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第二十話― 芸術の秋、写生授業で再会の秋(1)

 十一月中旬。紅葉もどんどん進行して、落ち葉のじゅうたんが目立つようになってきたそんな秋の日。

 ここは矢釜市のなだらかな丘陵地にある市営公園。本日の午後、派茶目茶高校の二年七組の生徒は写生授業のためにここを訪れていた。

 秋といったら食欲の秋、読書の秋、スポーツの秋などいろいろあるが、公園で連想するとしたら芸術の秋であろう。写生授業はその一環なのだが、高校生にもなってやる授業か?と疑問を感じなくもない。

「はーい、これからみんなには風景画の写生をしてもらいます」

 担任教師の静加の透き通った声が乾燥した空気の中にこだまする。本来なら今は英語の授業なのだが、芸術の秋を満喫しようと考えた彼女の発案により変更となった。

 肌寒さと面倒くささのダブルパンチで、二年七組の一部の生徒たちは文句たらたらである。とはいえ、鬼よりも怖い担任教師には逆らえず不満ながらも言う通りに従うしかなかった。

「風景で写生って言われてもなぁ。あっちのシャセイならかけるんだけど」

「おいおい、いくらなんでも風景見てかけるわけねーだろ?」

 この期に及んで下衆なジョークを飛ばしているのは、二年七組の悪童コンビの拳悟と勝の二人だ。

 さすがにこのネタにはクラスメイトの面々も苦笑いで見て見ぬ振り。彼らの親友である拓郎ですらも困惑顔を浮かべて他人のフリをしている。

 静加は冗談が通じる人柄ではあるが、こういう下品なネタはお気に召さないようだ。ショルダーバッグにしまっておいた聖なる鉄槌がお披露目されてしまうのか――?

(あっ、そういえば、アレ痛んでたから修理に出してたんだっけ……)

 どうやら聖なる鉄槌はただいまご不在らしい。それにしても、トンカチが痛んで修理とは静加の教え子がいかに悪ふざけが過ぎるのかがよくわかる。

「うだうだ言ってないで、早く適当な場所に散って書いてらっしゃい。ほれほれ」

 手をバタバタと動かして写生を始めるよう促した静加。それに従って、生徒たちはパタパタと足音を鳴らしながら公園内に散っていく。

 巻積雲が上空に広がり、すっかり秋色に染まった市営公園内。二年七組の生徒たちは果たしてどんな風景画を描くことになるのやら……。


* ◇ *

 それでは、写生授業を開始した生徒たちの様子を覗いてみよう。

 背もたれのない木製の椅子に腰掛けて、モチーフである紅葉の林に目を向けているのは、絵というジャンルに不慣れな麻未と由美の女子コンビだ。

 麻未にしたら絵画なんてまったく興味なし、成績優秀の由美でも美術は得意分野ではない。お互いがお互いのスケッチブックを覗き込みながら進行具合をチェックしていた。

「言っちゃ悪いけど、ユミちゃんでも絵だけは人並みだね」

「うん、こればかりは人に見せられないよ。困っちゃったなぁ」

 幼稚園児のお絵かきレベルまではいかないものの、女子二人とも稚拙な紅葉絵画を凝視しながら不安げな声を漏らしていた。

 さて、それでは視点を別の方向へ切り替えてみよう。

 花壇の縁に腰を下ろしているのは、ちょっぴり存在感の薄い男子生徒二人、モヒカン頭の勘造と坊ちゃん風のかつらを被った志奈竹だ。

 花壇に植えられた小さいお花をスケッチしていた彼ら、モチーフとしては比較的楽だと思うが一向にペンの動きが鈍い。それはどうしてか?

「風が吹くたびに花が動いて困るんだけど」

「自然現象だもんね。こればかりはどうしようもないよ」

 お花が風で揺れるたびに焦点がずれてしまうようだ。それから数分間、彼らは手を動かさないままかわいらしく咲くお花の観賞を余儀なくされた。

 さてさて、もう一箇所だけ視点を切り替えてみることにする。このクラスの問題児と言っても過言ではないあの連中のところへ――。

「よう、スグル、どこで描くよ?」

「う~ん、そうだなぁ。適当なところを探すしかねーな」

 拳悟と勝は困った表情を浮かべて公園内をうろついている。スケッチブックなんてほとんど持ち歩かない彼らにとって、写生なんて言葉すら理解できないレベルだ。

 適当に描いて提出してしまおうと思っても、静加の機嫌を損ねてしまうわけにはいかない。彼らに焦りという名のプレッシャーが圧し掛かっていた。

 ぶらぶら歩いている途中、ベンチに腰掛けて黙々とスケッチブックとにらめっこしている仲間を発見した。よく見てみると、鉛筆を巧みに使って風景画を描いている拓郎であった。

「おっ、タクロウじゃんか」

「おおっ、おまえ、絵うまいなー」

「まぁな。これでも俺は美術だけは成績が良かったんだぜ」

 秀でた才能を誇らしげに自慢する拓郎。それを羨ましがったり悔しがったりする拳悟と勝だが、成績全体で言えばこのハチャメチャトリオの三人はどんぐりの背比べだったりする。

 拓郎の絵を褒めていても何も始まらないということで、拳悟と勝もベンチにドカッと腰を落としてスケッチブックを広げる。何でもいいから描いてみようと思ったようだ。

 カリカリカリカリ……。鉛筆の芯が折れてしまうほどの筆圧でスケッチを続ける彼ら二人。隣にいる拓郎が唖然とする中、ほんの数分で出来上がった絵画の出来栄えはいかに?

「ふーん、おまえにしちゃ上出来だな」

「いやいや、おまえもなかなかなもんだぜ」

 拳悟と勝はそれぞれの作品に一定の評価を示したが、拓郎一人だけは最低評価の烙印を押した。それもそのはずで、描かれていたのが女性の胸部とでん部だったからだ。

「おまえらさ、シズカちゃんに殺されるぞ?」

 テーマが風景画なのに、まさか女性像で提出なんて出来っこない。わかっていても、ついついお遊び気分で悪ふざけをしてしまう拳悟と勝なのであった。

 拓郎から脅されてしまい、ますます焦りの色が濃くなる彼ら二人。重たい溜め息を一つ零してから、スケッチポイント探しのために公園の高台の方へ足を向けることにした。


* ◇ *

「う~ん、久しぶりのせいか、どうもしっくりこないわね」

 イベント用のステージのベンチに腰掛けて、一人唸り声を上げているのは二年七組の保護者である静加だ。

 本日の写生授業を発案した責務もあるのだろう、生徒にだけ描かせるわけにはいかないとばかりに、彼女も自作の風景画を一生懸命スケッチブックに描いている最中だった。

 顎に人差し指を宛がって、さまざまな着眼点で自作を評価している彼女。口から漏れてくる専門用語の数々が、あたかも絵画の評論家と思わせる項目ばかりだ。

 そこへふらりとやってきたのは、途中で挫折して新しい題材を探していた麻未と由美の二人。静加の真剣な顔を見るなり興味津々とばかりにベンチの方まで歩み寄っていく。

「あれ、シズカ先生も描いてるんだね」

「あら、アサミさんとユミちゃん。どう捗ってる?」

 まさかまさか!と声を張り上げて、首をぶんぶん振ってしまう麻未。由美もとてもお見せできる代物ではないのか、照れ笑いしながらスケッチブックを背後に隠してしまった。

 ここで麻未が静加のスケッチブックをチラ見してみると、びっくりしたことに、そこに描かれている絵はプロ顔負けといっても不思議ではないほどの秀逸なものだった。

「えー! 先生、めっちゃうまいじゃないですかっ」

「あらそう? 上手に見えるかしら」

 まるで画家が描いたような風景画に魅了されている麻未。静加は教師という立場柄、褒められることに慣れていないせいか照れくさそうに微笑んだ。

 由美も驚愕のあまり息を飲み込んでいる。これはお世辞レベルではないと、絶賛の声を上げながら静加のスケッチブックに見入っていた。

 賞賛の雨あられに静加はすっかり上機嫌だ。彼女は走らせていたペンをしばし休めて、上手に描くことができる種明かしをしてくれた。

「実をいうとね、わたしは大学で美術を専攻していたのよ」

 本来であれば、静加は英語の教師なのだが美術の教員免許も持っているのだ。ただ派茶目茶高校では美術のカリキュラムが組まれていないため、止む無く英語専門の教員として教壇に立っているのである。

 彼女曰く、英語よりは美術の方が得意らしい。今日の写生授業を実行したのは、久しぶりに絵に没頭して芸術の秋を楽しみたかったからなのかも知れない。

 ひょんなところで明かされた知られざる過去。麻未と由美の二人は担任の口から飛び出す昔話に耳を傾けていた。課題である写生のことなんてすっかり忘れて……。

「同じく美術を専攻した男性で、とっても絵がうまい人がいたの。わたしね、彼にちょっとだけ惹かれていたのよね」

 大学生時代、静加は一人の男性に憧れを抱いていた。その男性は実直な性格で、凛々しさと誠実さを持った好青年だったという。

 学生の頃から画家の道に進むべく日々精進しており、いくつものコンクールに作品を投稿しては腕を磨いていたそうだ。しかし、卒業してからは一度も会っていないとのこと。

「ねぇねぇ、シズカ先生。似顔絵をそこに描いてみて」

「絵で描くの? わたし、人物画とかは苦手なんだけど……」

 生徒から頼まれると面倒くさいと思ってもついつい応じてしまう静加。こういうところからも、生徒から愛される人望の厚い彼女らしさが垣間見える。

 苦手とは言っていても、いざ鉛筆を握り締めると別人のような顔つきで絵を描いていく。時間にして数分だろうか、彼女は記憶を辿りながら男性の似顔絵をスケッチブックの上で表現した。

「こんな感じかしらね」

「おっ、ホントにイケメンだね」

 似顔絵が本人そっくりかは知らないが、麻未の目にはその人物が静加の語る特徴とピタリと一致したようだ。

 画家になる夢を描いて大学を卒業したその男性だが、今はどこで何をしているか消息が途絶えている。静加も卒業後、友人を経由して連絡を取ろうとしたが音信不通なのだという。

「でもさー、画家になったらそれなりに有名になるでしょ? あたしは見たことないなぁ、こんなイケメン」

 麻未は顎に指を押し当てて唸り声を上げていた。由美も似顔絵だけではさすがにピンと来ないのかコクリコクリと繰り返し首を捻っていた。

「ちなみに、その人の名前は何ていうんですか?」

海我進カイガススムっていうの」

 名前を聞いてもやっぱりピンと来なかった由美。美術に精通しているわけでもなく、いくつもの絵画展を鑑賞しているわけでもない彼女ならそれも致し方のないことだ。

 脱線はおしまいとばかりに、手を叩いて昔話の幕引きをした静加。ところが、一度脱線するとなかなかレールに戻らないのが女子学生というもの。あれやこれやとおしゃべりに夢中であった。

「先生が憧れた人ってどんな人なのかな。やっぱり興味あるね」

「だよねっ! 見てみたいよね、そのイケメン、イケメン!」

「……アサミさん、あなた、イケメン押し過ぎよ」


* ◇ *

 一方その頃、まだ落書きしか描いていない拳悟と勝の二人は市営公園の高台付近まで足を運んでいた。

 この高台には見晴らし台が設置されており、ビルに囲まれたオフィス街や閑静な住宅街、そして矢釜川の蛇行ラインが望めるところからも市民や観光客に人気があるスポットなのだ。

 描きたい風景などあるわけがない、そもそも美術になんか関心がない彼ら二人にとって、この写生に割かれる時間は苦痛以外何物でもないだろう。

 それでもサボるわけにはいかない彼ら。愚痴や小言をぼやきながらぶらついていると、見晴らし台付近のベンチに座っている一人の男性に目が留まった。

「おい、アイツ絵を描いてるみたいだな」

「どう見ても、うちのクラスの連中じゃねーな」

 その男性の印象を述べるならば、だらしなく伸ばした髪の毛とひげ、くたびれたワイシャツと薄汚れたチノパンを身に付けていて見た目からしても清潔感がまるでなし。

 長髪で目が隠れているせいか、頭を動かしていてもどこに焦点を合わせているかよくわからない。しかし、矢釜市の遠景をスケッチしていることは容易に察しは付いた。

 拳悟と勝は耳打ちをして、とりあえず絵を描いているであろうその男性の傍まで近寄ってみることにした。

 筆を手にして絵画に熱中しているひげ面の男性。チラッとスケッチブックを覗いてみると、びっくり仰天、プロ顔負けの風景画を描いているではないか。

(おいおい、コイツ、メチャクチャ絵がうまいじゃんか!)

(ああ、俺たちよりは十倍以上はうまいぜ!)

 他人に漏れないひそひそ声で語り合っている拳悟と勝の二人。これは値千金のチャンスでは?と、彼らは何やら卑しい作戦を思いついた。

 そんなことなど露知らず、ひげ面の男性は気難しい表情のまま風景画製作に集中していた。出来栄えに納得ができないのか、自分自身の作品にダメ出しをしながら。

 もう一回やり直しだ――!スケッチブックのページを乱暴に捲って苛立ちを露にした矢先、いざ作戦を決行した高校生二名に挟み込まれる形で両隣を占拠されてしまった。

「な、何だ、君たちは!?」

 いきなり隣に座られたら誰でも驚くだろう、ひげ面の男性は左右に首を振って素っ頓狂な声を上げてしまった。

「はっはっは、これはいきなり失礼しました。実はぼくたち、写生を極めようとしている少年AとBです」

「あなたの絵が上手なので、絵を極めるぼくらとしては、ぜひともアドバイスを頂戴できればと思ったわけです」

 さすがに怖いもの知らずの彼らは、初対面の男性が相手であっても遠慮なくジョークをぶちかましてしまう。明らかに成人であるひげ面の男性の方がむしろあたふたとしている始末だ。

 これ見よがしに出てくる、ひげ面の男性を持ち上げる賛辞の声。そこまで持てはやされると彼も嬉しいのだろう謙遜しながらも表情がニンマリと緩んでいた。

「おおっ、俺の絵はやっぱりうまいか? いやぁ、これでもプロなんだが、売れない画家のレッテルが剥がれなくてね」

 ひげ面の男性だが一応プロの画家らしい。とはいえ彼自身が告白するように、売れなければ画家なんて未収入の苦労人と同じなのである。

「おやまぁ、ご自分を売れない画家というなんて。ちなみに、あなたのお名前は?」

「俺か? 俺の名前は海我進だけど」

 ここで聞いた覚えのある名称が明かされた。しかし拳悟と勝はそれを知る由もないので、知らぬ存ぜぬのままお話を進めることにしたい。

 拳悟と勝はお色気アイドルこそ詳しいが、画家の名前なんて当然わかるはずもない。だが作戦を成功させるためには、例えそれが嘘であっても調子を合わせるしかないのである。

「えっ、あなたがあのカイガススム!? いやぁ、こんなところで有名画家に出会えるなんて光栄だな~」

 それはもうオーバーに、偶然出会った画家に驚愕と感激のメッセージを送った拳悟。もちろん口から出任せであるが。

 まさか自分がそんなに有名だったなんて――。海我進もびっくりしてしまい、喜びというよりも動揺を隠し切れない様子だ。

 クラスの中ではジャニーズ系アイドルよりも人気がある、女子生徒なんて名前を聞いただけで卒倒していると、拳悟は調子に乗ってありもしない嘘をどんどん並べていく。

「いつか、海我画伯の絵を我がクラスのシンボルにしたいと思ってるんですよ! なぁ、スグル?」

「お、おう、そうだな」

 いきなり同意を求められた勝は思わず声を上擦らせてしまった。そして心の中で呟く。コイツもよくここまで大げさな嘘が付けるなと……。

「いよっ、日本一の画家! いよっ、平成の山下清!」

 悪巧みをまるで知らない海我はすっかりご満悦で、ピノキオばりに鼻を高くして踏ん反り返っていた。ここまでよいしょされたら誰だって大威張りしたくなるだろう。

 彼はベンチから勢いよく立ち上がり雄たけびにも似た笑い声を轟かせる。周囲にいる一般市民が好奇の目で見つめる中でもお構いなしだ。

「そうだ。せっかくのファンとの触れ合いだ。君たちに俺のサインを上げようじゃないか」

 海我がにっこり顔を振り向かせてみると、あらびっくり、ファンを公言していた高校生二人の姿がそこにないではないか。有頂天になっていたせいか、それにまったく気付かなかったようだ。

 公園の高台でたった一人浮かれていた彼。帯びていた熱が急激に冷めてしまい、恥ずかしさと情けなさのあまり身を縮こまらせてしまった。

「何だったんだアイツらは。まぁいい、続きでも描こう」

 海我は伸ばした髪の毛をガリガリと掻きながら、ベンチに置きっ放しのスケッチブックを手に取ってみる。すると、彼はある異変に気付いた。

「あれ、これ俺のスケッチブックじゃないぞ?」

 そこには何と、女性の胸部の絵や落ち葉の絵といった子供の落書きが描かれていた。さらに、ページを一枚捲ってみると――。

「なっ、何だこりゃぁぁ~!」

 スケッチブックには次のような書置きが残されていた。

 ”おマヌケさんへ。売れない画家の汚い絵はいただいた。もらってやるだけありがたく思うがいい。わっはっは。怪人二十八面相より”

 そう、このスケッチブックは拳悟のもの。彼らは写生の提出物を手に入れるために海我をおだてるだけおだてて、タイミングを見計らってスケッチブックごとすり替えたというわけだ。

 海我の表情が鬼のごとく豹変していく。髪の毛とひげで隠されている顔がどんどん赤みを帯びていった。いわゆる怒髪天を衝くというやつだ。

「あのガキども! 許さない、とっ捕まえてぶん殴ってやる!」

 その一方、見事に風景画をゲットして上機嫌の拳悟と勝はというと、軽やかなステップを踏みながらイベント用のステージを目指して階段を下りているところだった。

 注釈を入れておくが、これは窃盗という犯罪行為と思われるだろうが、彼らから言わせると売れない画家の絵をもらってあげて、しかもその絵を広めてあげようという慈善奉仕活動とのこと。

 物は言いようだが、度が過ぎた悪ガキのいたずらだと思ってもらいたい。

「これを提出すれば何とかなるな。助かったぜ」

 これで静加先生からお叱りを受けずに済む。ホッと胸を撫で下ろす拳悟と勝だったが、安心するのも束の間、売れない画家の追尾がすぐそこまで迫ってきていた。

 怒涛なる足音と怒声。大噴火したかのような憤怒の形相。プライドを傷付けられた海我進は、それこそプライドをすべて放棄して脇目も振らずに階段を駆け下りてきた。

「おい、ヤバいぞっ。追い掛けてきやがった!」

 ここまで来て捕まったら元も子もない。拳悟と勝は追跡を振り払おうと必死になって逃走を続ける。

 毎度毎度のことながら、恒例行事とも言うべき騒動が勃発。己の意地と誇りをかけた男たちの逃走劇が今ここに幕を開けた。


* ◇ *

 写生授業の残り時間も丁度半分といったところ。

「やっと終わりそうだよ」

「だな。いよいよラストスパートって感じだぜ」

 順調に作品を仕上げていた志奈竹と勘造の二人。風に邪魔されたりしながらも、もうすぐ花壇に咲くお花の絵が完成しそうだ。

 こう言っては申し訳ないが、キャラ的にも地味で目立たないせいか、スケッチブックに描かれた作品もどこか寂しげで明るさに欠けるから不思議だ。

 少しだけ手直ししたら出来上がりといった矢先、彼らの耳に飛び込んでくる大きな足音。頭を左右に振って確認してみると、拳悟と勝の二人がこちらに近づいてくるではないか。

「あ、あの野郎、しつこいなっ。まだ追ってくるぜ!」

「と、とにかく逃げるしかねーぞ!」

 男子二人を追い掛ける海我も追跡の手を緩めようとはしない。息切れしながらも、怒鳴り声を上げて無我夢中になって走り続けていた。

「ま、まま、待ちやがれっ、このガキども!」

 逃走劇を繰り広げる登場人物三人は、ドカドカと騒音を響かせながら花壇を通過していった。勘造と志奈竹がスケッチしていたお花をすべて踏み倒しながら……。

 あとちょっとで完成するはずだった提出作品。それを一瞬で粉砕されてしまった勘造と志奈竹の二人はただただ呆然と座り込むしかなかった。

「こんなオチってある……?」

「ぼくらって、こういう役どころなんだろうね……」

 さてさて、男性三人組の終わりの見えない捕物帳の末路はいったい?

 それと同時刻、静加を中心とした女性三人組はイベント用のステージのベンチで絵画をテーマに談笑していた。とはいえ、話題はもっぱらイケメンで通っている海我進のことである。

「シズカ先生はさ、もしそのカイガススムって人に再会したらどーするの?」

「えっ、どうするってどういう意味よ?」

 麻未ぐらいの年代なら色恋ネタに敏感なのは当たり前、教師とはいえ大人同士の恋愛の行方が気になるようだ。

 予想だにしない質問に静加はドキッと心臓を震わせる。大学を卒業してから一度も再会していない異性の人、好意は別としてもまったく意識していないわけではなかった。

 実際に再会してみないとわからないと、静加は頬をにわかに赤らめながらそうはぐらかした。その時の彼女の心境はハッキリしないが、憧れを抱いていた当時の男性の面影が頭に浮かんでいたのかも知れない。

 その直後だった。微笑ましくも甘酸っぱい色恋話をぶち壊す大声と足音が周囲を駆け巡った。

「ん? 何だかやかましいわね」

「ホントだ。これってケンちゃんの声じゃないかな」

 静加の視界に見えてきたもの、それは大慌てでこちらに向かってくる教え子二人、そして彼らを追い掛けている一人の男性の姿。その様子はとても尋常ではなく緊急事態を知らせる雰囲気であった。

 いったい何事――!?静加は不安感と緊張感に囚われてしまい、麻未と由美の二人も口をつぐんで動向を見守るしかなかった。

「シズカちゃ~ん、助けてくれ~!」

「あなたたち、いったいどうしたというの!?」

 拳悟と勝からの涙ながらのヘルプコール。担任であり親代わりでもある静加がそれを無視できるはずもなく、理由は問わずに身を挺して彼ら二人を守ろうとした。

 そこへズカズカと押し掛けてくる一人の男性。長髪とひげ面でいかにも怪しそうな風貌を目の当たりにして、静加を含め麻未と由美も警戒心を強めて身構えてしまっている。

「おい、そこのガキども! 俺のスケッチブックを返しやがれ!」

 当然ながら静加はまったく事情が飲み込めなかった。怒り狂っている相手を宥めようと説得するが一度火が点いた導火線を消すことは容易ではない。

 海我も聞く耳持たず、彼女の背後に身を潜めた悪ガキを差し出せの一点張りだ。事態はまったく進展せず、このままでは埒が明かない。

「あんたには関係ない! そいつらが俺のスケッチブックを盗んだんだよ!」

「人聞きの悪いこと言わないで。わたしの教え子はちょっとおバカだけど、人の物を盗むなんて絶対にしないわ!」

 おバカという点に若干ショックを隠し切れない拳悟と勝。だが、信頼してくれる静加を裏切るマネはできない。

 彼らは窃盗などしていないとブンブンと首を横に振っている。先ほども触れたように、あくまでももらってあげたと主張しているわけだ。

「もらってあげただと!? 調子に乗るんじゃない!」

「ケッ、売れない画家のくせに、あんたこそ調子に乗ってんじゃねーよ!」

「コラコラ、あなたたちもお黙りなさい!」

 それからも口論が続き、警察に通報するぞといった発言まで出てきてしまう始末。双方にとってもそれはできれば避けたいという気持ちがあった。

 教員として穏便に事を済ませたい静加。そして、誹謗中傷されたことへの謝罪とスケッチブックの返還を要求する海我。お互いが腹を割って折り合いを付けようとした瞬間――。

「ん!? ちょっと待って。君はサイジョウジくんか?」

「えっ? どうしてわたしの名前を……?」

 唖然とすると同時に、静加は表情を強張らせて警戒心を強める。見ず知らずの男性、しかも衛生的にみすぼらしい相手に素性を知られているとなれば戸惑いを隠せないだろう。

 海我はひげ面を指差して、あたかも知り合いであることを強調したが、やはり見た目が見た目なだけに彼女の顔色がますます不信の色に染まっていく。

 きっと目が隠れているせいだ。彼はだらしなく伸ばした前髪をそっと持ち上げてみた。すると、特徴とも言うべき凛々しく整った二重まぶたの目が彼女の前に明かされた。

「これでどうかな? 俺のことを思い出してくれるよね」

 静加の前に姿を現した人物こそ、彼女の旧友であり大学時代の同窓でもある海我進だった。気障な台詞を口にしながら自慢のフェイスをお披露目してみたものの……。

「ハッキリ言って見たこともない。あなた、誰?」

 静加から容赦なく言い切られてしまい、足元がふらついてズッコけてしまった海我。画家としての知名度は仕方がないにしろ、まさか同級生からも忘れ去られてしまうとは何とも哀れである。

 彼はとうとう痺れを切らして自分自身の名前を名乗った。そうでもしなければ、怒鳴り声を上げて暴れているだけの変質者に間違われてしまい兼ねないからだ。

「カイガススムって……。あのススムくんなの!?」

 半信半疑ではあったが、海我進と自己紹介されては信用するしかないわけで。静加は旧友との偶然の出会いにただびっくりするばかりであった。

 ここでびっくりするのは何も彼女だけではない。大学時代の憧れの相手を聞いていた麻未と由美も、こんなドラマ的な再会を目の当たりにして空いた口が塞がらないといった感じだ。

「へぇ、あの浮浪者みたいな人がシズカ先生が言っていたイケメン、か」

「うん、先生とあの人のお話からしたら、そうみたいだね」

 大学を卒業して以来、旧友と一度として出会うことのなかった静加。何よりも呆気に取られたのは、彼の風貌にかつての整然とした面影はなくまるで別人のように変貌していたことだろう。

「はっはっは、気付かなくても無理はないよな。大学を卒業してからずいぶん経つんだから」

 月日の経過に思いを馳せてノスタルジックに微笑する海我であるが、彼の似顔絵をまじまじと見つめる麻未は周囲に漏れないぐらいの小声でポツリと呟く。

(ん~、気付かなかったのは、あの汚らしい長髪とひげが原因だと思う)

 あのルンペンみたいな売れない画家と静加が顔見知り――!?このスキャンダルの真相を解明しようと、拳悟と勝の二人はすぐさま由美のもとへと詰め寄った。

 大学時代、美術を専攻して絵画を学んでいた同級生、そして、静加がちょっぴり惹かれていた男性だったことを聞かされた彼らは……。

「ひかれただと? あのひげ野郎め、シズカちゃんを車か何かで轢いたんじゃねーだろうな!」

「違いますって。それじゃあ先生が死んでしまいますよ……」

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