第二十話― 芸術の秋、写生授業で再会の秋(2)
担任の一言で急遽開催された二年七組の写生授業。残り時間が三十分を切ったところで、クラス全員にもう一度集合するよう号令が発せられた。
イベント用のステージを背にして生徒たちの前に立つ静加、そして、彼女のすぐ隣にいる怪しげな身なりをした男性。彼女がその理由と詳細について説明を始める。
「それでは、これからここにいらっしゃるカイガさんに皆さんの絵のコーチをしてもらいます」
海我の正体を知る者はさておき、ここで初対面の生徒たちはガヤガヤと小声で騒ぎ始めた。震え気味の声の理由こそ、この公園でテント生活していると勘違いされそうな彼の容姿であろう。
静加から簡単な挨拶を要求された彼は、コホンと咳払い一つしてから自己紹介と絵画の世界観について熱弁を振るった。それはもう美術の教員にでもなったつもりで。
「いいか、写生というのはシンプルだけにそれだけ奥深いものだ。自由に描いてもらってもいいが、熱意や力強さもしっかり意識してくれたまえ」
無名の画家のくせに生意気なことを……。そんな捨て台詞が一部の生徒から漏れてきた途端、海我は眉間にしわを寄せて不機嫌を露にする。
コソ泥は黙っていろ!と、叱責の矛先を向けられたのは語るまでもなく拳悟と勝の二人。生意気で悪ガキな彼らだけに、海我の教示などまるで興味なしといったところだ。
「絵のことはいいけどさ、そのひげ面どうにかならないのかよ?」
「う、うるさい! 今はひげの話をしているんじゃないぞ」
生徒からだらしなさを指摘されてたどたどしい受け答えをする海我だが、これにはさすがの静加も見過ごすことはできなかった。売れない画家イコール生活苦というイメージも想定できるからだ。
「ススムくん、いくらなんでもそれは不恰好過ぎるわ。いったいどうしちゃったの?」
プロの画家ともなれば、サラリーマンと違ってスーツを着てネクタイをぶら下げて歩いているのもおかしい。だから、清潔感があっておしゃれに着飾っている方が珍しいかも知れない。
海我もそういう人物像を演じているのかと思いきや、実際のところ、ただ髪を切るのもひげを剃るのも面倒くさいだけだったのだが。
だらしがなくて不恰好と言われても、今の方がプロっぽくてまんざらでもない様子の彼。こんな人に一度でも惹かれたことが恥ずかしい、静加は伏し目がちになって後悔の念を心の中で囁いていた。
「それでは皆さん、写生を続けてください。ススムくん、よろしくお願いするわね」
「おう、わかってる。君の生徒を一流の芸術家にしてあげるよ」
大船に乗ったつもりで任せてほしいと、海我は薄汚れたワイシャツの上から胸をドンと叩いた。久しぶりに会った友人の前でいいところを見せたい魂胆が見え隠れしていなくもない。
生徒たちが四方八方へ散っていく最中、彼は声を張り上げて拳悟と勝のことを呼び止めた。
「おまえら二人は特別に指導してやる。絵を十枚描いて俺に見せに来い。いいな?」
拳悟と勝は表情を歪めてあからさまに口を尖らせる。ただでさえ一枚でも四苦八苦しているのに十枚なんて到底不可能だからだ。
彼らにきついノルマを課すその背景こそ、スケッチブックへの嫌がらせや生意気な態度に対する報復なのはもうご承知のことだろう。
特別コーチの横暴ぶりに不快感を示す彼らだが、静加の厳しい目線が注がれる中でハチャメチャな行動は控えなければいけない。渋々ながらも無理難題の課題に黙って従うしかなかった。
(ちくしょう! あのひげ野郎、隙を見つけて後ろから蹴りを入れてやる!)
拳悟と勝は喉元まで出掛かった不平不満を押し殺し、ひとまずお絵描きできそうな場所までとぼとぼと歩いていった。
それはさておき、コーチ役を任された海我は鼻歌交じりで公園内を闊歩する。開花しそうな学生を見つけてはアドバイスを送っているが、どうも女子生徒ばかり接している気がしてならない。
案の定、海我がすぐに目を付けたのは二年七組のマドンナである由美だった。彼は不敵な笑みを長髪とひげで隠しつつ、ターゲットであるうら若き乙女の傍へと歩み寄っていく。
「ほうほう、君はなかなか才能があるね。うんうん、いい感じだよ」
「えっ、あ、ありがとうございます!」
思ってもみない絶賛の言葉に、由美は恐縮しながら謙虚の姿勢を示した。美術なんて人並みだと思っていたので褒めてもらえるだけでも光栄なのである。
彼女のスケッチブックを手に取って、海我は一応専門家らしい専門用語をダラダラ並べて感想や指摘などを述べていた。アドバイス次第では、もっと上手になると持ち上げながら。
アドバイスをもらえることに抵抗はない、むしろ美術の才能を開花させたい。由美は海我のコーチを喜んで受け入れようとしたのだが……。
「君には徹底的にコーチをしてあげようかな~」
「え、え、ええっ!? ちょっと、やめてください!」
それはあからさまのスキンシップだった。海我は指導者という立場を悪用して、由美のピンク色の頬にひげ面を摺り寄せてきたのだ。
男性に抵抗感を抱えており、さらに内向的な性格の彼女だけに大声でヘルプを叫ぶことができない。だが、この卑劣な行為を見逃さずにキックという攻撃で救助にやってくる仲間がいた。
『ドカッ!』
「おわっ!」
背中に蹴りを食らった海我は、前のめりになってそのまま地面にダイブした。慌てて振り返ってみると、そこには二年七組の風紀を守るべきクラス委員長の誇らしい姿があった。
「キサマ~、いきなり何するんだよ!」
「汚い手でユミちゃんに触るんじゃねーよ」
勝にとって由美はとても大切なクラスメイト。類稀なる察知能力を生かして、正義の味方のごとくすぐさま彼女のもとへと駆け付けてきたわけだ。
さて救出することに成功したのはいいが、海我も海我でおとなしく反省しているはずがなく、講師に暴力を振るうとはどういう了見だと自分勝手な言い分を撒き散らした。
勝と海我、短気の男性二人が口論を展開する中、被害者である由美はただオロオロするばかりだ。仲裁に入るわけにもいかないだけに複雑な心境であろう。
「人を罵るぐらいなら、ちゃんと絵を十枚描いてきたんだろうな?」
「おう、だからこうして見せに来たんだろうがっ」
勝はお調子者ではあるがやる時はやる男だ。課題であった絵を十枚しっかりと書き上げてここまではせ参じたのである。
評価してやると偉ぶって、鼻息を荒くしながらスケッチブックを奪い取った海我。果たして、勝が仕上げた絵はどのような評価を得られるのか?
「…………」
「どうだ? どれも傑作だろう」
スケッチブックの一枚目に描いてあるのは何とひまわり。さらにページを捲ると、石っころやらベンチ、さらに自分が掛けているミラーグラスといった風景や季節に関係ない絵ばかり。
これには海我も怒り心頭だ。売れないとはいえ一応はプロの画家、出来栄えの稚拙さよりも絵画そのものを舐めている姿勢が何よりも許せなかったようだ。
「そう怒鳴るなって。十ページ目を見てみなよ」
勝曰く、最後の十ページ目には最高傑作が載っているのだという。海我が指を震わせながらページを捲ってみると、そこには……。
最高傑作は人物画だった。しかも、モチーフは長い髪の毛とひげ面が特徴の男性で、なぜか上半身が裸姿、さらに”スケベ画家、ここに参上”というメッセージ付き――。
海我はひっくり返るようにズッコけてしまった。ここまでコケにされては画家としてのプライドもへったくれもあったものではない。
「はっはっは、俺もなかなか才能があるだろう」
勝は自慢の力作をお披露目できて高笑いしている。彼自身、絵画の評価などどうでもよく売れない画家をバカにしたいだけだったようだ。
「ふざけるな、この野郎!」
本当のこと(?)を見抜かれた悔しさからか、海我は口から火を噴き出さんばかりに怒り狂う。
嘲笑しながら走って逃げていく勝、そして彼を血眼になって追い掛けていく海我。由美や他のクラスメイトが見つめる公園内で、枯葉が舞い上がるほどの追いかけっこが始まった。
「ススムくん、落ち着いてよ!」
勝と海我の間に割って入ってきたのは、彼ら二人の性格をよく知るただ一人の人物である静加だ。
悪ふざけが過ぎる教え子を叱り、また同窓生の怒りを静めようとする彼女。教員という職業ともなるといろいろな意味で苦労が絶えない。
「いくら君の生徒とはいえ、アイツだけは絶対に許せないよ!」
「相手はまだ子供なんだから、ここは大人として冷静になってよ、ね?」
高校生にもなれば物事の善し悪しの区別ぐらいは付くはず。海我の怒気はなかなか収まらなかった。さらに勝からジョークも通じないのか?と零されたものだから尚更だろう。
それでも講師を任された以上、理解を求めて説得してくる静加の顔を立てなければいけない。不本意ではあるものの、彼は冷静さを取り戻してようやく気持ちを落ち着かせた。
「君は立派だな。あんな悪ガキを相手にしているんだから」
「根気だけは一人前だから。慣れたらたいしたことないわ」
おもしろがって苦笑していた静加だが、根気だけではこのハチャメチャな二年七組を束ねるなんて到底できないはず。それなりな労力と苦労もあったに違いない。
いずれにせよ、ふざけているとはいえ勝は課題であった十枚の絵をどうにか完成させたわけだ。ただ、その課題を達成しなければいけない生徒がもう一人いる。
その生徒がどこにいるか海我が問うてみると、勝の口から予想通りというか想定内の答えが返ってきた。
「ああ、ケンゴだったら向こうのベンチで昼寝してるぜ」
勝が指し示した先、公園の片隅のベンチに横たわっていびきをかいている拳悟。時折、肌寒い風が吹いてもピクリとも動いたりはしない。
彼は写生授業など気にも留めずに楽しい夢の中にいた。もちろん夢の中まで覗くことはできないが、きっとかわいらしい女の子に囲まれている不純な夢でも見ていたのであろう。
そこへふらりとやってきた海我。課題に取り組まないばかりか、サボるという怠惰な行動に苛立ちを隠せない様子だ。
ここで優しく起こしてあげるなんて親切なマネはしない。海我は寝ている拳悟を足蹴にして無理やりベンチから払い落とした。
「いってぇ、な、何すんだよ、ひげ!」
「授業を舐めるな。課題の十枚はどうした?」
蹴飛ばすなんてそれこそ職権乱用だと、拳悟は地べたに座り込んで不平不満を吐きまくった。いくら静加の友人とはいえ、でかい顔をして偉ぶっている海我のことが気に食わないようだ。
好かれようが嫌われようが関係ない。海我も講師として、またプロの画家として拳悟のことを叱り付ける。居眠りしているぐらいなら少しでも筆を動かせと。
「十枚は無理だけどさ、一枚なら描き終えたぜ?」
拳悟が描いた作品とはいったい?海我はスケッチブックを受け取ってそれを鑑賞してみた。
「おまえ、これアニメのキャラクターじゃないかっ」
白いキャンパスの上には、テレビなんかでよく見るアニメの登場人物が描かれていた。しかも、アニメに詳しくない海我でもわかってしまうほど忠実に。
「何だったら、他にも得意なキャラがいるんだけど描いてやろうか?」
「こーいうのはダーメ。ちゃんと風景の絵を描け」
勝だけではなく拳悟にも芸術をバカにされてしまい、海我は怒る気力も失って呆れた溜め息を漏らすしかなかった。そして、講師なんて役目は二度と引き受けないと心に誓った。
* ◇ *
秋が深まる市営公園をぐるりと一回り、二年七組の生徒たちの力作を一通り見て回った海我は静加が待機しているステージのところまで戻ってきた。
偶然の出会いから始まりいきなりの臨時講師、ひねくれな生徒もいたが全体的には優秀な生徒ばかりで、若者らしい発想のおもしろさを感じて彼なりにもいい刺激になったようだ。
彼女も生徒と一緒になって筆を走らせることができて満足げだ。しかも、プロの画家から腕が鈍っていないと褒められて表情も心なしか緩んでいた。
「それにしても驚いたな。君がまさか美術の教師の道を選んだとは」
「フフフ、残念でした。わたしは英語の教師なのよ」
「そうだったのか。そういえば、君は英語も得意だったもんな」
ここで美術を学んだ者同士がベンチに座って語り合う。大学を卒業して以来の再会のせいか、話題の中心は芸術の心得や魅力などを交えた懐かしい思い出話だった。
「ススムくん、憶えてるかな? 二年生の時の課題でルネッサンス芸術の模写をするのがあったでしょ?」
「ああ、もちろん憶えているさ。あれがきっかけで俺と君が仲良くなったんだよな」
その時の懐かしいエピソードをご紹介しよう。
それはこの二人が大学二年生の頃、季節としては今と同じぐらいの晩秋であろうか。ルネッサンス期の美術作品を模写するという提出課題があった。
再生や復活という意味を持ち、美術に文化、芸能に科学とありとあらゆるジャンルで巻き起こった十四世紀の代表的な運動活動。それらの作品を思い思いのままにスケッチするというものだ。
静加がモデルに選んだのは、レオナルド・ダ・ヴィンチの代表作とも言うべき”モナ・リザ”。今の時代もなお、芸術家を魅了する美しい女性の象徴だ。
テーマは気品を兼ね備えた力強さ――。彼女は女性らしく、繊細でかつしなやかな筆使いで模写した。才能もあったのだろう、一部の講師や同級生からも高評価を得る素晴らしい仕上がりとなった。
その一方で、海我進は何をモデルにしてどんなテーマにしているのかというと……?
この頃はまだ短髪でひげも生えていない彼、凛々しい目元でスケッチに没頭する姿は当然ながら同級生の女子からも人気があった。
「あら、ススムくんは何を描いているの?」
静加から声を掛けられて、海我はちょっぴり照れくさそうな顔をした。美術に熱中していた勤勉学生だけに、異性との会話があまり得意ではなかった背景もなくはない。
――ここだけの話だが、彼女にそれとなく恋心を抱いていた彼だからそれも尚更なのである。
「俺かい? えっとね……。ダ、ダヴィデだけど」
海我が選んだのは、ミケランジェロの代表的な彫刻作品”ダヴィデの像”。彫刻を模写のモチーフにするところがいかにも挑戦的であり本格的だと感じさせる。
ダヴィデの像と知って興味津々なのか目を輝かせる静加。根っからの芸術家志向らしく、自分にはない感性に触れてみたいという思いもあるのだろう。
見せて見せて!としつこくせがまれてしまい、彼はたじろぎながら困惑してしまった。好意を寄せる女子からお願いされると嫌であっても断り切れないのが若い男子の悲しい性か。
「笑わないという条件付きなら構わないけど……」
芸術が理解できる静加にだったら見せてもいいだろう、海我は仕上がりに自信がないまま恥を忍んで自らの作品を公開した。
テーマは彫刻からの脱却――。彼が描いたダヴィデ像は躍動感がみなぎっており、今にも歴史の世界から飛び出してきそうな勢いだった。ちなみに、股間の辺りも力がみなぎっているのはお約束である。
静加はボーっとしながら絵に変貌したダヴィデを見つめている。言っておくが、彼女の目線が股間に集中しているというわけではないのでご安心を。
「わぁ~……。ミケランジェロ本人よりも忠実に再現してるんじゃない? いろんなところが」
そんな感じで、大学二年生の頃を振り返ってみた静加と海我の二人。お互いに顔を見せ合ってから数秒後、恥ずかしさをごまかすように高らかな笑い声を公園内に響かせていた。
その後も、ここ最近の近況や学生時代の友人のことなど他愛もない昔話で語らった二人。ふと気付いた時には授業終了十分前を切っていた。
「あらいけない、もうこんな時間だわ」
写生授業終了の号令を発布した静加。その声が近くの生徒に伝わり、それがやがて二年七組の全員の耳へと届いていく。
もう少し続けたくてガッカリする者もいれば、ようやく終わってホッと胸を撫で下ろす者もいる。いずれにせよ、生徒たちにとっては面倒でも新鮮味のある時間であったことは間違いないだろう。
ステージに集まった生徒一人ひとりから風景画が提出された。静加と海我はそれをまじまじと眺めては一喜一憂していた。
「皆さん、ご苦労さまでした。ではカイガ先生から総評をいただきましょうか」
海我は自己紹介の時と同じように、コホンと咳払い一つしてから全体的な寸評を始める。こういうところだけはやけにプロっぽい。
「みんな、個性的ではあるが素晴らしい絵になっている。もし、本格的に芸術の分野を目指してみたいと思うならプロの俺がいつでも相談に乗ってやろう」
ここぞとばかりに、もっともらしい評論を並べて偉そうに構えている海我ではあるが、それを一部の生徒たちが煙たく感じてしまったようだ。
画家だったらもう少しまともなことが言えるだろう、誰でも言えるような総評じゃないかと、そういった陰口がとある方向から聞こえてくる。
それに敏感に反応しない海我ではない。声がしている方角を睨み付けてみると、案の定というか当然かも知れないが、そこにいるのはこのクラスの悪ガキ代表の勝と拳悟の二人だった。
「しかし、おまえたちは本当にかわいらしくないなっ」
「へっへっへ、どうせ俺たちはブスですよーだ!」
勝と拳悟が茶化し始めると、他の生徒たちまで便乗してやかましくなってしまう。これが二年七組の典型的な悪いところであり、担任教師の悩みの種なのであった。
「コラコラ、静かにしなさい。いい加減にしないと今日の授業の単位、全員欠席扱いにするわよ?」
静加が公言した恐るべき叱責に凍り付く生徒たち。真っ先に黙り込んだのは、留年を繰り返してはいけないハチャメチャトリオの面々だ。
子供なんて所詮はこんなものだろうと、この時ばかりは海我も口角を上げてほくそ笑んでいた。ここまでやられっ放しだっただけに幾分か気持ちが晴れて嬉しそうだった。
「はい、それでは学校へ帰りましょう。寄り道しないようにね」
いそいそと市営公園を後にする教え子を見送りながら、静加は臨時講師を努めてくれた同窓生に改めて感謝の言葉を伝える。
礼には及ばないと、海我は長髪の頭をポリポリと掻いて照れ笑いを浮かべた。彼自身も教える側の講師を初めて経験してどこか誇らしげだ。
久しぶりの出会いの後には、しばしの別れの時もやってくる。名残惜しくもさようならの挨拶を交わす彼女たち二人。このまま離れてしまったら、いつまた再会できるかわからない。
「サイジョウジくん、ちょっと待ってくれ」
海我が呼び止めると、静加もピタッと足を止めて顔を振り向かせる。男女二人の間に、落ち葉を舞い上げる秋風が走り抜けた――。
「来月なんだけど、ある画家の個展で俺の作品を一部のブースで紹介してもらえることになったんだ」
個展で自作を取り上げてもらえるなんてとても貴重なこと。静加もそれを理解しているのだろう両手を叩いて祝福の拍手を送った。
無名の画家にとって個展を開くのは夢の中の夢の話であって、余程の実力や主催してくれるスポンサーがいなければまず成し遂げられない。海我は運良く、協賛企業から声を掛けてもらったそうだ。
「もし良かったら、鑑賞に来てくれると嬉しい」
「ええ、ぜひとも行かせてもらうわ」
途切れかけていたロマンスの糸がどうにか繋がった。お互いの電話番号を交換し合って再会の約束を取り交わすことができた二人。
海我はこの機会に乗じてもう一歩踏み込んでみようと考えた。大学生時代には引っ込み思案が災いして勇気を振り絞るチャンスがなかったから。
「あのさ、今度一緒に食事でもしながらゆっくり話でもしよう。おいしいコース料理の店を知ってるからさ」
おしゃれな料理を囲んでの二人きりのデート、芸術や絵画をテーマにした楽しい語らいを満喫しよう。海我が意を決して誘ってみると、静加の反応もまんざらでもなさそう。
まさか、偶然の出会いから始まる恋の予感の到来か――?前向きに検討するけど、その代わりに……と返事をして彼女は麗しくクスリと微笑した。
「その長い髪とひげをきれ~いにしてから行きましょうね」
「はははっ、やっぱりね~!」
痛いところを突かれて笑うしかない海我。さすがにこの身なりのままではデートどころではないと彼自身も認めざるを得ない。
非常にみっともない思いをしてしまった彼だが、さらに不運なことに、この一部始終を遠巻きながらも観察していた悪ガキからここぞとばかりにツッコミを入れられてしまう。
「あははっ、どうやらフラれたみたいだな、ひげ」
「まぁ、そのスケベ面ならしょーがねーよなぁ」
やーい、やーいと、小学生っぽく悪口をかますのは拳悟と勝の二人。お気に入りの静加先生に言い寄ってくる海我のことがどうしても気に入らないようだ。
言われ放題なんて冗談じゃない。海我も怒鳴り口調で言い返すしかないわけだが、彼もこういうところは学生に引けを取らないほど子供っぽい。
見た目は成長していても、考え方だけは小学生並みのこの男性三人。本日幾度となく口論バトルを見てきた静加は、もうすっかり呆れて上空に浮かんでいる白い雲を眺めるしかなかった。
「やい、このアホ学生! 俺を本気で怒らせる気かっ」
「おうおう、本気出してみろよっ」
「アホがどっちなのか教えてやろうじゃないの」
誰かが止めない限り、子供の口喧嘩はいつまでも続きそう。とはいえ、静加にそれを止める理由もなければ義務もない。彼女は冷め切った表情を見せつつそこから歩き去っていく。
「はいはい、好きなだけやってちょうだい。わたしは次の授業の準備があるから帰るわね~」
静加から見放されてしまうと、言い争っていること自体の意味もなくなる。拳悟と勝、そして海我の三人は空しさに気付いて瞬時にバトルを終了した。
落第生として担任の機嫌を損ねたら一大事。悪ガキたちは大慌てで静加先生の後ろ姿を追い掛けていく。彼女に頭が上がらない者の一人として、海我も同情という名の苦笑いを浮かべた。
(――あ)
ふと、海我は大事な忘れ物があることを思い出した。
それは、本日のトラブルの火種となったスケッチブックのことである。拳悟と勝に計画的に奪われてしまって以来、まだ彼の手元に戻ってきてはいなかったのだ。
「おい、おまえら! 俺のスケッチブックはどこにやった?」
拳悟と勝は小走りをいったんストップして振り返る。彼らの手には自分のスケッチブックはあっても、海我のスケッチブックはどこにも見当たらない。果たしてどこに行ってしまったのだろう?
その答えを示さんばかりに、彼らはタイミングを揃えて特定の方向を指で示した。そこは、この公園のシンボルともいえる展望台のある高台だった。
「あれなら、あんたが絵を描いていたベンチの上に置いてきたよ」
「だいたい、売れない画家の絵なんて持って帰ったって意味ねーし」
本人に直接返したりせず、元の位置にそっと戻しておくのがいかにも悪ガキらしい。しかも、別れ際の最後の最後まで余計なことを口走ってしまう彼らであった。
海我はかんしゃくを起こしたりせずに黙認した。所詮は子供の戯言だし、それにもう会うこともないだろう。今の彼にしたらスケッチブックが無事に戻ってくればそれでいいのだ。
講師とは名ばかりで、実際は聞き分けのない高校生のお守りをしていたような感覚だろうか、彼は疲労感たっぷりの顔つきで高台へと足を向ける。
「よ~し、まだ夕方前だし、気持ちを切り替えてもう二、三枚描くとするかな」
高台へ到着すると、展望台への見物客が数名ほどちらほら見受けられたが、それでも肌寒い秋らしい一日らしく色鮮やかな紅葉ばかりが景色の中に映えていた。
ベンチに目を向けてみると、そこにはしっかりとスケッチブックが閉じたままの状態で置かれていた。それが本人の物であることを示すように、表紙には”海我進”のフルネームも記載されている。
海我はスケッチブックを手に取り表紙をペラッと捲ってみた。すると、描いたはずの絵画がそこにはなく下手くそな筆跡で次のようなメッセージが書いてあった。
”今はまだ売れてないけど、もっともっとうまくなれば、いつかは日本で五十番目ぐらいの人気画家になれるぞ。これからもがんばってくれたまえ。怪人二十八面相より”
そうだ、これを残したのは今日一日散々振り回してくれた拳悟と勝の二人。憎まれ口を叩いてはいても、気持ちの上では海我のことを応援してくれていたというのか。
「ふっ、アイツらめ」
海我は少しばかり胸が熱くなった。いくら相手が悪ガキとはいえ応援されて嬉しくないはずがない。彼は心の中でより一層努力していくことを誓った。
応援メッセージが書いてあるページを捲り、いざ風景画のスケッチを始めようとした彼、ところがここである異変に気付いた。
「あれ、俺が描いた絵が全部切り取られているぞ。まさかアイツら、興味ないとか言ってたくせに盗みやがったな~」
最後まで仕上げた作品ではあるが、どれも完成度の低い失敗作。学生にとってはいい参考資料になるだろうと、海我はプレゼントの意味も込めてそれを容認することにした。
ちなみに、彼が書き残した絵画は確かに拳悟と勝の手の中にあった。それは間違いなかったのだが、さてさてあの悪ガキ二人がそれを大事に抱えてくれているのだろうか?
* ◇ *
「そぉれっ!」
「おおっ、なかなか飛んでるじゃないかっ」
「風に乗ってるね~」
市営公園からの帰り道、数十段はあろう階段の踊り場で拳悟と勝、そして彼らの仲間たちが紙飛行機を飛ばして遊んでいた。
勝の手から飛び立ったプラズマフライヤー一号は、冷たい秋風の軌道に乗ってぐんぐん上昇を続けていく。
拳悟も負けてはいられない。彼自作のイナズマビートル一号も発進した。勝の紙飛行機と同じ画用紙のせいか、横風の抵抗を受けても急降下することなくフライトを続ける。
「ほう、おまえのもいい感じに飛んでるじゃん」
「まぁな。俺はこう見えても、飛行機飛ばしの神と恐れられていたのだ」
「神と紙を勘違いされそうだな」
勝と拳悟がそんなアホらしい会話をしている中も、二つの紙飛行機は上空を優雅に飛行していた。風の方向が公園の高台の方へ強く吹くと、紙飛行機もそれに従うように進行方向を変えた。
安定したフライトを続けてきた紙飛行機にも寿命というものがある。エネルギーとも言うべき風の力を失い自然落下していく悲しい定め……。
一つは高台まで届かずに林の中に消えていってしまったが、もう一つはどうにか高台まで登ることができた。――ここまでくればオチはおわかりであろう。
その頃、海我はベンチに腰掛けてスケッチに集中していた。色彩豊かな景色に心が躍り、走らせる絵筆の動きも滑らかだ。順調の仕上がりにご満悦のご様子である。
制御不能となって惰性で飛んできた一つの紙飛行機、それが彼の視界を遮って足元に落下した。
集中力がいったん途切れたのか、彼はおもむろに手を休めて紙飛行機を拾い上げる。すると、折り目から覗く見慣れた色合い、そして紙の質感と手触りに緊張感が走った。
「おい、これってまさか……」
恐る恐る画用紙を広げてみると、何とそこには自分自身が描いた風景画が、しかもサイン入りで載っているではないか。
本日描いた作品であると気付き、これがどうしてこのような哀れな形となって飛んできたのかすぐに結論に至った海我。もちろん、実行犯が誰なのかも明白であった。
(あのガキどもっ、ついにこの俺を本気を怒らせやがったな!)
震える両手が画用紙を木っ端微塵に破り捨てた。眠りに付いたはずの鬼が再び降臨し、海我は頭から角を突き立てて憤怒の表情で立ち上がった。
さて海我が般若のごとく激高しているとは露知らず、その怒りの矛先を向けられている拳悟と勝の二人は性懲りもなくまだ紙飛行機合戦に勤しんでいた。
最初こそ黙認していた由美だったが、ここまでお遊びが過ぎるのはいかがなものかと優等生の一人として声を掛けずにはいられなかった。
「ケンゴさんにスグルくん。カイガさんが描いた絵を紙飛行機で飛ばすなんてあまりにも不謹慎ですよっ」
いつもだったら由美から注意されたらおとなしく自粛する二人なのだろうが、今回ばかりは悪ふざけを止めようとはしない。そこまで売れない画家のことをバカにしたいのだろうか。
気にしない、気にしないと反省の姿勢すらなくケラケラと笑っている彼ら。海我のスケッチブックに寄せた応援メッセージは心のこもっていないただのいたずらだったようだ。
「画家だかバカだか知らねーけど、偉そうな口利きやがって」
「まったくだ。シズカちゃんに馴れ馴れしくしやがってよ~」
出るわ出るわ、悪ガキコンビの口から溢れてくる愚痴やら悪態の数々。これには由美だけではなく、傍にいた麻未も苦笑を通り越して冷や汗をかいてしまうほどだ。
「あんたらね~、いくら何でも調子に乗り過ぎだって」
由美の言うことすら聞かないのに麻未の忠告なんて聞きっこない。拳悟と勝の暴走はいつまでも続いていたが、担任の静加にだけは逆らえない彼らであった。
「こらっ、あんたたち、いつまで遊んでいるの? わたしの悪口でも言っていたんでしょう?」
「違う違うシズカちゃん! 俺たちはただ、紙飛行機の限界と可能性を追求しようとしていたのだ」
それらしい文言を並べてお遊びを正当化しようとした拳悟。そもそも、紙飛行機の限界と可能性なんて知って誰の役に立つというのか。
とはいえ、静加の厳しい監視下ではごまかしもそう長くは続かない。彼はこれが最後とばかりにイナズマビートル三号を発射させようとした。
丹精込めて折り畳まれて、画用紙として飛行距離の限界と可能性を託されたその紙飛行機。拳悟の渾身の力を持ってして、今まさに青空の下に羽ばたいた瞬間――!
「うぎゃぁっ!?」
拳悟は恐怖と驚愕で悲鳴のような声を上げた。
飛び立ったばかりの紙飛行機は、階段の上で仁王立ちしている般若の口の中に吸い込まれていた。そうだ、完全にブチ切れ状態の海我進の襲来である。
くわえていた紙飛行機を噛み潰した彼。憤怒のあまりこめかみに血管が浮き出ており、すでに理性すら失っているかのようだ。
「ええ度胸してるな、おい。堪忍袋の緒が切れたわ……」
海我の全身に怨念でできた炎が揺らいでいる。二年七組の生徒たちは恐ろしくなってしまい一歩、また一歩と後ずさりしていた。
相手は子供だから冷静になってと、静加は大人の一人として説得を試みたがそれも時すでに遅し。彼は怒りを静めるどころか平常心すら取り戻すことはなかった。
「スグル、俺たち、ちょっとやり過ぎちゃったかな……?」
「ケンゴ、あれはマジで怒ってるぜ。逃げた方がいいな……」
根性が据わっている拳悟と勝でも、理性を失って般若と化した相手には到底かなうはずもない。捕まったらどんな目に遭うかわらかないと彼らの気持ちは逃走の方角へと向いていた。
――まさに爆発寸前、鬼気迫る一触即発の緊張感。長髪で隠されていた海我の目が開眼した直後、拳悟と勝の二人は猛ダッシュで階段を駆け下りていく。
「待ちやがれっ、このクソガキどもが~!」
「わ~、ごめんなさ~い! あなた様の絵を我が校のシンボルにするよう生徒会へ推薦しますから~」
拳悟と勝は無事に逃げ切れるのか?それとも、海我に捕まって餌食になってしまうのか?それは他のクラスメイトにも、もちろん読者にも知るところではない。
男性三人のドタバタ劇を気が気でない顔で見守る由美、微笑しながら手を振って見送っている麻未、そして呆れ顔で上空を仰いでいる静加。女性三人の思いはさまざまだ。
「あの二人、大丈夫かな?」
「捕まっても死にはしないと思うよ。それにしても、あれじゃあイケメンも台無しだよね~」
「……アサミさん、あなた、イケメン押し過ぎだって」




