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第二十六話― 不治の病と闘う悲しき美少女(2)

 矢釜市立中央病院――。矢釜市内において病床数では一二を争う総合病院である。

 この白亜の建造物の中には内科や外科、小児科や眼科など外来患者を受け入れるたくさんの診療科が揃っている。そのおかげで、病院のエントランスは老若男女さまざまな人々で賑わっていた。

 拳悟と勝、そして由美の三人は予想以上の広さに驚いて呆気に取られていた。

 健康バカの彼ら二人は幼少時に来訪した記憶はあるだろうが、ここ最近ではまずここにお世話になることはない。引っ越してまだ一年未満の由美にしたら今日が初めての訪問だった。

 外来受付を通り過ぎて歩くこと数分、男女四人は病棟のエレベーターへと乗り込んだ。柚加利の親友の病室は七階の七○三号室とのことだ。

「おい、ユカリ。まだ病室に着かないのか?」

「しかし病院ってでかいよな。足が疲れたぜ」

 七階に到着してからというもの、拳悟と勝の二人は不平不満ばかり口にしていた。文句を言えば静かにしろと柚加利から注意されるものだから彼らもフラストレーションが溜まる一方だ。

 看護婦や入院患者とすれ違うたびに、柚加利と由美は微笑ましくお辞儀をする。これこそが、多種多様の人が往来する公共施設における礼儀作法と言えよう。彼らもしっかり見習ってほしいところだ。

 清潔感のある真っ白な廊下を歩き続けているうちに、男女三人はようやく七○三号室のドアの前まで辿り着いた。

 いったいどんな女の子だろう?拳悟と勝は頬を綻ばせて胸を高鳴らせる。由美も初対面のせいで緊張しているのかそわそわして落ち着きがない様子だ。

 コツコツと小さくノックしてからドアを開ける柚加利。

「アスカ、ごめんね。遅くなっちゃって」

 窓から降り注ぐ優しい日差しに照らされる四人部屋の病室、白いシーツに包まれたベッドの上で横たわっているピンク色のパジャマを着た一人の少女。

 お見舞いに来てくれた親友に気付き頭をもたげる彼女。毛先がカールしている艶やかな髪の毛を肩まで伸ばし、パッチリとした二重まぶたが愛らしい純粋無垢の美少女だった。

「ユカリ、気にしないで……。いつもありがとう」

 病床に伏せる美少女アスカは、ゆっくりと上半身を起こして消え入りそうな声でお礼を告げた。病気のせいなのか血色は良くないが、親友を迎え入れるその表情は思いのほか元気で明るかった。

 それでも体格は小柄で細身、健常者ではないことは明白だ。その美しくも儚い女神のような姿を目の当たりにして、拳悟と勝はショックのあまり絶句してしまっている。

(な、何ということだ。これほど汚れのない純情な女の子がこの世に存在していたとは……!)

(し、信じられない。あの子の顔を見ているだけで、俺の心まで真っ白に浄化されていくようだ)

 由美も彼らの隣で呆然と立ち尽くしていた。強く触れたら壊れてしまいそうなピュアな雰囲気を持つ少女に同性ながらも思わず見惚れてしまっている。

 魅惑のオーラによって囚われの身になっているゲスト三人。アスカは彼らに気付いて愛らしい瞳をパチパチと瞬きさせていた。

「その人たちは?」

「友達を連れて来たの。紹介するわ」

 柚加利から名指しで紹介された拳悟と勝、そして由美。いつもなら陽気な挨拶で笑いを取る彼らでも、今日ばかりはギクシャクとした表情を向けるのが精一杯。由美も何回もお辞儀をしてしまうほどぎこちなかった。

「今日はね、みんなでこれを買ってきたのよ」

 お見舞いのためにとお小遣いを叩いて買ってきた花束。柚加利がそれを棚の上に飾り立てると、アスカの女神の微笑みがより輝きを増した。

「まぁ、綺麗。どうもありがとう」

 アスカは明るく笑ってお見舞いに来てくれたみんなに一礼した。ところがそれから数秒後、彼女は瞳を閉じて表情を曇らせてしまった。

「……ユカリが羨ましいな。他の学校にもお友達がいるなんて。わたしなんか同じ学校にもお友達が少ないのに」

 高校に入学してからというもの、体調不良でほとんど学校に顔を出していないというアスカ。友達と呼べる友達も少なく、他校との交流など皆無と言っても過言ではなかった。

 病気を治してお友達と遊びたい……。彼女は望むべき切なる願いを口にする。それが痛いほどわかるのだろう、柚加利は彼女の震える両手を握り締めて元気付けることしかできない。

「アスカ、気を落とさないで。もうすぐ、わたしと一緒に学校に行ける日が来るんだから」

「ありがとう、ユカリ。たとえそれが叶わなくてもそう気遣ってくれるだけで嬉しいわ」

 病気は必ず治ると勇気付けられても、アスカは自信がないのか弱気な答えを返すだけだった。入院生活がそれなりに長くなっているせいもあってネガティブ志向が根付いているのだろう。

 屋外の景色を眺めるしかない不幸の星の下に生まれた少女、そんな悲劇のヒロインをどうにか支えてあげたい。そう決心した拳悟はなぜか横にいる勝の腕を掴んで病室の隅っこへと移動した。

 いったい何があったというのか?柚加利と由美の二人は不安な顔色を覗かせつつ彼らの行動から目が離せなかった。

「おまえはおまけでここまで付いてきたんだ。だから、あの子と馴れ馴れしくするんじゃないぞ、わかったな?」

「はぁ、おまえは突然何を言いやがるんだよっ!?」

 勝は理不尽な要求を突き付けられてつい声を荒げてしまう。静かな病室に男性の尖り声が響いてしまったが、幸い、この四人部屋の病室にはアスカ以外の入院患者はいなかった。

 アスカとフレンドリーな関係になるから邪魔するな。拳悟は釘を刺すようにそう忠告したが、それは美少女を独占したいという単なるわがままに他ならない。当然ながら勝が黙っているはずがなかった。

「て、てめぇ、ふざけんじゃねーよっ! 絞め殺すぞ、こらぁ!」

「ぐ、ぐげぇ!?」

 拳悟の首根っこを掴んでギリギリと締め上げる勝。いつもなら口喧嘩レベルで済むところだが、今回ばかりは憎しみが込められているのかかなり本気モードだった。

 病室内で堂々と喧嘩を始めてしまう男子二人、それを逸早く止めようと仲裁に入る由美と柚加利。――そして、男性の大声に慣れていないせいか身を縮こまらせてしまうアスカ。

「もう、あんたたち、いい加減にしなさい。ナースコールしちゃうわよ!?」

「ユカリちゃん、それしちゃったら余計に大騒ぎになっちゃうよっ!」

 憤慨するあまり柚加利は素っ頓狂なことを口走っていた。一人だけ冷静さを失わないように振舞っていた由美もどうしていいのかわからず困り果てるしかない。

 少年少女がそれぞれの感情をぶつけ合う中、意外にも病室内に優しくも柔らかなクスクス笑いが聞こえてきた。それは何を隠そう、入院生活のせいで喜びすら忘れてしまっていたアスカだった。

 その囁くような微笑がいつしか声高らかな爆笑へと変わっていった。予想外のことにびっくりして動きを止めてしまう男女四人。みんながみんな、黙り込んだままキョトンと首を傾げている。

「は、ははは……。おもしろい人たちだね。ごめんなさい、つい我慢ができなくて」

「……アスカ」

 柚加利はこの時、これまでに触れたことのない親友の笑顔に安堵した。やかましいお見舞いも、寝てばかりの彼女にとってはいい刺激だったのかも知れないと。

 そうはいっても、下らない理由で口論を繰り広げた拳悟と勝は反省に値する。柚加利と由美からお説教を受けてしまった彼らは、気まずそうに肩を落として小さくなっていた。

 それからというもの、アスカはゲストとしてやってきた他校の生徒とすっかり打ち解けて有意義な時間を過ごしていた。学校の行事や校風など、鳥かご生活の長い彼女にしたらそのすべてが興味津々だったようだ。

 賑やかな笑い声が廊下を歩いている病人を驚かせていたそんな最中、会話が丁度途切れたタイミングで由美が気になることを質問しようとした。

「あ、あの、一つ聞きたいんだけど……」

 由美が場繋ぎとして質問しようとしたこと、それはアスカの病状についてだった。

「…………」

 騒がしかった七○三号室内に一瞬の沈黙が訪れる――。

 それからほんの数秒後、アスカは消え入りそうな声でその質問に答える。

「ただ一つだけ言えることは、わたしの病気は治る見込みがないってことだけ」

 生まれて間もない頃は元気いっぱいで、感受性豊かな幼少時代を過ごしたというアスカ。ところがある日を境にして、何の前触れもなく気分が悪くなる日が増えて学校を欠席しがちになってしまう。

 そのたびに通院するも診断結果はいつも異常なし、それでも通学したらしたですぐに具合が悪くなり、早退を繰り返す日々が続いて日常生活にも支障をきたすようになってしまった。

 高校に進学した頃には外出することすらままならず、彼女の両親も苦渋の決断ではあったが、加療に専念させるために入院という選択肢を選ばざるを得なかったというわけだ。

 己の哀れさを悲観して涙する悲劇のヒロイン。これに居ても立っても居られず、柚加利が弱気な親友を諭しつつ激励のメッセージを送る。気持ちで負けていたら治る病気も治りはしないと。

「ありがとう。でもね、わたしにはわかってるの。二度と退院なんてできないって」

「アスカ、そんなことないって」

 柚加利が熱意を込めて励ましても、胸中にある闇は深いのかアスカはそれを前向きに受け取ろうとはしなかった。そっと瞳を閉じて信じ難い台詞をポツリと呟く。

「わたしの病名は、がん……」

「――えーっ!?」

 日本人の死亡原因第一位である”がん”――。

 抗がん剤治療でも完治できる見込みが少ない不治の病、それは高校生の少女にとってあまりにも過酷な現実だ。由美が驚愕の声を上げてしまうのも無理はない。

 ずっしりと重苦しい空気が病室内を覆い尽くす中、アスカはゆっくりと瞳を開けて淀むことなく次の台詞を続けた。

「……じゃないって、看護婦さんが言っていたわ」

 思わず片足を滑らせて転びそうになってしまう由美。ホッと胸を撫で下ろすよりも先に、紛らわしい言い方をしないでとツッコミたくなる衝動を抑えるのに精一杯の彼女であった。

 いくら病名ががんではなかったとしても、長期入院を余儀なくされている不幸な事実は変わらない。アスカは窓の向こうで羽ばたく小鳥の姿に目を奪われていた。痛みと苦しみのない自由を羨望するかのごとく。

「いいなぁ、お外の世界って。わたしはきっと鳥かごの中で生きていく運命なんだよね……」

 虚空を見つめる少女の潤んだ瞳から数滴の涙が零れ落ちた。

 これには慰めの言葉が見つからず、柚加利と由美は悲痛のあまり胸の奥が熱くなって顔を俯かせていた。拳悟と勝に至っては、感情を堪えきれずに涙を流して男泣きしてしまう始末だった。

「ちょっと、もらい泣きしないでよ。大の男がみっともないわよ」

「バカもん、ここで泣かずしていつ泣くと言うのだぁ~」

「そうだっ、こんな悲しい出来事は過去に一度もないぞ~」

 女々しく泣きべそをかいている男子二人。それほど涙もろいわけでもない彼らだが、美少女の哀れむ横顔があまりにも悲劇的過ぎて涙が止まらないといったところか。

 柚加利が呆れ顔で彼らを叱り付けている中、由美一人だけがアスカのベッドに寄り添って語りかける。この世に治療で治せない病気なんてない、退院したら一緒に遊びに行こうと勇気付けながら。

「どうもありがとう、ユミさん。そう思ってくれるだけで嬉しいわ」

 アスカは初めてできた他校の友人に心から感謝の思いを伝える。しかし、それを気休めとしか受け止められない彼女の顔色はやはり明るく染まることはなかった。

 ピンク色のパジャマの上から胸に手を宛がう彼女。その数秒後、苦しみと悔しさを噛み締めながらパジャマを強く掴んで悲哀の表情を浮かべた。

「わ、わたしは……どうにもならないの。いつか、きっと……うっ!」

 突如、悲哀の表情からいきなり苦悶の表情へと変化した。これはどう見ても様子がおかしい。

 アスカの体調に異変が起きたに違いない――!柚加利と由美、そして拳悟と勝は冷静さを失ってしまい全身が硬直してしまっている。

 兎にも角にもナースコールが先だと判断し、拳悟がすかさずベッドのそばにあるスイッチを押そうとした次の瞬間、何事もなかったかのようにケロッとした表情で頭を持ち上げるアスカ。

「……こんな風に発作が来て苦しみながら死んでしまうの」

「今発作が来たんじゃねぇのかよ~!?」

 拳悟はツッコミを入れながらヘッドスライディングでズッコケてしまった。もちろん、他の仲間たちもスルッと足を滑らせて危うく床の上に尻餅を付いてしまいそうだった。

 間違ったナースコールでお騒がせには至らなかったものの、このアスカという悲劇のヒロインはどうも人騒がせな性格のようだ。困ったことに、これが無意識にやっている行為だからある意味恐ろしい。

「大丈夫だよ、アスカちゃん。この俺も一緒になって病気と戦ってやるからさ」

「無事に退院したらさ、俺がいろいろなところへ連れていってやるよ」

 ニコッとさわやかに笑って、拳悟と勝はドン!と胸板を叩いた。

 春にはお花見にピクニック、夏には海水浴に花火鑑賞、秋にはハイキングに落ち葉刈り、冬にはスキーに雪合戦と、彼らはどんな時でも遊び心を忘れてはいけないと力説する。

 これには柚加利と由美も声を揃えて同調した。生きていれば楽しいことがいっぱいある、だから諦めちゃいけない。彼女たちも握り拳を作ってアスカの弱気を吹き飛ばそうとした。

「遊びのことなら俺たちに任せてくれよ」

「そうそう、とくに男遊びの手ほどきとかな」

「こらこら、アスカに余計なことを吹き込むんじゃないのっ!」

 いくら遊び心を持ってほしくても許せるものと許せないものがある。柚加利は眉を吊り上げて拳悟と勝のお尻に回し蹴りをお見舞いした。

「みんな、わたしのために本当にありがとう……」

 アスカの悲し涙はいつしか嬉し涙に変わっていった。親友たち一人一人の熱意を感じた彼女、表情こそ沈んだままだがどこか心が救われた気がしていた。

『――コツコツ』

 七○三号室のドアをノックする音。静かにドアを開けて入ってきたのは、アスカを担当している三十代後半のインテリ風のメガネを掛けた看護婦であった。

 柚加利とは面識のある彼女はニコッと微笑んで挨拶をすると、今日初めて出会った新しい顔ぶれを眺めながら口元を緩めて会釈した。

「良かったわね、アスカさん。こんなにたくさんお友達がお見舞いに来てくれて」

 看護婦から愛嬌を振りまかれても、アスカは小さく頷くだけであまり嬉しそうではなかった。邪険にしている雰囲気でもないが、明らかに友人たちの前で見せる表情とはどこか違う。

 病弱とはいえ無愛想なタイプでもないアスカ、当然ながら長く連れ添っている看護婦がそれを知らないはずがない。彼女は疑問を感じてかそれについてさりげなく尋ねてみることにした。

「ん、アスカさん、どうかしたの?」

「……看護婦さん、そろそろ教えてもらえませんか?」

「教える? 何をかしら?」

 意図が思い当たらず小首を傾げる看護婦。それをとぼけていると解釈したのか、アスカはムスッとした顔になって語調を強めて訴えかける。

「ごまかさないでっ! わたしの病名は何なの!?」

 アスカは瞳いっぱいに涙を浮かべて看護婦の腕にすがりついた。

 糖尿病なのか?それとも精神疾患なのか?はたまたエイズなのか?アスカは堰を切ったかのごとく思い付くままに病名を並べていく。たった一つの命、そう彼女だって生きることに必死なのだ。

 一方の看護婦はどう対処してよいのかわからず困惑するしかなかった。何かをごまかしている素振りなのは明白で、無我夢中になって食らい付いてくるアスカを説得しながらどうにか振り解こうとしている。

「アスカさん、暴れちゃダメでしょ、検温ができなくなってしまうわ」

「検温なんかしたって無意味なのはわかってる! 正直に話してください」

 病状が明かされないままでは納得がいかない。アスカの気持ちを察しているのか、柚加利や仲間たちは押し黙ったままその様子をじっと見つめることしかできなかった。

 このまま興奮状態が続いたら血圧が上昇して検温どころではないだろう。看護婦はやむを得ず強硬手段に出ることにした。

「おとなしくしないとダメでしょっ!」

『ドスッ!』

 その強硬手段は何と、アスカの首筋に手刀を振り落とすプロレス技のモンゴリアンチョップ。的確な角度で決まった一撃により、彼女は白目を剥いて気絶してしまった。

 いくらなんでもこの強硬措置はひど過ぎる。柚加利はびっくり仰天して大声を張り上げずにはいられなかった。

「看護婦さん! 病人に何てことするんですかっ、まさかモンゴリアンチョップだなんて――!」

「ご心配なく。これも主治医から指示されているマニュアルの一つだから」

 医療のマニュアルにプロレス技なんてあるのか?と柚加利たち一同の疑念は膨らむばかりだが、取り乱してしまった親友が体調を崩さずに済んで安堵したことは否めない。

 アスカをベッドに寝かし付けると、看護婦は検温などバイタルサインの測定を事務的にこなしていく。この冷静沈着さこそが、入院患者一人ひとりと真摯に向き合えるたくましさの所以であろうか。

「さて、おしまい。あなたたちもアスカさんのためにも、そろそろ引き上げた方がいいわよ」

 やんわりと退室を促された柚加利たち男女四人。しかし、奥歯に物が詰まったような看護婦の態度に釈然としない思いがあった。その理由は単純明快で、アスカの病名が気になって仕方がないのだ。

 このまま何も知らずにおとなしく帰るなんてできっこない。柚加利は表情を険しくしながら看護婦に面と向かって問いただした。

「お願いです、看護婦さん! アスカの病名を教えてください」

「え? あ、あなたまで何を言い出すの」

 禁句とも言うべき質問を繰り返されてしまい、看護婦は冷や汗を飛ばして狼狽していた。それを証拠に、インテリ風メガネの奥にある目が落ち着きなく周囲を泳いでいるのがわかる。

 戸惑っている間にも由美と拳悟、そして勝にも取り囲まれて逃げようにも逃げられない状況になってしまった彼女、ポーカーフェイスを貫いて切り抜けようとしたがどうやら無理のようだ。

「と、とにかく病室を出ましょう。アスカさんが起きてしまうわ」

 病人をこれ以上刺激してはいけないと、看護婦に付き添われる形で柚加利たち一同は七○三号室から退室した。

 廊下の壁際に一列になって整列する少年少女四人。覚悟を決めたかのように、二回ほど深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。

 ここで看護婦が固く閉ざしていた口を静かに開く。アスカの病名については主治医から口止めされているらしく、今のところ両親しか知らないとのことだ。

「や、やっぱり重病……なんですね?」

「ええ、奇病といっても過言ではないわ」

 まさかそこまで深刻だとは――!柚加利は親友の未来を危惧するあまり言葉を失っていた。他の仲間たちもショックを隠し切れず顔色に不安が広がっている。

 よくよく思い返してみれば、通院しても異常なしと診断されたり長期間の入院を余儀なくされたりしたのがそれをすべて物語っているだろう。アスカは二度と翼を広げて大空を羽ばたくことはできないのだろうか?

「いい? アスカさんには絶対に言ってはダメよ」

『コク……』

 柚加利も由美も、そして拳悟も勝も緊張の息を呑み込んで小さく頷く。

「アスカさんはね、幸福を感じると体調を崩してしまう、言わばわたしたちとはまったく逆の感性を持っているのね」

 幸福感――。空がとても青かった、海がとても綺麗だったといった小さなものから、両親にたくさん褒められた、お友達とたくさん遊んだなどの大きなものまで、人それぞれが素直なままに抱く感情だ。

 アスカは感受性が豊かなので、そういった幸せを人一倍大げさに受け止めてしまう性格らしい。そのため、あまりに幸福を感じ過ぎると心がオーバーフローしてしまうというのだ。

「だからあの子は、無意識のうちに幸せよりも不幸を抱え込んで気持ちを解放するようになってしまったの。まるで悲劇のヒロインを演じるかのごとく」

 このままでは、これからの厳しい社会で生き抜くことは困難であろう。アスカの長期入院生活の背景には、主治医と両親のこんな悩ましいやり取りがあったというわけだ。

 幸福を拒否する病なんてこの世に存在するのかと、柚加利たち一同は目を丸くしながら看護婦の話を聞き入っていた。

 そんな彼女たちの関心はアスカが無事に退院できるかどうかだが、それよりも気になるのは奇病とも言うべき病名だった。

「……その病名というのはね」

「はい、その病名とは?」

 看護婦と少年少女四人が真剣な表情を向け合う。

 真っ白な壁で囲まれた廊下に一瞬の沈黙がやってきた。いよいよアスカの病名が明かされる。

「後天性不幸に浸っちゃう症候群」

「なんじゃ、そりゃ~!?」

 意味不明、理解不能、まるでギャグみたいな病名を聞かされては、完治できるも退院できるかもまったく予想が付かず、驚嘆の声を上げながら廊下にズッコけてしまう少年少女四人であった。

 ちなみにアスカがその奇病を克服して退院したかどうかは、この物語で語れることはないのでご想像にお任せしたい。

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