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第二十七話― これこそ若者の主張? 意見文発表会(2)

 美を追求する女性二人の密談が終わる頃、ホームルームの残り時刻もあと半分といったところ。

 さて、次の発表こそ素晴らしいものを期待したい。静加が生徒たちの顔を窺っていると、ニコニコと微笑んで余裕をかましている二人の男子生徒がいた。

「ちょっと、スグルくんとタクロウくん。何にやけてるのよっ」

 静加の一喝にすぐに反応して起立した勝と拓郎。そんな彼ら二人の手には文字が綴られた原稿用紙が握られていた。

「そろそろ俺たちの出番だろうと思ってね」

「俺たちが本当の意見文を教えてやろうってね」

 意見文発表会も後半に差し掛かり、いよいよ本命登場か。勝と拓郎はお遊びはここまでと言わんばかりに自信満々に胸を張った。ちなみに意見文は二人の共作とのこと。

 彼らが意見文を作成していたことに驚きを隠せなかったのだろう、二年七組の教室内が異様なぐらいざわつき出した。拳悟と同様に報われない二人である。

 そこまで自信があるならここまでいらっしゃいと、静加は勝と拓郎の二人にクラスメイトの前で堂々と発表するよう指示を出した。彼らは力強く頷いて教壇へと足を向ける。

「先程教えてもらったのですが、温泉にまつわる意見文らしいですわ」

「そういえば休み中、温泉がどーのこーのって騒いでいた気がするな」

 舞香が聞いた情報によると、勝と拓郎は冬休み期間中に矢釜市の奥座敷である”矢釜極楽温泉”に観光がてら入浴してきたとのことだ。そこで彼らの意見文とは温泉の考察や楽しみ方についてらしい。

 温泉よりもプールみたいに遊泳できる場所を好む拳悟。そういう理由もあってか、一緒に行こうと誘われても興味がないからと断りを入れていたことを思い出した。

 黒板を背にしてクラスメイトたちの前でタイトルを告げる勝と拓郎の二人。本物の意見文と豪語するその名も”温泉のハウツー”がお披露目される時がやってきた。

「俺たちは年明け早々、地元で有名な矢釜極楽温泉へと足を運んだ」

 矢釜極楽温泉はその名の通り極楽浄土を彷彿とさせる秘境の温泉。泉質は硫黄泉で、皮膚病や糖尿病などに効果があると期待されている。どちらかといえば、若者好みのミーハーな温泉とは言い難い。

 いわゆる体験レポートになってしまうわけだが、美女ならまだしも、むさい男子二人がわざわざ電車で一時間以上掛かるほどの遠距離まで旅立ったことに呆れてしまう拳悟の姿がそこにはあった。

「おいおい、おまえら。いい高校生が温泉ネタかよ? ジジ臭いな~」

「部外者は黙ってろ。温泉はヤングが注目する最新トレンドなんだよっ!」

 温泉をバカにするんじゃない。勝が語気を強めてそう言い放ったが、ツッコまれた方の拳悟はというと意味がまったくわからずちんぷんかんぷんだった。

「ヤングが注目……。最新トレンド……。どういう意味かね?」

「わかりやすく解釈すれば、自分たちはジジ臭くないって言いたいんだろうね」

 拳悟や麻未に何を言われても知ったことではない。言い争っていても疲れるだけなので、勝と拓郎は怒りも苛立ちも静めて温泉にまつわる意見文の発表に集中する。

 彼らが向かった先は矢釡極楽温泉の街外れに佇む風情豊かな一軒宿。宿泊費をケチるために、お食事なしの素泊まりで一泊二日の小旅行だったそうだ。

 こちらの宿の特徴は何と言っても、矢釡川上流沿いに湧き上がる天然の野天風呂だ。ヤングに人気の最新トレンドの温泉レポートはまずここから始まる。

「脱衣所に来てみると、ラッキーなことに俺たち以外誰もいなかったんだ」

 朝早めに来訪したことが幸いし、野天風呂は勝と拓郎の貸切状態だったとのことだ。彼らはワクワクしながら衣類を脱ぎ捨てて、真っ白な湯煙りに包まれた屋外へ飛び出していく。

 凛とした冷たい空気に溶け込む山水が織り成す大自然――。野性味溢れる湯船にどっぷりと肩まで浸かり、まさに極楽を全身で満喫するジジ臭い男子高校生二人。

「最初こそのんびり入浴してたんだけどな、その後とんでもない出来事が待っていたんだ……」

 真冬の温泉を心行くまで楽しんでいた勝と拓郎、ところが何やら予期せぬ事件に出くわしてしまったようだ。

 それは誰もいないはずの野天風呂にも関わらず、どこからともなく何者かの気配が漂ってくるという不可解な現象だった。目を凝らしてみる彼らだが、白い湯気が視界を遮っており正体まで知ることができない。

 だが冷静になって考えてみたら答えは一つしかない。この野天風呂を楽しむために訪れた新しい入浴客なのだろうと。案の定、その人影は湯船の中へゆっくりと入ってきたではないか。

「俺たちはその時、思い出したんだ。野天風呂だけに、そこが混浴であることを」

 勝と拓郎の表情がこれ見よがしに緩んでしまう。青少年ならここで温浴ガールのご登場を期待しないわけにはいかないところだ。

 静加や女子生徒たちの冷ややかな目線に晒されてもお構いなしの彼ら。さてレポートに戻るが、緩みっぱなしの目つきで湯船に入ってきた入浴客にご挨拶をしてみると、そこで待っていたものとは……。

「驚いたことに、俺たちの前に姿を現したのは山から下りてきた野生の動物たちだったのだ!」

 そこにいたのは驚くなかれ、サルやタヌキ、ウサギにイノシシといった大自然に生きる獣ばかり。この野天風呂はどうやら野生動物に無料開放されていたらしい。

 野生動物との接触にご注意ください――。勝と拓郎がその注意書きの看板があることに気付いたのは、湯船から逃げ出して真っ裸で更衣室を飛び出してから館内に戻る直前であった。

「ここで教訓。野天風呂、湯船に浸かる前に左右確認はしっかりと」

 勝と拓郎の二人は当時の戦慄を思い起こして身震いしていた。命に支障はなかったとはいえ、それ相応の恐怖を感じたに違いない。

 一方、静加やクラスメイトたちは肩を揺らして含み笑いを浮かべている。スケベ心丸出しの彼らの失態がおもしろおかしくてたまらない様子だ。

「おいおい、その態度はどういう意味だよ? まさか笑うつもりじゃねーだろうな」

 眉を吊り上げて不機嫌を露にした勝と拓郎。こうなると、クラスメイトたちは吹き出しそうな衝動を押し殺して首をふるふると横に振るしかない。誰だって殴られたくはないからだ。

 いくら内容がバカげているとはいえ、意見文を発表している生徒の腰を折るような行為をしてはいけない。教師である静加は表情を緩めつつも発表を継続するよう促した。

「どーするタクロウ?」

「まぁ、まだ続きがあるしなぁ……」

 若干戸惑いを抱えながらも、勝はコホンと咳払い一つしてご要望に応えることにした。さてさて、温泉レポートの続きはどのようなものか?

「俺たちは気を取り直して内風呂に入ることにしたんだ。内風呂も広めでけっこう有名だからな」

 湯冷めした体を温めようと、勝と拓郎の二人が次に向かった先は館内にある内風呂。彼らが語るように、香り高い桧造りのお風呂や薬用風呂が備わっていて内風呂もなかなか赴きがあるのだ。

 更衣室の暖簾を潜ってみると、藤で編みこまれたかごの中に洋服らしきものが無造作に置いてあった。すでに先客がいたようだ。

 脱ぎ捨ててあった衣類を見た途端、彼らは一つ違和感を覚えた。それは男湯に入ったはずなのに、なぜかその中に女性の下着が紛れ込んでいたからだ。

 ここで通常の少年なら、女湯と間違えてしまったと焦って暖簾を確かめようとするだろう。ところが筋金入りの助平な彼ら二人は違う。ここは野天風呂と同様に”混浴”だったんだと。

「……ねぇ、あなたたちまたそういうネタなの?」

「しょうがないじゃん。それが男の子ってもんだろ?」

 静加の冷え切った視線が突き刺さっても照れ笑いを浮かべてごまかすしかない勝。ヤングが注目する最新トレンドというフレーズもだんだん怪しくなってきた気もするが……。

 それはさておき、興奮に胸を高鳴らせながら少年二人は更衣室で真っ裸になっていざ混浴パラダイスへ――!

 窓から見える風流な冬景色……よりも、温泉を引き立ててくれる髪の毛を後ろで束ねた人たちの艶やかな入浴姿。うなじから肩のラインがとてもチャーミングだ。

 内風呂に野生動物なんていない、これは間違いなく女性だ。勝と拓郎はニンマリと破顔して、湯船にゆっくりと忍び寄ってご挨拶とばかりにさりげなく声を掛けてみた。すると――。

「あら、かわいい子たちね、いらっしゃ~い。……それがびっくりするほど図太い声だったことに俺たちは絶望した!」

 微笑みながら振り返った温泉のヴィーナス、その正体は何と女性に扮した男性、つまりオカマだったのだ。ここが男湯だからそれも当然といえば当然なのである。

 これがまた美形で色っぽいオカマならまだ許せるが、カミソリでガッツリと剃らねばならないぐらい髭が濃いものだから精神的ショックも計り知れなかったりする。

「俺たちは見なかったことにして、そこから素早く立ち去ろうとしたんだが……」

 きびすを返して更衣室へ舞い戻ろうとしたが、勝と拓郎は慌てるあまり足を滑らせて床の上に転んでしまった。それが運の尽き、悪魔のような微笑を浮かべるオカマの餌食になってしまうのだった。

 その後どうなったかというと……。男っぽくてたくましいオカマと涙ぐましい温浴タイムになったのはあえて触れないでおこう。

「ここで教訓。男湯には、女に化けた魔物が潜んでいるから注意せよ」

 勝と拓郎の二人は当時の悪寒を思い起こして表情が青ざめていた。インパクトが強かっただけに、悪夢にうなされる日々が今でも続いているのは言うまでもない。

 一方、静加やクラスメイトたちはまたまた肩を揺すってこみ上げる笑いを我慢していた。しかし、今回ばかりはその衝動を抑えることができなかったようで教室内が大爆笑の嵐となった。

「おい、てめーら、堂々と笑ってんじゃねぇよ!」

 怒鳴り声を放って不快感を露にした勝と拓郎。叩かれたくないから失笑を止めるクラスメイトたちだったが、ごく一部の生徒は彼らのことをここぞとばかりに煽るわけで。

「おまえらの意見文はコント台本か?」

「スケベが祟って天罰が下ったんだね」

 拳悟と麻未の二人は拍手喝采で大喜びだ。発表を終えて悠長に構えているこの二人、内容という点では人のことを笑える立場でもないと思うが。

 ツッコミどころ満載の意見文だから仕方がないが、勝と拓郎の内心は怒りというよりも情けなさの方が先行し始めていた。ここまでコケにされて平然としていられる方が異常と言えるだろう。

「スグル、もうやめようぜ。何か、バカバカしくなってきた」

「そうだな。話すだけ惨めになるもんな」

 途中ではあるが意見文発表を棄権しようと話し合う男子二人。ここでそれを制止しようとするのは、笑いを堪えて教師らしく振舞う静加であった。

「ちょっと待ちなさい。最後までやらないとダメじゃない」

 静加は生徒たちに呼び掛ける。人の発表を笑ったりしちゃいけないと。そして勝にもキッパリと進言する。発表を途中で投げ出すより最後までやり遂げること自体が大切なのだと。

 本心は納得いかないが、担任からそれっぽく説得されてしまってはやるしかない。勝と拓郎はしかめっ面をしながら了承の姿勢だけは示すのだった。

「もうホントに笑わないな?」

「うんうん、笑わない、笑わない」

「よし、約束だ」

 教師と生徒の固い約束を交わし、温泉レポートの締めくくりである夜の部へと入っていく。勝と拓郎の二人は宴会場で夕食を済ませた後、腹ごなしにゲームコーナーまで足を運んだ。

 温泉宿のゲームコーナーなんてたかが知れていて陳腐なものだ。刺激を求める彼らは飽きてしまってぶらぶらと館内を散策していた。すると、案内板に貼り付けてあった一枚のチラシに目が留まった。

「そのチラシはマッサージについてだった」

 温泉宿にマッサージはごく当たり前のサービス。どこでも専属のマッサージ師が有料で承っているものだが、勝と拓郎の目を引いたのはここならではの価格と付加価値であった。

 ”男性に持ってこいの格安プラン新登場! 刺激たっぷりのSプランをどうぞ心ゆくまでご満喫ください”。チラシにはそんなフレーズが紹介されていた。

 ここで刮目すべきところがもう一つだけある。マッサージ師は何と二十代の女性らしいのだ。経験不足という点で低価格に設定されているのだろう。

 刺激を求めていたやんちゃな少年たちにとってはまさに渡りに船。願ったり叶ったりの仰天プランというわけだ。彼らはすぐさま受付で申し込んで部屋まで戻ることにした。

「う~ん、あなたたちの行動はどうにも不純さを感じずにはいられないわね」

「あのさ、もうその辺りはツッコまないでほしいんだけど」

 静加からやっぱり苦言を零されてしまうわけだが、勝は苦笑しながらその先の出来事について話を続ける。

 部屋に戻って三十分ぐらい経った頃、待望のマッサージ師が白衣を身に付けて姿を現した。お化粧が薄めで派手さのないポニーテールが似合う美女だったそうだ。

「俺たちは言われるがまま布団の上にうつ伏せになった」

 いったいどんな施術が始まるのだろうか?と、期待と興奮で胸を躍らせながらその時を待った勝と拓郎。――それから数十秒後、彼らは空気を切り裂くような音を耳にして恐怖を味わうことになる。

『パッシーン――!』

「何の音かと思って顔を持ち上げたら、驚いたことにマッサージ師の美女がムチを手にしているではないか!」

 美女はいつの間にか女王様のようなアイマスクを装着しており、黒光りした皮製のムチをしならせて不敵な笑みを浮かべていた。これこそが”S”の意味、そう刺激たっぷりの加虐を求めるプランだったのだ。

 こんな刺激なんて冗談じゃない!勝と拓郎は悲鳴にも似た声を上げながら室内を逃げ回る。マッサージ師も使命を果たすべく追い回す。温泉宿の一室で男女の大声が鳴り響くのだった――。

「そんなこんなで、俺たち二人の温泉ツアーはドタバタの連続だった。ここで最後の教訓。マッサージ、美女か女王なのかちゃんとチラシに書いてくれ」

 これにて意見文の発表はおしまい。勝と拓郎の二人は頭を低く落としてお辞儀をした。しっかりと最後までやり遂げたわけだが、なぜか教室内は彼らに向けての労いの言葉ではなく小さな笑い声が漂っていた。

 笑わないと約束したはずの静加も、全身を震わせて湧き上がってくる何かを必死になって食い止めている。支えを外してしまったら今にも大爆笑してしまいそうな様相だ。

「あのな~……」

 勝は苛立ちと遣る瀬無さが交錯してついに大爆発を起こしてしまった。

「そんなにおかしいかっ? おお、わかったよ、笑いたけりゃ笑えばいいじゃねーかっ!」

 その直後、約束をしっかり破って静加を含めたクラスメイトたちが腹を抱えて笑い出した。儚くも、担任を含めて二年七組のモラルに約束もへったくれもあったものではないらしい。

 完膚なきまで笑い者にされてしまい、勝と拓郎の二人は悔し涙を流して駄々っ子のように暴れまくった。泣くな、泣くなと静加から慰められても、それから数分間はぐずり続けてしまうからたちが悪い。

 そうはいってもクラスメイトだっていじめっ子ではない。最後まで発表を続けた功労者を割れんばかりの拍手と賛美の声で労った。それがあまりにもオーバーだったせいか、むしろ恥ずかしい思いに駆られてしまう二人だった。

「おまえらにしては上出来だったぞ。褒めてつかわそう」

「偉そうに言ってんじゃねーよ! アホ」

「おまえにだけは褒められたくねーよ!」

 ハチャメチャトリオのやかましくも賑やかな声に包まれる教室内。時計の針を見ると、ホームルームの残り時間もあと十分少々、発表者はあと一人といったところか。

 さて、最後の発表こそ完璧でなければいけない。静加は生徒たちの顔を窺いながらも迷うことなく一人の女子生徒を指名する。無論、締めくくりは彼女しかいないだろう。

「ユミちゃん、申し訳ないけど発表してくれるかな」

「は、はい……!」

 由美は裏返った声を上げて飛び上がるように起立した。クラスメイト全員から注目を浴びてしまい、恥ずかしがりな性格からか原稿用紙を持つ手が小刻みに震えている。

 さらにここまでの発表がグダグダだったせいもあって責任重大、彼女は失敗してはいけないというプレッシャーに押し潰されてとても人前で発表できる精神状態ではなかった。

(……え?)

 頭が真っ白になったままで立ち尽くしていると、前の席からふと聞こえてきた親友の応援メッセージ。それは由美の締め付けられていた緊張をほんのりと解放してくれた。

「原稿に頼らないで思ったことしゃべりなよ」

 拳悟は振り返りもせず正面を向いたままだ。面と向かって話さない方が彼も照れくさくないのだろう。

 原稿用紙一枚にびっしりと綴った文章、そこには由美が日頃から感じていることや考えているさまざまな意見が表現されている。消しゴムで何度も消して、堅苦しくて気難しくまとめてしまった意見文だ。

 だからこそ緊張してしまうのだ。きちんと意見を発表しなければいけないと思うから心が窮屈になってしまうのだ。彼女はそれに気付き、拳悟に感謝の気持ちを込めつつ原稿用紙を机の上にそっと置く。

「ご、ごめんなさい。これから発表します」

 由美の意見文のタイトルは”この八ヶ月間を振り返って”。そう、彼女はここ矢釡市に引っ越してから早八ヶ月が経過したのである。

「昨年の五月、わたしは姉が一人で暮らしていたアパートに越してきて、そして、この派茶目茶高校に転校してきました」

 派茶目茶高校、そこは由美が予想もしていないほど校風がいい加減で風紀の乱れた学校だった。優等生で真面目一辺倒だった彼女は転校早々、不安と戸惑いに支配された。

 遅刻や早退は当たり前、校内で毎日のように繰り返される口論、そして暴力。まるで異世界に迷い込んでしまったかのような錯覚すら覚えて、彼女は精神的苦痛により心を閉ざしていく。

 ある日、我慢がついに限界に達し、彼女は涙を零しながら学校から飛び出してしまう――。

「わたしは現実が怖くなって逃げ出しました。とても悲しくて、寂しくて。ただただその時の自分を認めたくなかったから……」

 一人の少女の行く当てのない逃避行。住み慣れない市街地を彷徨い、行き着いた先は矢釜川の河川敷。そこで由美は独りきりで泣き崩れながら決意した、派茶目茶高校を退学しようと。

 そこへ彼女を学校へ連れ戻そうとやってきた男子生徒がいた。それは何を隠そう、担任である静加から特命を申し付けられた拳悟であった。

「ケンゴさんはわたしを勇気付けて、励ましてくれました。わたしは心から感謝しています」

 当時の様子を思い出して拳悟はクスッとはにかんだ。河川敷の草むらで語り合ったあの日は今にしてみたらいい思い出であろう。

 悲しみに打ちひしがれた少女を説得するのは容易なことではない。実際のところ、由美を救えたのは彼一人の力で成せるわけではなかった。他のクラスメイトたちの熱い友情があったからこそ成し得たのだ。

「クラスのみんながわたしのことを必死になって探してくれて。とても嬉しかった。だから、今のわたしはここにいるんだと実感してます」

 勝に拓郎、麻未に勘造に志奈竹といった仲間たち全員が授業をボイコットしてまで由美の捜索に奔走した。親友として迎え入れてもらえたことを感じられたからこそ、彼女は派茶目茶高校に戻ることを決心できた。

 彼女の意見文を聞いていた親友たちも、当時を懐かしんでみんながみんな笑顔を向けていた。成績が人一倍悪くても人を愛する姿勢だけは負けない。これが二年七組ならではの強い団結力なのだ。

 それからというもの、由美はクラスメイトの一員として親友たちと勉学に励む日々が続いた。それでも辛いことがなかったわけではなく、心の葛藤に苦しんで泣いてしまう夜もあったという。

「でも、わたしは考えています。悲しいことや辛いことを乗り越えることが自分自身の成長なんだ、と」

 試練や困難から逃げてはいけない。立ち向かう壁が高いからこそより成長していける。授業でカリキュラムを学ぶだけでなく、授業にはない対人関係や信頼関係の構築も重要なのだ。

 由美の思いの丈を黙って聞いている静加。転校生として学校に通い始めた頃を回想しながら、おどおどしてばかりの少女がここまで大人になったことに胸が熱くなる思いを感じていた。

(ユミちゃんがまさかここまでたくましくなるとは。でも、彼女が本当の大人になるのはこれからかも知れないわね)

 教え子の成長を心から喜ぶ担任の優しい眼差しの中、由美はいよいよ意見文の発表を終える。

 高校二年生の生活もあと残り三ヶ月。これからもずっと仲良くしてほしい、そしてみんな一緒に三年生に進級したいという希望とともに由美は意見文を結んだ。

「これからもよろしく~!」

 二年七組の教室内が怒涛のごとく拍手の渦に包まれた。由美に対するクラスメイトからの激励と賞賛の声がいつまでも鳴り止まない。

 ありがとう!由美も元気いっぱいの声を上げてそれに応える。親友たちの笑顔に囲まれたことに感極まり、彼女の瞳には感動の涙が滲んでいた。

 彼女がみんなから愛されていることを素直に喜んでいる拳悟。素敵な出会いとドラマチックな恋愛を経験し、より美しい女性になってほしいと願いつつ大きな拍手を送り続けた。

「よし、ユミちゃんが立派な大人になるために一肌脱ぐとするかな!」

 気合を入れる拳悟に逸早く反応したご近所の女子生徒二人。それぞれがぞれぞれの捉え方でツッコミを入れてしまう。

「やり過ぎないでくださいませ。間違った大人になったら承知しませんわよ」

「一肌脱ぐのはいいけどさ、ホントに脱いだら先生に言い付けちゃうからね」

 由美は二年七組のアイドルだから清純そのもの。舞香と麻未からチクリと釘を刺されて、ポリポリと髪の毛を掻きながら苦笑いするしかない拳悟であった。

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