ともあって、彼は女子から名前を呼ばれただけで全身がビクッと震え上がった。命の恩人に嘘を付いてはいけない、彼は心音をバクバクさせながらそっと頭を縦に振ってみる。

「わぁ、タイミングピッタリ!」

「えっ、もしかして、まさか……?」

 ――そのまさかである。女子生徒は躊躇うこともなく、肩からぶら下げている愛らしいポシェットからリボン付きの箱、つまりバレンタインチョコレートを取り出した。

「丁度、チョコを渡そうと思って教室に向かっていたんです。どうか、受け取ってください!」

 本日何発目のチョコレート攻撃であろうか。拳悟は顔中から血の気が引いていき、悪寒のせいで体中がガクガクと大きく震え出した。チョコレート嫌い特有の拒絶反応というやつだ。

 相手が命の恩人だろうが神様だろうが関係ない。女子生徒のハートもチョコレートも受け取ることなく、彼は猛烈なスピードでそこから逃げ出していった。さっきまでの疲労感などどこかへ吹き飛んでしまったかのごとく。

「あっ、待ってくださ~い!」

「ひぎゃあ~、チョコレートこわ~い!!」

 親衛隊に追い回されて、校舎の壁でクライミングする羽目になって、見知らぬ女子生徒からも逃走する結末となった大騒動もようやくおしまい。

 どうにか無傷で教室まで戻れた拳悟だが、誰とも口が利けないほど呼吸困難に陥ってしまい、仲間たち数人の手を借りて何とか自分の席まで辿り着くことができた。

 椅子にもたれかかって激しい息継ぎをしている彼。それを哀れみの視線で見つめるクラスメイトの女子三人。その中には、チョコレートをカバンに眠らせたままの由美の姿もあった。

「変装が見破られたおかげで大変な目に遭ったそうですわ」

「ここまで来ると、さすがにかわいそうになっちゃうわね」

 こればかりは同情せざるを得ないのか、舞香と麻未の二人は溜め息交じりで表情を曇らせていた。由美も決して他人事にできるわけもなく、その悲しげな表情は心痛を表しているかのようだ。

 チョコレートを渡すという行為、そこに戸惑いと罪悪感が付きまとう。由美はどうしていいのか迷走し押し黙ることしかできない。

「ユミちゃんまで元気なくしてどーするのっ」

「キャッ!?」

 由美はいきなり頬っぺたを指で突かれてびっくりしてしまった。誰の仕業かというと、人差し指を一本伸ばして意地悪っぽい笑みを浮かべている麻未であった。

 麻未はクラスメイトとして由美を応援したかった。チョコレートが無駄になったとしても、せめて言葉だけでもしっかり気持ちを伝えなさいと彼女はそうメッセージを贈ってウインクを一つした。

(うん、そうだよね……。まだ渡すチャンスはあるんだし)

 お昼休みも終わり、午後の授業開始のチャイムがスピーカーから鳴り響いた。

 自らの席に着くなり、カバンの中から教科書とノートを取り出す由美。その時、ラッピングした小さな箱に指が触れた瞬間、それにもう一度優しく触れて祈るようにそっと目を瞑った。

(神様、どうかわたしに勇気を与えてください)


* ◇ *

 時はあっという間に流れて放課後の時刻を迎えた。

 ついに拳悟が学業という名の拘束から解放される時間がやってきた。それはつまり、バレンタインという恐怖のイベントからの解放を意味していた。

 授業終了のチャイムとほぼ同時に席を立つ彼。いつもなら、仲間と寄り道をどうするかといった雑談をしたりもするが今日ばかりはそんな余裕はない。親衛隊に取り囲まれる前に早いところ校舎から逃げ出さなければいけないのだ。

「それじゃあ、皆の衆、あばよっ!」

 拳悟はお別れの挨拶もおざなりにして誰よりも早く教室を出ていってしまう。チャンスらしいチャンスもなく、結局チョコレートを渡すことができなかった一人の恋する乙女を残して。

「――あっ」

 由美はチョコレートを渡す機会を作るどころか、声すら掛けることを躊躇ってしまっていた。そもそも人が大勢いる中で堂々と渡すなんて勇気もなく、かといって教室の外に誘ってしまうと親衛隊に取り囲まれてしまう恐れもある。

 今となっては言い訳になってしまうが、彼女は最後の最後までそれらしい機会を与えてもらえないままこの放課後の時刻を迎えてしまったというわけだ。

「もしかして、ユミちゃん渡しそびれちゃったの?」

「う、うん……」

 麻未の問い掛ける声が由美の心にグサッと突き刺さった。いろいろと応援してくれたのに、目標を達成できなくて面目ないといったところか。

 相手がチョコレート嫌いなら仕方がない。麻未も困り切った顔でそれを受け止めるしかなかった。むしろ、チョコレートを渡すチャンスを作ってあげることができなくて申し訳なさそうだった。

 カバンの中でひっそりとしまわれたチョコレート。賞味期限が切れることはないが、バレンタインデーを過ぎてしまえば時機を逸したただのお菓子に変わってしまうだろう。

「ユミちゃん、どうする? 女の子だけで残念会でもやろうか?」

 女子だけで集まって恋の話をするのも悪くはない。学校帰りの寄り道がてら、矢釜中央駅周辺の喫茶店でチョコレートパフェでも食べようと誘ってきた麻未。

「マイカ、あんたも付き合いなよ」

「ええ、構いませんわ」

 舞香は口元を緩めて了解の意思を示した。しかもお嬢様らしく、飲食代をごちそうしてあげようと気前良く申し出てくれた。

 センチメンタルな気分の時ほど、こうして人から優しくしてもらえるのは本当に嬉しくてたまらないはず。由美は親友二人の心遣いに涙ぐんでしまうぐらい胸が熱くなった。

 いつもの由美なら快く承諾して大きく頷いていたであろう。だが、今日だけは違った。彼女のバレンタインデーはまだ終わってはいない。そう、まだ諦めるわけにはいかないのだ。

「二人ともゴメン。わたしね、ケンゴさんのこと追い掛けてみる」

 由美はペコリとお詫びすると、カバンを片手に抱えて脇目も振らずに駆け出していった。チョコレートよりも、心の中にしまってある熱意と勇気を伝えるために。

 教室から由美が消えてしまった後も、麻未と舞香の二人はしばらく呆気に取られたままその場に立ち止まっていた。

「ユミちゃん、今日はいつもと違ってたくましいですわね」

「まぁ、あたしがけしかけちゃったからね~」

 恋する乙女の努力はきっと報われる。麻未と舞香はそう信じてやまなかった。残念会そのものは中止となったが、どこか不思議と心が晴れやかになる彼女たちであった。

 さてさて拳悟はその頃どうしていたかというと、静まり返った下駄箱で外履きに履き替えるタイミングだった。

 授業終了してから約一分少々、これだけ早ければ待ち伏せは食わないだろう。彼は余裕の笑みすら浮かべていざ校門がある前庭へと躍り出た、が――。

「うそぉぉ~!?」

 びっくり仰天して拳悟は前のめりになってズッコけてしまった。

 何と前庭にはすでに親衛隊が軍勢を敷いて待ち構えていたのだ。ただでさえ男子トイレの一件もあってか、彼女たちは捕獲アイテムまで持参して包囲網をより拡大していた。

 どういうわけか、待ち伏せしていたのは女の子ばかりではなく男の子の姿もちらほら見受けられる。まさか、拳悟の男気に惚れ込んでいるそっち系の男の子であろうか?

 この種明かしをさせてもらうと、親衛隊からチョコレート一つで買収されたモテない男子諸君だったのである。義理よりもレベルの低い贈り物で心を動かされる連中もちょっとどうかと思うが。

「そういうわけだから覚悟してください!」

「そういうわけもくそもねーだろ、そんなチョコもらって嬉しいか!?」

 親衛隊にとってはこれがラストチャンス。少人数のグループを形成して、校門までの道のりにいくつかのバリケードを築き上げた。

 こうなったら強行突破しか道はない。拳悟はローファーのつま先を地面でコツコツ叩いて履き心地の調整を図った。逃走の途中、つまづいて転んだりしないようにと。

 チョコレートを渡すべくバレンタイン攻防戦もいよいよこれが最終決着。拳悟と親衛隊、軍配が上がるのはどっちだ――?

「さぁ、行くわよ!」

 親衛隊の第一グループが横に広がりながら走り出した。横一列に壁を作って道を塞ごうとする作戦のようだ。

「ここまで来て捕まってたまるかよ!」

 拳悟はフェイント動作といった素早い身動きにより、女の子たちの壁を巧みにすり抜けた。体育の成績だけはずば抜けて優れているだけに、彼に取ってこの辺りはお手の物である。

 それでもまだ第二関門が待っている。第二グループと第三グループが合同で仕掛けたロープの罠だ。今の勢いで突っ込むと、ロープが体に引っ掛かって転倒してしまう。

(そんな子供騙しのトラップ、俺には通用しないぜ!)

 横一直線に伸びるロープの高さを見極めた拳悟は、まるでハードル競争の要領で軽々とロープの罠を飛び越えることに成功した。

「ああっ、逃げられちゃったわ!」

「も~う、悔しい!」

 足止めすらできずに地団駄を踏んで悔しがる各グループの女子たち。もうやけくそになったのか、大切にしていたチョコレートまで投棄する始末であった。

 生来の運動神経を駆使してここまで順調の拳悟であったが、次の関門がすぐそこまで迫っていた。

「今よっ!」

 その直後、拳悟の視界の一部に網目状の陰が映った。

 嫌な予感がしてすぐに顔を上げると、驚いたことにどこから持ち出したかは定かではないが、合成繊維で頑丈に編み込まれたネットが宙を舞っているではないか!

 それは親衛隊最後のグループが仕掛けた最後のトラップ。このネットに捕まってしまったら最後、脱出するのは不可能と思って間違いない。いよいよ彼も年貢の納め時がやってきたか――!

(冗談じゃねーぞ!)

 それは人間離れした反射神経だった。拳悟は間一髪のタイミングで横っ飛びして、襲い掛かるネットの猛威から逃れることができた。しかし、学生服が擦り切れるほどの壮絶な転倒を余儀なくされてしまったが。

「お、おまえら、もうチョコなんてどーでもいいんじゃねーか!?」

 いつの間にか、本来の目的も見失って獲物を捕獲するサバイバルな戦場と化した校舎前。手段を選ばない横暴さに拳悟が怒鳴るのも無理はない。

 ネットによる攻撃は不発に終わったとはいえ足止めには十分に役立った。親衛隊はこれがチャンスとばかりに、ワーワーキャーキャー騒ぎながら彼のもとへ近づいてくる。

 ヒリヒリとした痛みを堪えつつ起き上がったとはいえ、前方から怒涛のごとく追い込まれて逃げる術もなくいよいよ万事休すか。

 いや、拳悟はまだ秘策とも言うべき最終兵器を隠していた。攻め込んでくるグループが最後ならもう出し惜しみする理由などない。彼は学生服のポケットからそれを取り出した。

「これでも食らいやがれ!」

 拳悟が放り投げたもの、それは導火線から火花を散らしている爆竹だった。しかもご丁寧に導火線を短く加工しており、破裂までの時間を短縮する彼自作のオリジナル版だ。

『パパン、パン、パン!』

「キャー!?」

「うわぁ!?」

 火力こそ小さい爆竹でも、突撃の勢いを無効にするには効果てきめんだった。

 親衛隊とその配下の男の子たちが仰け反ったり尻餅を付いたりする隙を見計らって、拳悟はものの見事に包囲網を破ってそこから脱出した。

 備えあれば憂いなしとはまさにこのこと。ちなみに彼はいざという有事に備えて、マル秘アイテムをいつもポケットにしまっていたりする。

「よっしゃー、お先に失礼!」

 拳悟はついに校門まで到達し勝ち名乗りを上げる。無駄になったチョコレートが無数に飛び交うバレンタイン攻防戦がここに閉幕した。


* ◇ *

 ここは派茶目茶高校から少し離れたとある閑静な住宅街。

 家事の支度に追われる主婦や遊び疲れた小学生も家路へと急ぐ夕暮れ時、路地を歩きながらキョロキョロと不安げに顔を動かしている少女が一人。

 その少女こと由美は拳悟の姿を探し求めて、彼の住居がある住宅街の一角まで足を運んでいた。

(えっと、こっちの方向で間違いないんだよね)

 過去に一度も訪問したことがないばかりか、わかっているのは住所という文字情報のみ。初めてやってきた見知らぬ住宅街で、地図も持たずに行動している由美が迷ってしまうのは致し方がない。

 だからといって、もし拳悟の自宅まで辿り着けたとしてもチョコレートを渡すべきか迷ってしまうだろう。勇気を振り絞ってここまでやってきたものの、自分自身の決断に戸惑いを隠せない彼女なのであった。

(あれ?)

 ――神様は恋する乙女を見捨てたりはしない。由美にとって本当のラストチャンスが待っていた。

 住宅地に囲まれた小さな児童公園。そこにあるブランコに腰を下ろして、振り子のごとく小さく揺れている学生服を来た男子高校生がいる。

 今日一日チョコレートという恐怖に怯えながら過ごし、ファンと豪語する女子からの執拗な追跡からも逃れることができた彼は、胸を撫で下ろしつつもやつれた表情でぶつくさと独り言を漏らしていた。

「まったく散々な目に遭った……。興味もない女からチョコもらったところで嬉しいもんか」

 いくら好色とはいえ、どんな女子でも見境なく受け入れるわけではない。拳悟だって思春期の男子であり、恋愛感情を抱く若者だったりするのだ。

 何はともあれバレンタインデーはもうすぐ終わる。自宅に帰っておいしい晩御飯でも食べようと気持ちを上向きにして、ブランコから手を離して立ち上がろうとした瞬間だった。

「――へ?」

 もう悪夢は終わったはずと思っていた。ところが、綺麗にラッピングされたチョコレートの箱が眼前に差し差し出されて悲鳴を上げてしまう拳悟。

「うわぁぁ、チョコレートだっ!」

 拳悟は衝撃のあまりブランコから転げ落ちてしまいそうになった。すぐに体勢を立て直して文句を言ってやろうと思ったが、そこに佇んでいたのがクラスメイトだとわかって言葉に詰まってしまった。

「驚かせてごめんなさい」

「ユ、ユミちゃん、どうしてここに……?」

 ただただ唖然とするばかりの拳悟。通学路の途中でもなく自宅からも遠いはずのこの公園に由美がいることが理解できずに頭が混乱しているようだ。

 冗談なら勘弁してほしい。クラスメイトなら事情を知っているだろうからと、彼は切迫した思いで涙ながらにそう訴えた。

 そう言われても彼女にとっては冗談ではなかった。チョコレートに込めた熱意を伝えるがために、自宅を背にしてまでわざわざ彼のことを追ってここまでやってきたのだから。

 彼女は彼の隣のブランコへそっと腰掛けた。足を蹴ってゆっくりと動き出すブランコ、金属が擦れる音が静けさに包まれた公園内に高らかに響き渡る。

「このチョコは、ケンゴさんにもらってほしくて買ったものなんです。でも、チョコが嫌いって知ってしまったから」

 日頃からお世話になっている謝礼を伝えたかった。しかし、予想もしない壁に阻まれて最後の最後まで迷いが生じてしまった。由美は頬を赤く染めながらも複雑な心境を告白した。

 チョコレートはあくまでも形式上のものであって気持ちを伝えることが大切だ。いつも本当にありがとうと感謝のメッセージを贈って、彼女は照れくさそうにはにかんだ。

「このチョコレート、やっぱり渡さない方がいいですよね?」

「ユ、ユミちゃんが……。お、俺にチョコを……」

 甘ったるくて、口に含んだら吐き気を催すほど大嫌いなチョコレート。両足が震え出してパニックに陥ってしまうはずの拳悟、ところが彼の心情にこれまでとは違う変化が現れた。

 由美からのバレンタインの贈り物――。関心も興味もない親衛隊の女子ではなく、親愛なる女の子からの贈り物は彼にとってこの上ない喜びだった。

 彼女は罪の意識と後悔の念を感じつつ、そっとチョコレートをカバンの中へ戻そうとする。――その直後、静寂に包まれた公園に搾り出したような大声が鳴り響いた。

「ちょーだい、そのチョコ!」

「えっ?」

 チョコレート嫌いの拳悟からのまさかの発言に、由美の動きがピタリと止まり鼓動がにわかに高まった。嬉しいはずなのに、どうしてか表情に動揺の二文字が浮かび上がる。

「でもケンゴさん、チョコレートダメなんでしょ?」

「そ、そうなんだけど、もらっておきたいんだ!」

 後先を考えない突発的な衝動もあったのだろうが、思い出として記念に残しておきたい気持ちもあったのだろう。拳悟は両手を真っ直ぐに伸ばしてチョコレートを受け取ろうとした。

 嬉しさ先行とはいえまだ少しばかり不安を残している由美。もらってもらえるならと、彼女は彼の汗ばんだ両手にチョコレートの箱を置いた。

(ユミちゃんからもらったチョコか……)

 拳悟は目を見開いてチョコレートを凝視している。そんな彼の両手は小刻みながらもブルブルと震えていた。

 彼女からのプレゼントは昇天するほど嬉しい、しかしそれと同時にチョコレートを持っている自分自身が死ぬほど怖い。それが、怯え切っている彼の心境といっても間違いではなかった。

 彼がぎこちない指先でラッピングを解くと、感謝の気持ちとはいえカカオ色をしたハート型のチョコレートがお披露目された。

「ケンゴさん、あの、わたしが言うのもおかしいけど、あまり無理しないで」

「だ、大丈夫さ……。チョコなんか、お、俺の敵じゃない……はず」

 拳悟は体温がぐんぐん上昇して、指先から伝わる熱でチョコレートが溶解するほどだった。もうどうにでもなりやがれ――!彼は卒倒する覚悟を決めてチョコレートの角っこにかぶり付いた。

 スイート味にも関わらず、苦虫を噛み潰すかのごとく苦渋な顔をしていた拳悟。チョコレートをだんだん噛み砕いていく中で、口の中に広がる予想外な味に気付いて彼の表情が変わった。

「むむむ、このチョコほろ苦いぞ?」

「それ、ビターチョコですよ」

 由美が買ってきたチョコレートは甘味を抑えた大人風味のチョコレート。彼女自身、カカオの味が引き立つ苦味のあるチョコレートの方が好みだったのだ。

 もう一口さらにもう一口と、ビター味特有の芳しさとおいしさを実感していく拳悟は、いつの間にか欠片一つ残さずチョコレートをペロリとたいらげてしまった。

 もちろん完食できたその裏側には、彼女からのささやかな気持ちを受け止めたい男心があったことは言うまでもない。

「どうもありがとう。チョコレートの革命を知った気分だよ」

「どういたしまして。食べてもらえてわたしも嬉しいです」

 拳悟と由美の二人はブランコに揺られながら顔を向き合わせてクスリと微笑した。単なるクラスメイト同士とは違う、一歩先へ進んだような親近感を覚えた気がする二人であった。

 クリスマスに続いてのプレゼント、しかも世間一般的に愛の告白をするバレンタインデー。日頃からの感謝の気持ちとはいえ、恋愛感情や好意といったことを期待しないはずがない。

(もしかして、ユミちゃんはこの俺のことを……)

 女子との関わり合いは日常茶飯事で慣れっこの拳悟だが、由美のような純真で控え目な女の子との交際は思いのほか少ない。彼は調子が狂うぐらい心が騒ぎ出していた。

 ドキドキと鼓動が大きく脈打ち、鼻孔の辺りまでムズムズし始めていた彼。それぐらい、込み上げてくる期待と興奮が半端ではなかったのだろう。

 ――それから数秒後のことだった!むず痒い鼻から真っ赤な液体が滴り落ちた直後、それが勢いを上げて噴水のごとく大放出した。

「ぐわぁ!!」

「キャー、ケンゴさーん!?」

 久しぶりのチョコレートが起爆剤になってしまったのか、拳悟は興奮が限界点に達して鼻血を噴き上げながらブランコから転落してしまった。

 由美は大慌てでブランコから飛び降りるなり、地面の上で仰向けになって卒倒している彼の傍に駆け寄った。目を覚まして、死んじゃダメです!と絶叫しながら。

 こうして、拳悟にとって悪夢のバレンタインデーは救急車が出動するほどの大騒ぎとなり、昨年と同じ結果というオチで終わりを迎えた。

 彼がその後、チョコレート嫌いを克服したかどうかについてはここで語るべきではないが、バレンタインにまつわる恥ずかしい武勇伝が誕生したことはご承知の通りである。

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