第二十四話― スケールにびっくり! 伊集院家で大騒動(1)
十二月も最終週に差し掛かり、年越しの準備に追われて慌しく過ぎていくそんなある日。
乾燥晴れとはいえ気温が一桁しかない真冬のような朝、ここは由美が暮らしているアパートだ。
「う~、寒いわね~」
狭い部屋のど真ん中にあるこたつに入ってガタガタと震えている理恵。極度の寒がりなのか、電気ストーブも遠慮なくがんがん炊いて寒さを凌いでいた。
洗面台で顔を洗って部屋へと戻ってきた由美。防寒具を着衣してまで寒さと戦っている姉の不甲斐なさに苦笑しながら呆れた声を上げる。
「お姉ちゃん、お家の中でマフラー巻くのはやめようよ」
「だ、だって寒いんだもん! 仕方がないでしょ」
マフラーだけではなく、外出用のトレンチコートまで羽織っている理恵の寒がりは半端ではない。どんな用事も知ったことではないと、こたつから一歩たりとも動こうとはしなかった。
幸い、彼女の会社も冬期休暇に入ったので慌ててメイクしたり着替えたりして出掛ける必要もなく、こうしてだらけた朝を過ごすことに何も支障などなかったわけだが。
「それにしても不思議よね。どうしてこんなにいいお天気なのに寒いのかしら?」
理恵は窓から差し込む優しい日差しを見ながら呟いた。太陽が顔を覗かせているにも関わらず、気温が一向に上がらない実情にただただ疑念を浮かべるばかりだ。
お天気に詳しいわけではないが、由美はその疑問に知り得る範囲で解答しようとする。暖かいコーヒーを二つ持参してこたつの中へ両足を注ぎ入れながら。
「これはね、放射冷却現象って言うんだよ」
「ホウシャ、レイキャク……。何それ?」
放射冷却現象――。気象にまつわる用語の一つであるが、ここは由美に代わって解説しよう。
冬から春に掛けての時期、日照時は太陽からの熱が地表に注がれて暖かくなるが、夜になって日が沈むと暖かくなった地表の熱は上空へと放射していく。
この時、強い風が吹いていたり雲が発生していると熱が上空と大地とで循環するのだが、星空のように晴れた夜空だと暖かい空気がどんどん上空へと逃げてしまい朝になるとびっくりするほど気温が低下してしまうのだ。
これは風が発生しにくい盆地で起こりやすい現象であって、矢釜市のような海沿いの地域で発生するのは珍しい。だからこそ、理恵が不思議そうに小首を傾げるのも無理はないのだ。
「ふーん、どうりで底冷えするわけだ」
今朝の冷え込みの原因を知って納得したのはいいが、それでも寒さがなくなるわけではないので、理恵は妹が用意してくれた熱いコーヒーをすすって寒さを紛らわした。
『ジリリリリ……、ジリリリリ……』
朝八時になろうかという時刻、アパートの電話がけたたましく鳴り響いた。
当然ながら理恵がこたつから離れて電話に出るわけもなく……。こういうケースでは、基本的に妹が面倒な役目を背負う運命というべきか。
由美はそそくさと立ち上がり、鳴り止まない電話機の受話器を手に取った。相手の声に耳を澄ませてみると、予想外にもクラスメイトからの電話だったことに驚いてしまった。
「あれ、マイカちゃんじゃない。どうかしたの?」
この電話の相手こそ、由美と同じ二年七組に籍を置く女子生徒の伊集院舞香である。典型的なお嬢様でクラス内では異端児と呼ばれてはいるが、由美とはわだかまりがあったものの今ではすっかりお友達同士だ。
舞香が電話してきた理由、それは割りと単純なもので冬休みに入ってから暇を持て余しているとのこと。もし都合がよければ自宅のお屋敷に招待したいがどうだろうか?という内容だった。
「遊びに? うん、いいけど。でもわたし、マイカちゃんのお屋敷わからないよ?」
矢釜市では有数の大富豪だけに知らぬ者はいないと噂される舞香の住まいであるが、由美は遠くから引っ越してきた関係もありそれを知らなくて当たり前なのである。
ここで舞香が言うには、矢釜東駅から北東方面に十数分ほど歩けば敷地が見えるから迷わないだろうとのこと。それだけの情報を頼りに、由美は伊集院コンツェルンのお屋敷まで辿り着くことができるのだろうか?
「お姉ちゃん、お友達から誘われたから出掛けてくるね」
「はーい、気を付けて行ってらっしゃい」
すっかり丸まった猫のような姉に見送られて、由美は身支度を整えるなり放射冷却で冷え込んだ屋外へと出掛けていった。
初めて来訪することになる伊集院家。そこでとんでもない事件に巻き込まれることなど、今の彼女には当然想像できるはずもなかった。
* ◇ *
「う~ん、この辺まで来ればすぐにわかるって言われたけど……」
矢釜東駅を背にして北東方面へと足を運んでいる由美。この台詞からわかる通り、彼女はただいま迷子状態であった。
いくら大きなお屋敷とはいっても、上空からならまだしも平坦な道を歩いての捜索ではなかなか発見できるものではない。彼女は周辺をキョロキョロと見回しながら住宅地を彷徨っていた。
そんな中、密集した住宅地の路地をスクータータイプのバイクで走行している男子高校生がいた。
「ありゃ、ガス欠間近じゃんか。参ったな、家まで給油なしで持つかな」
半キャップのヘルメットを被って、青地の襟巻きを風でなびかせているこの少年こそ、冬休みに入ってからというもの宿題もほったらかして遊び呆けている拳悟だった。
彼は夜更かししてから家路に向かう途中、舞香の自宅に辿り着けずに迷っている由美とバッタリ遭遇した。
「よう、ユミちゃんじゃないか!」
「ケンゴさん!」
これこそ渡りに船。由美にとっては幸運と言うべき偶然の出会いだ。
彼女は舞香からご招待されたことを告げて、お屋敷までのルートがわからなくなってしまった事情を伝える。すると、さすがはクラスメイトらしく拳悟は親切丁寧に道しるべになってくれると答えてくれた。
「そうか、おじょうの家に行くなら俺も行ってもいいかな?」
「いいですよ。マイカちゃんも反対しないだろうし」
心強い助っ人の登場にホッと胸を撫で下ろした由美。進むべき道も開けたということで、舞香が待ちわびているであろう伊集院邸を目指していざ両足を動かし始める。
「それはそうと、マイカちゃんのお家ってどの辺なんです?」
「ん? アイツの家ならもうとっくに着いてるよ」
すでに到着している――?由美はそれが理解できるはずもなく頭を傾げる。それもそのはずで、屋敷にあるべきはずの玄関らしき出入口がどこにも見当たらないのだ。
彼女の視点の先にあるもの、それは何の変哲もない高さ二メートルほどの白亜のコンクリート壁。それが道路のはるか遠くまで伸びており、壁の上には針金でできた有刺鉄線が張り巡らされている。
「どういうことです?」
「どうもこうもないよ。この壁の向こうがおじょうの家なんだよ」
拳悟の答えがどうも的を射ておらず、由美はますます頭が混乱するばかりだった。
つまり、この白亜のコンクリート壁こそが伊集院家の外壁であり、物々しい有刺鉄線は侵入者防止のためのセキュリティー対策だったのだ。
外壁の上を臨んでみても冬の空が広がるばかりで建物などまったく見えない。これではお家だと判断できないのも無理はないわけだ。
論よりも証拠を示した方がいいだろう。付いてらっしゃいと言わんばかりに、彼はスクータータイプのバイクを引きずりながら前進を始めた。当然ながら彼女はその後ろ姿を追い掛けていくしかない。
それはそれは長い長い白壁沿いを歩いて数分ほど、彼ら二人はようやく門戸らしき木製の扉の前まで辿り着いた。さすがは大富豪の豪邸だけに、高性能の防犯カメラのファインダーが彼らのことを出迎えた。
彼曰く、ここが来客が出入りする勝手口とのこと。というわけで、扉のすぐ横に設置されているインターフォンの呼び出しボタンを押してみる。
『キンコーン、キンコーン、キンコー……』
呼び鈴の音が反響を繰り返しながら消えていった頃、伊集院家の家政婦だろうか丁寧な物腰で滑らかな口調の女性から反応が返ってきた。
「あの、わたし夢野由美と言います。伊集院舞香さんからご招待されてて」
「はい、夢野様ですね。伺っておりますよ、今開けますからどうぞお入りください」
インターフォンが切れると同時に木製の扉が自動的に開放された。いよいよ、矢釡市屈指の大金持ちである伊集院家のお屋敷へ訪問する時がやってきた。
「あ、あれ?」
扉の向こうへ一歩足を踏み入れた途端、由美は思ってもみない光景を目撃した。
そこにあったものは玄関ではなく、植物の蔦が絡み付いたアーチ状のトンネルだった。しかも、そのトンネルの先は緩やかなカーブを描いた遊歩道として整備されている。
彼女は戸惑いのあまり右往左往しながら緑色のトンネルを潜ってみた。すると、遊歩道の脇には所狭しとレンガ造りの花壇が並んでいた。今は冬だが、春にもなればここでは大層綺麗な花を咲かせるに違いない。
「もしかして、ここってお庭……なんでしょうか」
「だろうね。俺も初めてここに来た時はびっくりしたよ。パラレルワールドに迷い込んだかと思ったもん」
まるで公園のようなガーデンを歩き続けること数分、最後のアーチ状のトンネルを抜けた由美はついに伊集院邸の全貌を目の当たりにする。
そこはまさに資金を惜しみなくかけて造り上げた宮殿そのものだ。
艶やかな大理石の柱をふんだんに使い、芸術的な装飾をあしらった玄関の両脇には彫刻品が並んでいる。豪華な高級ホテル並みに立派なこの建造物を眺めて、ごく普通の一般家庭で生まれ育った彼女は声を失ってしまい驚愕するしかなかった。
「これがマイカちゃんの暮らしているお家だなんて……」
「贅沢の名を欲しいままにしてるって感じだよな」
驚くのは何もお屋敷ばかりではない。建物の左側には広大な敷地があり、アスファルト舗装された五十メートルぐらい幅のある道路が敷いてあった。拳悟が言うには、そこは自家用セスナ機の滑走路らしいのだ。
それだけではなく緊急用のヘリポートも完備しているそうで、矢釜市を経済面で牛耳っている伊集院コンツェルンの名声を市井に轟かせるには十分過ぎる設備が揃っていた。
あまりのスケールの大きさに圧倒されてしまった由美。じっと立ち尽くしたまま呆然としていると、宮殿のようなお屋敷の正面から一人の少女が姿を現した。
乱れのないワンレングスの黒髪、真っ白なワンピースの上にミンクの毛皮を羽織った伊集院家のお嬢様である舞香のご登場である。
「ユミちゃん、ようこそ。遅かったですわね」
「ごめんね、マイカちゃん、まさかこんなに大きいお家とは思わなかったから」
苦笑いというか照れ笑いというか、由美の表情は緩みながらも強張っていた。天と地ほどの差のある親友ができてしまっていたことに動揺を隠し切れない様子だ。
大富豪のお嬢様だけに鼻に掛けた態度の舞香ではあるが、だからといって親友相手にわがままを押し通したりしてやりたい放題というわけでもなかった。ここ最近は思いやり教育も家庭教師から教わっているらしい。
「あら、ケンゴくんもいらしたの」
「よう、途中でユミちゃんにバッタリ会ってな」
舞香は拳悟の来訪も快く招き入れてくれた。来客が一人二人増えたところで困ったりするほど器は小さくないといった感じであろうか。
「おじょう、悪いんだけどさ。ガソリンちょっとでいいから恵んでくれない? お金持ってなくて家まで持ちそうにないんだわ」
玄関の右側の方を指差している拳悟。よく見てみると、そこには小規模ながらも給油スタンドのような機器が備わっている。
こういう時ほどお金持ちの友人を巧みに利用しようとするお調子者。両手を擦り合わせて懇願すると、舞香は嫌な顔を一つせずに満タンにして構わないと了承してくれた。
「へぇ、マイカちゃんのお家にはガソリンスタンドまであるんだ~」
「わたくしの家には自家用車だけでも十台もあるんですの。だから専用のスタンドが必要なの」
ここでまたスケールの大きい話が出てきたわけだが、舞香の言う”だけでも”という台詞が味噌である。
実際のところ、伊集院家には自家用車以外にも敷地内を移動するためのカートや清掃用の作業車もあるので、自宅にガソリンスタンドがないと何かと不便なのであった。
愛用のバイクのタンクに遠慮なく満タン給油させてもらった拳悟。これで帰宅難民に陥る心配がなくなってホッとしたというところか。
「お二人とも、どうぞ中に入って」
「はーい、お邪魔します」
舞香のご招待により、由美と拳悟の二人は豪華絢爛なお城のような屋内へと足を踏み入れた。
まず彼女たち二人を出迎えたのは、目に眩しいぐらい真っ赤なペルシャ絨毯で敷き詰められたロビーだった。
ロビーの真ん中には上階へ通じる階段があり、そこを上がった先の踊り場の両脇には家人の部屋と客間へ通じる廊下がある。当然ながら由美と拳悟は客間の方へと案内された。
お金持ちのプライドを誇示したいのか、客間前の廊下には有名作家らしき人の絵画が飾ってある。舞香がそれをさり気なく自慢しても、一般人の二人にはちんぷんかんぷんであった。
「しかし、おまえん家はホントにバカでかいよな」
「それにしてもすごいなぁ、客室もホテルみたいにたくさんあるね」
拳悟の声は嫌味っぽくて呆れたものだったが、由美の声は感激というよりも衝撃に近かった。
経済界に幅広い交流があるだけに客人もたくさん来るのだろう、客間も一室だけではなくいくつもあって部屋のドアには部屋番号が記されたプレートが貼り付けてある。
長くて広い廊下、それにたくさんの個室。それがさまざまな地点で交差したりしているものだから、ここはお屋敷というよりも迷宮と呼んでも違和感がなかった。
「これだけ広いと、お家で迷子になったりしない?」
「そうね、小さい頃はあったかしら」
舞香は歩を進めながら幼少の頃を振り返る。それこそ好奇心旺盛の少女が冒険気分でかくれんぼしたりして、迷子になって泣きべそかいたのも今となってはいい思い出だ。
いくら襟を正したお嬢様とはいっても、いたずらをして両親を困らせるのはどんな家庭でも同じというわけだ。
「あら、そういえば……」
ふと、舞香が何かを思い出したようだ。彼女は立ち止まってしまい眉をひそめて険しい表情をしている。
家人が道案内せずにストップしてしまっては、由美と拳悟の二人も首をコクリと捻って立ち止まるしかない。はてさて、舞香は何を思い出したというのか?
「ずいぶん前ですけど、当時メイドだった女性が行方不明になったと聞いてから、まだ見つかったという報告を受けてないですわ」
伊集院家の豪邸には当然ながら使用人がたくさんいる。雑用一般をまかなうメイドだって複数人いるわけで、その中の一人がいなくなったところで大騒ぎになったりはしない。
職務に付いてこれずに途中で逃げ出したりする者もいれば、給料を受け取るなり何の挨拶もなく辞めてしまう者もいる。いちいちそんな役立たずの面倒までは見切れないというのが伊集院家の常識だったりする。
「もしかすると、本当に迷子になってしまって、どこかの客室でミイラにでもなっているかも知れませんわね。ほほほ」
ニッコリと微笑みながらとんでもないことを口にする舞香。もちろんこれは冗談なのであるが、実際に迷宮のようなお屋敷を目の当たりにしている由美と拳悟にしたらそれは冗談では済まされなかった。
拳悟は目を丸くしたまま口をあんぐり開けて茫然自失と化し、由美に至ってはショックのあまり意識がどこかへ飛んでいって卒倒しそうになっていた。
「やだわ、お二人とも。ちょっと驚かしてみたかったんですのよ」
お嬢様の世間知らずの言動には本当に困りもの。拳悟と由美は口を尖らせてジョークにも限度があると文句の連発だった。しかし、行方不明のメイドについては冗談ではないらしい……。
* ◇ *
さて、そうこうしているうちに目的の客室まで到着した舞香たち三人。ドアにある部屋番号のプレートには”二0八室”と記されていた。
ドアを開けて室内を覗き込んでみると、そこは客室というよりもホテルのスイートルームのような印象だった。応接用のテーブルとソファはわかるが、なぜかシングルのベッドまで備わっているからだ。
舞香から促されてソファの上に腰を下ろした拳悟と由美の二人。馴染みのない景観と佇まいのせいでどうにも落ち着かなくてそわそわしてしまっている。
「じいですか? 二0八の客室までケーキとコーヒーを持ってきてちょうだい」
室内にある内線電話から供応の指示を下した舞香。来客には最善のおもてなしをするのが伊集院家のしきたりなのである。
専属パティシエが腕によりを掛けて作るケーキが届くまでの間、由美と拳悟の二人はソファの上でのんびりとくつろいでいた。とはいえ、大企業の応接室のような雰囲気に飲まれてしまって笑顔はどこか落ち着かなくてぎこちない。
そのせいなのか彼女たちの会話も鳴りを潜めてしまい、目線までも落ち着きがなくなって挙動不審のごとくキョロキョロと動き回っていた。
気持ちをリラックスさせようと一人立ち上がる拳悟。室内を当てもなく散策し始めると、飾ってある絵画や銅像を眺めながら暇潰しがてらの美術鑑賞としゃれ込んだ。さほど興味があるわけでもないのだが。
「あのさ、おじょう。一つ聞いてもいいか?」
「ええ、何でもどうぞ」
拳悟は何やら不思議なことに気付いたらしく、数ある美術品それぞれに向かって人差し指を突き出す。
「これって全部値打ち物か? どーみても、おまえがモデルじゃない?」
よく見てみると、絵画も銅像もすべて女性がモチーフになっていた。ワンレングスの長い髪の毛と、整った眉と細長の目が特徴的な女の子――。
美術品だけに若干美化されていることは否めないものの、これは拳悟が指摘した通り、ここにいらっしゃる伊集院家のお嬢様がモデルに違いないだろう。
作品にはそれぞれタイトルの札が貼り付けてあり、”潮騒と娘”や”夢見がちの娘”といった感じでどれにも娘というキーワードが入っている。ということは、これを作ったのは舞香の父親か母親なのだろうか?
「もちろん値打ちがありますわ。わたくしのお父様がプロの作家に依頼して創作させたんですの」
「そうかぁ、だからタイトルに娘が入ってるんだね」
両親にとっては目に入れても痛くない手塩にかけて育てた一人娘。破格の費用をかけてまでも美術品として記録を残したいという思いは、まさに大富豪だからこその過剰とも言うべき愛情というやつか。
拳悟だけではなく、ソファに腰掛けたままの由美も何か珍しいものを発見したようだ。気になることはどんどん聞いてみよう、彼女も物珍しい大富豪の豪邸に興味津々である。
「マイカちゃん、お部屋の奥の方にベッドが見えるんだけど?」
「お客様のご機嫌が悪くなった時の非常用のベッドですわ」
舞香に言わせるところ、来客がいつ気分を害するかわからない。動悸息切れめまいといった症状に襲われたりした場合、救急車が来るまで応急処置ができるようにとベッドを各部屋に備えているとのこと。
ベッドはシングルの大きさではあるが、低反発マットレスや高級羽毛を敷き詰めたふかふかな掛け布団が敷いてあり伊集院家らしいお客様への気配りが窺える。
「すごいな、そこまで用意周到だなんて」
「ここまで来るとさ、自宅の客室というよりホテルの客室に近いよな」
拳悟は呆れ気味ながらもベッドの傍へと近寄っていった。彼の目的はだだ一つ、ふかふかな高級ベッドの上に思い切りダイブすることであった。
客人としてはあるまじき行為だが、大人になり切っていない高校生なら多少のやんちゃも許してもらえるだろう。舞香や由美が見つめている中、彼は宣言することもなくベッドに向かってジャンプした――が。
『ウォン!』
「何だぁぁ!?」
ベッドにダイブした直後、掛け布団の下から何やら生物の声が鳴り響いた。
びっくり仰天して布団の上から飛び退けた拳悟。すると掛け布団が丸く膨らんだと思ったら、何とその隙間から毛むくじゃらの犬が顔を覗かせたではないか。
「あらあら、ジュリアンじゃない。ダメでしょ、客室で寝ちゃったら」
舞香から”ジュリアン”と呼ばれたこの犬、伊集院家のペットとして飼育されており性別は名前の通りメス、犬種はアフガンハウンド。
気持ちよく寝ていたところを邪魔されたせいか、ジュリアンは犬の表情ながらもご機嫌斜めの様子だ。さすがは伊集院家で暮らしているだけにプライドだけは犬一倍あるようだ。
「犬が人様のベッドで寝ているなんて世も末だぜ」
「それにしても、ずいぶん贅沢な犬なのね」
それは犬に対する偏見だと反論しつつ、舞香はベッドの上に腰掛けて愛するペットを紹介する。もちろん、毛並みの良さとか血統書付きとかそんな自慢話ばかりではあるが。
このジュリアンだが、過去あらゆるコンテストで優秀な成績を収めているそうだ。知能や頭脳、そして美しさを競うもの以外にも、好き嫌いなく何でもよく食べるコンテストでも優勝しているという。
いくら犬とはいえ、輝かしい栄光を手に入れたジュリアンの魅力を前にしては拳悟も由美も文句は言えない。ただ、何でもよく食べるコンテストだけはただの食いしん坊なのだろうと言いたかったことはあえて伏せておく。
それから数分後、”じい”と呼ばれる召使いの手により芳しいコーヒーと一緒においしそうなケーキが客室まで届けられた。
「いただきま~す」
「どうぞ、召し上がれ」
おもてなしを口にしてから程なく、拳悟と由美の顔に満面の笑顔が零れる。スーパーで売っている商品や喫茶店で提供されているものとはまったく違うデリシャスな味に驚くばかりだ。
学校の級友が心から喜んでくれて、舞香も一緒になって頬を緩めていた。お嬢様として学内の交流が乏しかった彼女にとって、こういった仲間との笑顔の触れ合いは誰よりも嬉しいはず。
おいしいケーキに舌鼓を打つ中、男女三人の語らいの中心はやはり学校ネタだったが、ネタ切れを皮切りに話題がいつしか高級感たっぷりのこのお屋敷へと移った。
「それにしても、高価なものばかり並んでると扱いが大変だよな」
「ご心配なく。わたくしはそこまでお転婆じゃありませんわ。転んで美術品を壊したりなんて一度もしてませんもの」
「いやいや、そういう意味じゃなくて、泥棒とかそういうのに狙われたりするんじゃないの?」
矢釜市は犯罪多発都市ではないものの、伊集院家のお屋敷ともなれば金品目当てのコソ泥に付け狙われておかしくはない。拳悟は他人事ながらもそれを危惧した。
これに言い淀むことなく問題ないと返答する舞香。むしろ、伊集院家だからこそ防犯対策といったセキュリティーが万全であることを誇らしげに強調した。
「防犯カメラも設置してますし、ガードマンや警備員も配備してますのよ。ねぇ、じい。そうでしょう?」
「お嬢様のおっしゃる通りでございます。伊集院家の警備システムの前ではネズミ一匹すら入り込めません」
伊集院家の家人やお宝を守る最新鋭の警備システム。それが完璧であると自信満々に言い放った舞香ではあったが、今まさに、ネズミよりもはるかに大きい侵入者が屋敷内に忍び込もうとしていた。




