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第二十九話― チョコレートこわ~い! バレンタイン大激走(1)

 二月十四日はバレンタインデー。誰が何て言おうとバレンタインデーだ。

 女性が好意を寄せる男性に愛の告白を込めてチョコレートを贈る日。菓子製造メーカーが書き入れ時とばかりにチョコレートを大量生産したり、ケーキ屋が趣向を凝らしたチョコレートケーキを店舗に飾ったりする日だ。

 もてる男性ともてない男性に一定の境界線が引かれてしまい、図らずとも僻みや空しさといったマイナス感情がお互いの隙間に交錯してしまう日だったりもする。

 高校でもそれは例外ではなく、ゲットしたチョコレートの数で優劣を競い合ったりするわけだが、派茶目茶高校に一人、もてるあまりにバレンタインというイベントに頭を悩ませる少年がいたりするもので……。


* ◇ *

 バレンタインデーの前日。ここは矢釜駅周辺の商店街にあるおしゃれな洋菓子屋。

 ここでは国産や海外の高級メーカーなど色とりどりのチョコレートを並べており、毎年この時期になると年齢を問わず女性客で賑わうお店だ。

 たった今、バレンタイン用のチョコレートを購入してお店から出てきた女子たちがいる。派茶目茶高校二年七組に身を置く由美と麻未、そして舞香の三人であった。

「それにしても、あんた随分買ったわね」

 大きな買い物袋を胸に抱えている舞香。そこには高級チョコレートが十個以上入っているものだから、麻未が目を丸くして呆気に取られるのも無理はない。

「ええ、お配りする方が多いですから」

 舞香曰く、チョコレートを贈呈する男性がたくさんいるとのこと。父親はもちろんだが、召使いの老人や使用人、さらには委託でお屋敷に来ている業者までと多種多様だ。

 ただ、その数ある男性陣の中にはクラスメイトや同学年の男子の名前はなかった。どうやら彼女は学内に意中の男子はいないようだ。

 その一方、麻未もチョコレートを複数個購入していた。本命チョコレートを贈ると見せかけて、実はホワイトデーのお返しに高級ブランド品を手に入れるのが彼女の魂胆だったりする。

「ユミちゃんは一個だけだったね、チョコ」

「う、うん……」

 麻未から問われると、由美はちょっぴりはにかんで小さく頷いた。彼女のカバンの中には、金額にして数百円クラスのチョコレートが一つだけ入っている。果たしてこれは本命チョコレートであろうか?

「わかった、ケンちゃんに渡そうとしてるでしょ?」

「えっ!」

 由美は姉と二人暮らし、だから家族ではないことは明白。遠くから引っ越してきた彼女が他校の学生に渡すはずもなく、たった一つのチョコレートを贈る相手なんてあらかた想像は付くだろう。

 感覚の鋭い麻未ではごまかし切れないと思ったのか、由美は顔を赤らめて照れ笑いしながら頭を縦に振った。

「あら、ユミちゃんとケンゴくんはそういう仲でしたの?」

「ち、違うよっ、義理チョコだもん!」

 日頃からお世話になっている恩返し、過去に何度も助けてもらっているお礼を兼ねてプレゼントしたい。由美は言葉ではそう返答していたが、本心は言うまでもなく恋心と一緒に贈りたいはずだ。

 お世話になっているという点では、勝や拓郎といった他の男子にも渡すのが義理というものだが、あえて一つだけ購入していたところから見ても彼女の熱意と想いの強さが垣間見える。

 由美の行為は立派だしできれば応援もしたい、ところが麻未と舞香の二人は眉をひそめて困惑めいた表情を浮かべていた。

 何か問題でもあるのだろうかと、由美は不思議そうに小首を傾げた。女子二人が明かすその真相こそ、せっかくの勇気を挫けさせるほど衝撃的なものだった。

「彼ね、チョコレート嫌いなのよ」

「だから、受け取ってもらえるかわかりませんの」

 麻未と舞香が語るところによれば、拳悟は派茶目茶高校でも注目の的だけに親衛隊がいるほど女子からもてる。そういうこともあって、バレンタインデーは無数にチョコレートが飛び交うぐらい大騒ぎになるそうだ。

 昨年のバレンタインデーに彼は数え切れないほどチョコレートをもらって、それを律儀というかやけくそになって口に放り込んだら鼻血を出すやら胃もたれやらで二晩ほど寝込んでしまったとのこと。

 その時の恐怖体験がトラウマになって、それ以降チョコレートを見るだけでも悪寒が襲ってきて発熱してしまうらしい。もてるが故の悲しくも儚い現実であった。

(そんな、チョコが嫌いだなんて……)

 チョコレートが嫌いなのでは渡せない――。由美は思ってもみない事実を知って絶句してしまった。

 胸をときめかせて買ったチョコレート。それを拳悟に手渡すことも叶わず、カバンの中にしまわれたままバレンタインデーが終わってしまうのだろうか。彼女は途方に暮れて呆然とするしかなかった。

「……それなら、チョコは渡さない方がいいよね」

「ん? 諦めるのが早いわよ」

 気落ちしている由美のことを励ますのは麻未だ。色恋沙汰に関しては由美よりもはるかに経験豊富だし、先輩といっても間違いではない。諦めてしまっては勇気も熱意も無駄になってしまうとアドバイスを贈った。

「大事なのはさ、気持ちを伝えるってことじゃない? ここまで来たらもうアタックしちゃいなさいよ」

 アタック、それを言い換えれば愛の告白――。由美は顔を真っ赤に染め上げて慌てふためいた。ただ義理チョコを渡して感謝を伝えたいだけなのに、まさか告白だなんてできるはずがない。

 由美が必死になってそれを拒むと、麻未はクスッと意地悪っぽく微笑した。誰も告白しろだなんて一言も言ってないと切り替えしながら。

「あたしは、チョコを渡したいという気持ちを伝えろって言ったの。ちゃんと理解しないと墓穴を掘っちゃうわよ~」

 気恥ずかしさとばつの悪さから、由美は表情がさらに紅潮して頭上から蒸気を噴出さんばかりだ。今の気持ちはまさに、穴があったらすぐにでもそこへ飛び込みたいというやつか。

(アサミさんの意地悪っ。これは絶対にバレちゃったよね……)

 そもそも根が正直な由美だけに、鎌をかけられなかったとしても勘のいい麻未になら感づかれてしまうのは致し方のないところであろう。

 密かなる想いは届かなくても、何もしないままバレンタインデーを終えてはいけない。麻未の言う通り諦めたりしないでチョコレートを渡そう、由美は力強く頷いて決意を表明した。

 明日はバレンタイン当日。派茶目茶高校でどんなドラマが待っているのだろうか?ただ一つだけ言えるのは、この物語らしい愉快にもハチャメチャなドタバタ劇が待っていることだった。


* ◇ *

 翌日、バレンタインデー当日は女性たちを応援するかのように朝から穏やかに晴れ渡った。

 丹精を込めてチョコレートを手作りした子もいれば、お店で買って自分なりにオリジナルのラッピングをした子もいる。もちろん、百円のチョコレートを適当にカバンに詰め込んだ子もいるだろう。

 それぞれがそれぞれの想いに色めき立って外出していく中、派茶目茶高校へ独り言を呟きながら登校する一人の女子高校生がいた。

(うん、絶対に渡すんだ。後悔したくないもん)

 興奮と緊張で胸を高鳴らせながら通学路を一人歩く由美がそこにいた。手作りでも高級でもないが、気持ちのこもったチョコレートが一つだけカバンの中に入っている。

 彼女はこれまで、親族以外の男性にバレンタインチョコレートを手渡したことが一度もなかった。それは好きな男子が現れなかったというよりも、男子そのものに関心を持つことができなかったからだ。

 そういう理由もあって、彼女にしたらそれこそ一大決心というわけだ。無事にチョコレートを渡せるかどうか、昨晩からそのことで頭がいっぱいなのである。

 一方その頃、由美から好意を寄せられているとは予想もしていないモテモテ男子、同じく登校途中の拳悟はどうしているかというと……?

(う~ん……。家を出てきたのはいいが、やっぱりマズいかな)

 拳悟はあからさまに青ざめた顔をしてコホコホと咳払いしていた。垂れてくる鼻水をすすっていかにも具合が悪そうだ。

 バレンタインデーはまさに悪夢の一日。甘ったるいチョコレートの感覚が蘇ってくるたびに、彼の全身が悪寒で震え出し足取りも重たくしていった。

 体調不良ならばわざわざ登校しなければいいのだが、彼はご存知の通り遅刻組と呼ばれるほど出席率が悪い。本日の教科をエスケープすると留年という名の恐怖が待っているのだ。

 ガックリと肩を落として学び舎へ向かうしかない彼。身から出たサビであり自業自得なので同情の余地などないが、世のもてない男子からしたら幸せな悩みと言えよう。

「おい、ケンゴ」

「む……、その声はまさか」

 こういう時に限って不運は重なるもので、拳悟は背後から出会いたくもなかった人物に声を掛けられた。

 彼が引きつった表情を後ろに向けると、そこには、おさげ髪が特徴的でカンフースーツを着ている女子高生が腕組みしながら仁王立ちしていた。

「リ、リュウコじゃねーか……」

「おまえがここを通るのを待っていたぞ」

 そこで待ち構えていたのは、ライバルというよりも天敵に近い二年四組の同級生、拳悟が苦手としている危険人物の風雲賀流子その人であった。

 不敵な笑みを浮かべながら近寄ってくる彼女。いつもなら自ら絡んでくるはずもないのにどういう風の吹き回しだろうか?

「な、何の用だ? 言っておくけど、バトルだったら今日は勘弁してくれ」

「心配するな。ささやかながら、おまえにプレゼントがある」

「プレゼントだと……?」

 想定外の事態を前にして胸騒ぎがより強くなる拳悟。迫りくる危機から背筋が凍り付き反射的に後ずさりしてしまう。

 ――そう、流子は知っているのだ。今日という日が、彼にとって精神的にも肉体的にも苦痛を味わう一日になることを。

「ほら、チョコレートだ。心して受け取るがいい!」

「ぎゃあ~、チョコレートこわ~い!!」

 それは手でも足でもなく、さらに口すらも使わないシンプルな先制攻撃だった。

 チョコレートを突き付けられてしまい、拳悟は身の毛がよだち絶叫しながらうずくまった。その惨めで哀れな姿が余程おもしろいのか、流子は周囲の目も気にせず腹を抱えて大爆笑している。

「ハッハッハ、情けないヤツ。まったくいい気味だ!」

 これも日頃から意地悪されていることへの報復だったのだろう、流子は笑うだけ笑って散々罵ってから軽やかな足取りで学校へと向かっていった。

 一人きりでブルブル震えながらうずくまっている少年は、バレンタインという行事を流行らせた見知らぬ先人をただただ呪うしかなかった。

「くっそ~、いつか覚えてろよ。てめぇのうち履きに芳香剤ぶちまけるからな!」

 朝から早くも大ピンチ、とはいえ登校しないわけにはいかない実情もある。拳悟は低い知能を駆使して、どうにか被害を最小限に食い止める案を練った。

(やむを得ん、まだ始業には間に合うな)


* ◇ *

 ここは派茶目茶高校の二年七組の教室。さすがはバレンタインデー当日ともあって始業前から随分と賑やかだ。

 チョコレートを渡して安堵している女子もいれば、チョコレートをもらって誇らしげな顔をしている男子もいる。もちろん、まだ何も始まらなくてそわそわと浮き足立っている生徒もいる。

 義理という名目で友情を深め合ったり、恋愛を成就させることもあればうまくいかなかったりもする。結果がどうであれ、そこにはバレンタインデーらしい光景が広がっていた。

「どいつもこいつもチョコチョコと騒ぎやがって。うるせーんだよ、まったく」

 クラス委員長の勝はふて腐れた感じで、浮かれているクラスメイトたちの振る舞いに苦言を呈した。チョコレートの数字で男の度量が測れるのかと言わんばかりの形相だ。

 とはいっても、もらえたらもらえたで嬉しいのが男子の性。脇役代表の勘造と志奈竹の二人は、たった一つのチョコレートを見せ合ってほっこり顔をしている。

「ヘヘン、見てみよ、この豪華なチョコを」

「ぼくだって、こんな大きいのもらったもんねー」

 勘造は馴染みの喫茶店に勤めるウェイトレスから、そして志奈竹は幼馴染みの子からそれぞれチョコレートをもらったとのこと。

 モヒカン頭が似合ってるね、坊主頭がかわいいね。彼ら二人はそんな安直な理由でチョコレートをもらったらしいが、愛情や友情というよりは同情のチョコレートのような気がしてならない。

 理由はどうであれ、もらえるヤツがいると羨ましくなるのもまた男子の性。まだ一つもチョコレートをゲットしていない勝のイライラ感は増すばかりであった。

 一応付け足しておくが、勝にはチョコレートを贈ってくれる他校の女子、錦野さやかという子がいる。だが、彼女は数日前におたふく風邪を罹患してしまい会うことすらできない実情があったのだ。

 ただ、彼自身はさやかのことをそれほど意識してはいないので、もし贈られたとしても心にもなく気取ってそれを断っていたに違いない。

「よう、どうした? 朝から機嫌悪そうじゃん」

「おう、タクロウか」

 勝の隣の席へやってきたのは、メッシュの髪の毛をいつになく綺麗にセットしている拓郎だ。彼の手には通学カバンとは違う見慣れないトートバッグが握られている。

 それは語るまでもなくバレンタインチョコレート専用の入れ物だったりする。彼はこれでも、ラブレターをそっと手渡しされるぐらい他校の女子生徒から人気があるのだ。

「手荷物が増えて困っちまうぜ、はっはっは」

「ケッ、困ってるくせに嬉しそうじゃねーか」

 あからさまに自慢話を聞かされたら誰だってイラッと来るだろう。ただでさえ感情的な性格もあってか、勝の表情にますます憤りと苛立ちが広がった。

 本気で怒り出したらこれほど扱いにくい人物はいない。拓郎はそれを存分に知っているだけに、トートバッグから適当なチョコレートを一つ取り出して怒りを静めようとしてみるが……。

「ほら、一個分けてやるからこれでも食って機嫌直せよ」

「いらねーよ、バカ野郎!」

 それがいくら慰めだとしても、こんな形でチョコレートを差し出されたら嫌味以外受け取りようがない。拓郎の親切心はただ火に油を注ぐだけだった。

 冗談だったと今更釈明されたところで時すでに遅し。あまりの惨めっぷりに、怒り狂うよりもすっかりいじけてそっぽを向いてしまう勝であった。

 教室内がチョコレートのネタ一つで盛り上がっている頃、由美もチョコレートのネタ一つでドキドキと緊張しながら派茶目茶高校の校門を潜った。

 生徒たちがせわしなく校舎へと入っていく中、他人に聞こえないぐらいの小声で独り言を呟く彼女。拳悟に出会ってからどのタイミングで行動を開始するか、まさに思案に暮れている最中だった。

 彼女がどれだけ思い詰めていたかというと、クラスの仲間から挨拶されても上の空になるぐらい呆けていて、そしてそれは、生徒一人一人のことを陰ながら見守っているクラスの担任も例外ではなかった。

「あらユミちゃん、おはよう」

 職員玄関の前でのすれ違いざま、さわやかな笑顔を向けて声を掛けた静加だったが、由美の方はぶつぶつと囁くだけで挨拶もそこそこにしてすり抜けていってしまう。

 これは明らかに様子がおかしい。体調が悪いかどうかなど生徒を気遣うのも担任の務めということで、静加は通り過ぎていく教え子のことを呼び止めた。

「あっ、先生」

「どうしたの、具合でも悪いの?」

 バレンタインチョコレートを拳悟に渡すことで悩んでいたなど言えるわけもなく……。由美はぎこちない笑みを浮かべて、体調不良ではない事実だけを伝えるしかなかった。

「いいえ、大丈夫です。考え事してただけですから」

「そう? それならいいんだけど」

 注意力散漫は怪我のもと、静加から教師らしいお説教を受けてしまった由美は申し訳なさそうに反省の弁を口にした。

 始業時間が迫っているせいもあり、きびすを返して生徒玄関へと急ぐ由美。ぼんやりするだけでなく、授業の準備にすら身が入らない自分に気付いてますます不安になる彼女であった。


* ◇ *

(とにかく今は教室まで急がなくちゃ)

 バレンタインばかりに気を取られている場合ではない。由美は逸る気持ちを抑えつつ、下駄箱で内履きに履き替えて二年七組の教室へと足を速める。

 それこそ注意力散漫で転んだりしないよう階段をゆっくりと慎重に上っていくと、彼女は教室前の廊下である異変を目撃した。

 教室の出入口を塞がんばかりに群がっている複数の女子生徒たち。人数は少なくとも二十人は下らないだろう。

(な、何なの、この子たち……!?)

 由美は驚きのあまり目を丸くしながら呆然としてしまった。そこにいる女子は皆、学年もクラスもわからない見慣れない子たちばかりだ。もうすぐ始業だというのに何かイベントでもあるのだろうか?

 立ち止まったまま教室に入らないわけにもいかない彼女、その女子たちが作ったバリケードの隙間を掻い潜ってどうにか教室に入ることができた。

「おはよう」

「ユミちゃん、おはよう」

 いつもと変わらない笑顔で勝と拓郎の二人と挨拶を交わす由美。チラッと付近の様子を窺ってみると、どうやら拳悟はまだ登校していないようだ。

 ちょっぴりホッとしたような、ちょっぴり残念なような。表情こそ平然を装っていても、複雑な心境を覗かせる恋する乙女がそこにいた。

「すぐそこで女の子が集まってるんだけど知ってます?」

 由美は席に着くよりも先に、教室前で起きている異変について尋ねてみた。

 教室内よりもガヤガヤと騒がしい教室前の廊下。当然ながら、勝と拓郎がそれに気付かないはずがない。彼らは女の子たちの正体も目的もすべてわかっているようだった。

「あの連中はケンゴの親衛隊さ」

「バレンタインチョコを渡そうと、ヤツのことを待ってるんだよ」

 拳悟の親衛隊――。彼非公認のファンとして活動している女子グループ、いわゆるただの追っかけである。

 昨年のバレンタインデーもこの親衛隊がチョコレートの雨あられを降らしたおかげで、彼がチョコレート嫌いになるきっかけとなってしまったのだ。

 由美も親衛隊がいることは以前より聞かされていたのでショックはそれほど大きくはなかった。とはいえ、いざその面々とこうして接触してしまうとやはり動揺は隠し切れないといったところだろう。

「今年もまたパニックになりそうだな」

「まぁな。チョコ嫌いのアイツにしたら、今日ほど恐ろしい日もないだろう」

 勝と拓郎は両手を合わせて南無阿弥陀仏と口ずさんだ。そんな彼らの心中を覗いてみると、同情心というよりも女子から追い掛け回される拳悟の哀れな姿を想像してほくそ笑んでいたりする。

 一方の由美はというと、親衛隊とチョコレート嫌いという二つの壁が立ちはだかってしまい焦りが増すばかりであった。カバンの中にあるチョコレートが無駄にならなければよいが……。

 そして拳悟の親衛隊はというと、始業開始五分前になってもそこから一歩も動こうとはしなかった。愛情たっぷりのチョコレートを握り締めて、彼が到着するのを今か今かと心待ちにしている。

「遅いわね、ケンゴ先輩まだかしら」

「ケンゴさんって遅刻が多いし、ここは粘るしかないわ」

 さすがは親衛隊だけに、拳悟の日頃からの振る舞いや素性をよく知っている。それはそれとして、彼女たちだってこのままだと遅刻になってしまうのだがまったく気にしていない様子だ。

 ――それから数秒後だった。階段の方角から男性らしき足音が聞こえてきて、彼女たちは一斉に顔を振り向かせた。いよいよお待ちかねの拳悟の到着か?

「やぁ、お嬢さんたち。グッドモーニン!」

 そこに姿を現したのは拳悟とは似ても似つかない身なりをした男子生徒。頭には野球帽子、顔には茶色いサングラスに真っ白なマスク、さらに真っ黒な学生服で全身を覆っていてセンスはお世辞にも素晴らしいとは言えない。

「ケンゴ先輩じゃないわ~、もう紛らわしい!」

「も~じれったいわね、早く来てくれないかな」

 親衛隊はガックリと頭を垂らして落胆した。拳悟以外には興味なしと言わんばかりに、その男子生徒に挨拶一つせずに視線すら違う方向へ逸らせてしまった。

 イライラしながら悔しがっている彼女たちを尻目に、男子生徒は何食わぬ顔をして鼻歌交じりで二年七組の教室へと入っていく。

 彼は教室に入るなり、大きな声でおはようと挨拶を告げた。すると、クラスメイトたちの誰もがキョトンとした顔をしている。彼が何者なのかわからないといった雰囲気だ。

「……おまえ誰だ?」

「おいおい、クラスメイトの顔を忘れるなんて失礼じゃんか」

 俺だよ俺、その男子生徒は自分自身を指差してそう言ってみたものの、身なりがあまりにも奇抜だったせいか勝には理解してもらえなかったようだ。

「うちのクラスにオレなんて名前のヤツはいない」

「ボケてどーする! オレなんて名前がおるかっ」

 帽子、サングラス、そしてマスクを一つ一つ外していくと、変装していた男子生徒の正体が明らかになっていく。

「やっぱり、ケンゴさんだったんですね」

「さすがはユミちゃん、ご名答」

 由美は薄々感づいてはいたが、ネクタイやジャケットを愛用している拳悟のイメージが強かっただけに、正直なところ完璧な自信が持てなかったのであえて声を上げなかった。

 この変装はもちろん、バレンタイン攻防戦から逃れるための手段の一つ。彼は遅刻覚悟で一度自宅に戻り、変装グッズを引っ張りだしてからこうして登校してきたというわけだ。

「フッフッフ、この俺にまんまと騙されたようだな、明智くん」

「怪人二十面相を気取ってるみたいだが、俺から言わせれば、おまえは変人二十面相だ」

 勝からいじられても気にしない。この変装のおかげで無事にここまで辿り着くことができたのだから。拳悟はフーッと安堵の息をつき自分の席へと腰掛ける。

「それにしても、よく朝から来れたな。おまえにとっては恐怖の一日なのに」

 正体を隠してまで、始業からわざわざ学校に来る理由があるのだろうか?拳悟がチョコレート嫌いなのを知っているだけに、拓郎の頭の中にそんな疑問が浮かぶのは当然のことだろう。彼がその辺りを問うてみると。

「だぁってぇ、今日の授業サボると単位がヤバイんだも~ん!」

「……チョコ怖さに頭までイカレちまったようだな」

 頭がおかしくなるほど苦痛な一日。今日ばかりは何を言われても反論せず、できる限りエネルギーを消費しないようにしようと心に思う拳悟であった。

「ちくしょ~、バレンタインなんて誰が考えたんだよ、まったく」

 拳悟は机の上に突っ伏して不満ばかりをぶちまけていた。チョコレート工場を爆破したいなどと大胆発言したりして、バレンタインデーという行事にすっかり恨み節である。

 チョコレート嫌いにとっては不幸でも、ごく一般の男子諸君にしたら幸せ者であろう。チョコレートを一つももらえなくて寂しい思いをしている男子を代表して、勝がここぞとばかりに噛み付いてきた。

「てめぇ、わがまま言ってんじゃねーよ。チョコが嫌いだとか、ふざけるのも大概にしろよな」

 これもある意味、恨み節と言えようか。沸々と怒気が込み上げてきた勝は、ミラーグラスで隠した目を吊り上げて全身をわなわなと震わせていた。

 これはわがままなのだろうか?拳悟は真っ向からそれを否定しようとしたが、余計なエネルギーを消費したくないと思ってか、この場は不服ながらも済まないと頭を下げるに至った。

 ――とはいえ、ただ謝るだけではおもしろくない。拳悟は拍手しながらいらないことまで口走ってしまうわけで。

「さすがはスグルだな。モテないだけによくわかってるじゃないか」

「いや~、それほどでもないぜっ。わっはっは」

 教室内に高らかな笑い声が飽和したもの、それは勝にとってはハッキリ言って大きなお世話。その一秒後には、顔を真っ赤に紅潮させた彼の怨念キックが炸裂したのはご推察のことだろう。

 椅子ごと蹴り倒されてしまった拳悟。もう少し手加減しろと愚痴を漏らしつつしばらく床の上で横になっていたが、由美の救いの手を借りて何とか起き上がることができた。

「ケンゴさん、口は災いのもとですよ」

「いやはや、面目ない。とほほ」

 昨年のバレンタインデーの悲劇、転校生の由美は当然ここにいなかったからそれを知るはずもない。

 彼女だってチョコレートをカバンにひっそりと忍ばせているだけに、拳悟がチョコレート嫌いになった理由をどうしても知りたい。無事に渡す必勝法を考える上でもそれを知っておく必要はあるだろう。

「チョコなんて冗談じゃない! あんな甘ったるくて、しかも口の中でとろけると気持ち悪くなっちまう」

 由美がそれとなく触れてみると、想定通りというか納得の答えが返ってきた。

 チョコレートを想像しただけでも吐き気を催し、さらに微熱まで出てしまう。垂れてくる鼻水をすすっている拳悟を前にして、彼女の自信と勇気がますますぐらついてしまうのは言うまでもない。

 朝から早くも暗雲が垂れ込めるバレンタインデー。果たして、これからどんなドラマやハプニングが起きるのだろうか?乞うご期待――!

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