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第十四話― 夏休み 場外乱闘なアルバイト【前編】(1)

 夏休み――。それは学生たちにとって年に一度の楽しいバカンス。

 七月も下旬に差し掛かり、入道雲が青空とのコンビネーションを描き、セミの鳴き声が岩に染み入る夏真っ盛りのある日。

「いよいよね、がんばってねアルバイト」

「お姉ちゃん、ありがとう。夜までには帰ってくるから」

 由美と理恵の姉妹二人の話題に上がったアルバイト、その詳細についてはこの日より数日前の夏休み前に遡る。

 二年七組に籍を置く由美は、夏休み前に同じクラスメイトの拳悟と勝から夏休み期間限定ではあるが大衆食堂でアルバイトをしないか?と誘われていた。

 彼らが明示した条件はというと、正午から夕方までの勤務時間で時給は八百円。女性の場合だと、注文取りや料理を運ぶウエイトレスだろうということだった。

 由美はこれまで一度もアルバイトをしたことがなかった。引っ込み思案な性格も理由の一つだが、何よりも両親から勧められたりしなかったことが背景にあったのだ。

 少々回答を躊躇っていた彼女、それでも彼らから社会勉強の一環だから気軽にどうかと誘われて、心のどこかで冒険してみようと意欲が沸いてきたようだ。

「そういうことなら。でも、姉にも相談してみないと……」

 本人はいいとしても親元を離れている手前、保護者とも言うべき姉にも了解をもらわない限り勉強とはいえ身勝手な行動はできないだろう。そんなわけで、その夜帰宅するなり相談してみたところ……。

「あら、いいんじゃない。あなたも高校生なんだし。危険なアルバイトじゃなければわたしは反対しないわよ」

 こんな感じで、姉からも許しを得ることができた由美はこれからアルバイト先の大衆食堂へ向かうため、まず拳悟たちと待ち合わせしている公園へ赴くところなのであった。

「それじゃあ、行ってきます」

「うん、がんばってらっしゃい」

 人生最初のアルバイトともあって、アパートを離れていく由美の表情は心なしか強張っていた。しかし、人生の先輩である理恵から応援されて精一杯がんばってみようと気持ちを奮い立たせていた。

 ――この時、このアルバイトでとんでもないトラブルに巻き込まれることなど彼女は当然知る由もなかったのである。


* ◇ *

 ここは、噴水や遊具が設置されているこじんまりとしたのどかな公園。夏休みともあって、小学生たちの賑やかな声が風に乗ってこだましている。

 時計塔の傍にあるベンチに腰掛けているのは拳悟と勝の二人。アルバイト先である大衆食堂から程近いということで、彼らはここで由美と待ち合わせをしていた。

 ただいま夏の日差しが眩しい正午前。この暑さを紛らわそうと、彼らは缶ジュースのプルトップを引くなりグビグビと飲み込んで渇き切った喉を潤していた。

 彼ら二人にとってもアルバイトは久しぶりのこと。金策に困窮した時の手段の一つと考えているわけだが、飽きっぽい性格もあってか長く続けることができないのが実情だった。

「やっぱり、先立つ物がないと夏休みを楽しめやしねぇもんな。早くバイト代もらってテレビゲームのソフト買い漁らねば」

 ミラーグラス越しに青空を見上げて、ちょっぴり子供じみた夏休みのプランを思い描く勝。そこへツッコミを入れるのが、いわば拳悟のお約束とも言えるパターンだ。

「はぁ? おまえ、十八にもなってまだゲームなんかしてんの? いい加減に卒業しろよ」

「うるせーな。俺がどんな夏休みをエンジョイしようが、おめーには関係ねーだろうが」

 他愛もない話題でもいがみ合ってしまうこの二人。由美とまだ落ち合えないことにじりじりとした暑さが合わさり、彼らのイライラをより一層膨らませていたようだ。

 勝は不機嫌そうな顔で缶ジュースを一気に飲み干した。ただでさえ気の短い性格もあってか、空き缶をゴミ箱に勢いよく投げ捨てるとすぐさま二本目のジュースを購入していた。

 拳悟がそれを目にした途端、いくら暑いからといっても飲み過ぎだろうと呆れ果てた顔で文句を零してしまうのだった。

「だいたい、おまえは甘ったるい生活してるから根性も精神力も身に付かないんだぞ」

 こういう時こそ精神統一。暑い夏にこそ汗を流しながら鍋を食べるぐらいの我慢強さが必要なのだと、拳悟は日頃から鍛えている己の忍耐力を余すことなく自慢した。

「ことわざでもあるだろ? 心頭滅却すれば飛んで火にいる夏の虫ってさ」

「それは言うなら、心頭滅却すれば火もまた涼しだろ? もう少し勉強しろ、おめーは!」

 言い間違いを真っ向から指摘された拳悟は、火が出るほど顔を真っ赤にして慌てふためく。これを読んでいる読者にアホ扱いされないよう必死になって釈明に追われるのであった。

「おまえな、そういうことは揚げ足取らないで素通りしろよ! それが仲間を思う心遣いってヤツだろうが!」

「あぁ? 何言ってやがる。俺は間違いを教えてやっただけだろうが。変な言い掛かり付けるんじゃねーよ!」

 溜まりに溜まった苛立ちが爆発し、とうとう二人の怒りが頂点に達した。彼らは缶ジュースすら放り投げて、これからまさに取っ組み合いの喧嘩を始めんばかりの様相だ。

 バカだ、アホだとお互いを罵り合う進歩のない二人。その怒号は公園で羽根を休める小鳥もびっくりさせて、さらには遊具で遊んでいる子供たちにも注目させてしまうほどだった。

 ――こういう緊迫した場面に限って招かざる人物を呼び寄せてしまうもの。ここで、青筋を立てた顔をぶつけ合う彼らの仲裁に入る落ち着き払った一人の男性がいた。

「よーし、そこまでだ」

 拳悟と勝の後頭部を掴んで、お互いの頭をゴツンと叩き付けたその男性。肩幅の張ったYシャツを第二ボタンまで外し、角刈りと剃ったような細い眉が堅気っぽくない貫禄を感じさせる。

「な、何しやがるんだ――!」

 いきなり邪魔してきた登場人物に向かって、激しい怒鳴り声をぶつける拳悟と勝。だがその正体に気付くなり、青ざめた表情で素っ頓狂な声を上げてしまう。

「うおっ、オ、オッサンじゃないですかっ!」

「おいおい、その失礼な呼び方は止めろ。俺には生まれた時からキビシっていう苗字があるんだぞ」

 凄みを利かして愚痴を零すキビシと名乗る男性こそ、この矢釜市の治安を守る警察署に勤務している少年課のお偉いさんだったりする。

 ちなみに階級は成り上がりの警部補。年齢は四十歳をちょっぴり超えた当たりで、ただいま奥さん一人と娘さん一人を養うマイホームパパだ。

 拳悟や勝のような、ちょっぴり悪ふざけが過ぎる学生にとって少年課の警官はまさに天敵。いわゆるハブとマングースのような関係といっても嘘ではないだろう。

「どうしてこんなところに? それにその格好、今日は非番だったんですか?」

 よくよく見れば、キビシの格好はYシャツ一枚で上着を羽織っていない。衣替えの季節だからという理由もあるのだろうが、それにしては警官とは思えない身軽でラフな服装と言えなくもなかった。

 非番じゃなかったらしょっ引いていただろう。冗談なのか真面目なのかわからないキビシのあっけらかんと口にしたその返答に、拳悟と勝の二人は背筋が凍り付いてしまった。

「久しぶりに見かけるが、おまえたち相変わらずじゃないか。その調子だと、まだ悪いことして世間を騒がしてるんだろ?」

 滅相もない――!拳悟と勝は両手を振って真っ向からそれを否定する。そもそも世間を騒がせるほどの大事件を起こしたことがない、いや、そう思っている二人だった。

 蛇に睨まれた蛙のごとく、すっかり臆してしまい直立不動で姿勢を正している彼ら。キビシはそんな二人に悪さをしないよう釘を刺しつつ、きびすを返して肩幅の広い背中を向ける。

「まぁ、さっきの喧嘩は一歩手前だったから、俺の厚意に免じて許してやるからありがたいと思え。だが次はそうはいかんぞ」

 一歩足を踏み出してから、チラリと横顔を振り向かせるキビシ。その凄みの利いた目つきが矢釜市に蔓延る不良少年たちを震え上がらせて、まさに鬼とも般若とも呼ばれる所以でもあった。

「赤と青――。おまえたちはブラックリストに載ってる危険な色なんだからな」

 キビシは意味深な警告を残して、肩をゆらゆら揺すりながら公園から去っていった。堅気とは思えない雰囲気を漂わせたせいで、いつの間にか遊んでいた子供たちまですっかり姿を消してしまっていた。

 静けさに包まれる公園のベンチの前で、恐怖心から鼓動が高鳴っていた拳悟と勝の二人。緊迫していた威圧感が消えていくと、これでもかという安堵の吐息を漏らした。

「それにしても、あんなおっかない警官がいるんだな。汗びっしょりかいちまったぜ」

「世も末だな。まさか、こんなところで出会うなんて縁起が悪いったらありゃしない」

 くわばら、くわばらと震える声で呟き、彼らがベンチへ腰掛けた丁度そのタイミングで待ち合わせていた由美がやっと到着したようだ。

 二人を待たせてしまったと思い、ごめんなさいと謝りながらハンカチ片手に駆けてくる彼女、しかし、自分よりも汗ばんでいる彼らを見て驚きを隠せない様子だった。

「二人とも何かあったんですか?」

「ああ、気にしない、気にしない。この暑さだから座っていても汗が噴き出してくるんだよ」

 手を団扇代わりに扇ぐ拳悟は、つい先ほどのやり取りをつぶさに語ろうとはしなかった。不良に嫌悪感を示す彼女だけに、警官に睨まれていることなどそれこそ口が裂けても言えないといったところか。

 夏休み早々何やら風雲急を告げる予感がする中、ここに出揃ったメンバー三人は初日から遅刻すまいと早足にアルバイト先へ向かうのであった。


* ◇ *

 拳悟たち三人のアルバイト先である大衆食堂”えびすや”。

 矢釜中央駅から徒歩十五分ほどの商業エリアにあるこのお店は、正午ともなるとサラリーマンといった勤め人たちでごった返す人気店だ。

 平日ランチのメニューも豊富で、さらにプライス的にもお財布に優しいところが集客力の高さを物語っていた。

 なお、この店はすでに数人ほどアルバイトを採用しているが、それだけではまかないきれない夏休み期間のみ追加で募集していたのである。

 賑々しい大衆食堂へやってきた三人は差し当たり店長室へと案内された。そこでは髪の毛を七三に分けた真面目そうな店長が、新たなアルバイト学生の到着を手ぐすね引いて待っていた。

「おお、よく来てくれたね。さっそくで悪いが、すぐにも仕事に就いてもらおうか」

 詳しい説明もそこそこに、お店のロゴが入ったエプロンを手渡された拳悟たち。ただいま正午という時刻だけに、猫の手も借りたいほどお店が繁盛していたのだろう。

 さてさて、それではどんな仕事に就くのかというと、ありふれた大衆食堂らしく拳悟と勝の男子二人は洗い場での食器整理清掃、そして由美はあらかたの予想通りウエイトレスであった。

「俺らも予想通りだけど、やっぱり皿洗いだったか」

「わたしの店ではウエイターは採用していないんだ。不平不満を言わずにがんばってくれたまえ」

 そんなわけで、拳悟と勝、そして由美は裏方と表舞台の二手に分かれてアルバイトに精を出すことになった。

 他の店員の道案内により拳悟と勝が連れてこられた洗い場は、それはそれは裏方の職場と言わんばかりに混雑している店内の喧騒も届かない奥深いエリアに存在した。

 そこでさっそく彼らを出迎えたのは、シンクの上に何十枚にも重なっているおいしい料理ですっかり汚れてしまったお皿や丼たち。しかもこれが、正午前から約一時間ほどで溜まった洗い物というのだから驚きだ。

 想像以上のボリュームに唖然とし、拳悟と勝は落胆の声を上げるしかない。初っ端からやる気を削がれてしまったものの、これもすべてはお小遣いのため。彼らは渋々流し台の前へと向かうのだった。

 大衆食堂の奥にある無駄に広いこの洗い場。エアコンが完備されていない蒸し暑い劣悪な環境の中で、拳悟と勝はたった二人きりで皿洗いを始める。

「それにしても、皿洗いが俺らだけってどういうことだ? どうみても二人でこの数は無茶過ぎるだろう」

「チラッと聞いた話だが、本当はあと二人ほど欲しかったらしいけど俺たち以外に応募がなかったらしい」

 愚痴を零しながらも、手分けしながらテキパキとお皿と丼を洗浄していく二人。しかし、洗っても洗っても汚れた食器類は一向に減ったように感じられない。

 それもそのはずで、洗浄し終えるたびにまた新たに汚れ物が運び込まれてくるものだから、実質減っているというよりも増えていると言った方が正解なのかも知れない。

 そうこうしている間にも、汚れた食器類がどんどん二人のもとへとやってくる。キリがないとはまさにこのことだろう。

「おい、もういい加減にしろよっ! 絶対にアルバイト料の時給アップを要求してやるからな~!」

 アルバイト初日から労働条件を度外視した仕事量に苦言を吐き捨て、すっかり根を上げてしまう拳悟と勝なのであった。

 その一方、来客で賑わいを見せる店内ではアルバイト初体験の由美が注文取りや料理の運搬で汗水を流して働いていた。

 人見知りで引っ込み思案の彼女にとってすべてが新鮮そのもの。最初こそたどたどしかったりもしたが、他のウエイトレスの動きを参考にしながら調理場と十数席あるテーブルの間をせっせと往復していた。

 とあるテーブル席から瓶ビール一本の注文を承った由美は、大繁盛の店内の中で飲料を保管している冷蔵庫を目で追った。

(あそこだね、きっと)

 会計レジ付近にある冷蔵庫を発見し、急ぎ足でそこまで辿り着いた由美。水滴の付着したガラス扉を開けようとした矢先、瓶ビールを握り締めて彼女に声を掛けてくる人物がいた。

「はい、瓶ビール一本でしょ?」

「え?」

 由美の視界に入ったのは、襟元まで伸ばしたシャギーの入った髪の毛にパッチリとした瞳を持った美形な顔立ちの女の子。身なりからして由美と同じくアルバイト学生のようだ。

 女の子は眉をしかめて、半袖カットソーの襟をパタパタと暑苦しそうに揺さぶった。その時、一緒に揺れ動いた豊満な胸を見て由美は同姓ながらも頬を赤らめて一瞬ドキッとしてしまう。

「それにしても混んでるわよね~。ホント、やんなっちゃうわ」

「そ、そうですね。わたしも働いてから一時間ほどだけど疲れちゃった」

 アルバイト学生の女子二人は、ごみごみとした店内の片隅で苦笑し合った。それでも休憩している暇などなく、すぐにも注文取りや料理の運搬に借り出されてしまうのであった。


* ◇ *

 水道の蛇口から流れる音ばかりが反響する洗い場。客足も減ってようやく洗い物も落ち着いたせいか、拳悟と勝の二人は食器の一つ一つをのんびり片付けていた。

 うだうだと文句を並べていた彼らだったが、こういう時だけ真面目というか単にお金がかかっているからか、与えられた仕事だけはしっかりとこなしていたようだ。

 泡だったスポンジを握り締めて、キュッキュッと汚れを洗い落としている拳悟。いつしか彼の目線は、すぐ隣で同じ仕事をしているライバルへと向けられる。

「おまえさー、さっきから言おうと思ったけど、ちょっと皿の洗い方が大雑把じゃねーか?」

 いきなり根拠のないクレームを突き付けられた勝は、さすがに釈然としなかったのか、洗い終わった食器の枚数を比較材料にしながら反論する。

「バカヤロウ、数をこなしてこそ何ぼだろうが。ちまちま洗ってるおまえの方こそちゃんと仕事をしやがれ!」

 アルバイトは質より量だと自論を展開する勝に対し、品質があってこそのお給金だという自論で対抗する拳悟。この二人は皿洗いをテーマにして、仕事そっちのけで熱く語り始めてしまうのだった。

「いいか、よく聞け。食器を手早く丁寧に洗浄し、できる限り早く片付ける。これが皿洗いプロフェッサーと呼ばれる俺の得意技よ」

 拳悟は鼻歌交じりで自慢げに鼻で笑う。というよりも、皿洗いプロフェッサーがどれほど優秀なのか正直なところよくわからない。

「ケッ、てめぇみたいなアホには丁度いい得意技じゃねーか」

「何だと、この野郎!」

 勝の悪口とも取れる暴言に拳悟はカチンと頭に血が上ってしまい、つい衝動的にお皿を円盤のように投げ付けてしまった。勝がそれをスポンジで受け止めたおかげで無傷で済んだが。

「おいおい、怒るのは構わんが皿だけは投げるなって。壊れちまったらバイト料から差っ引かれちまうんだぞ」

 拳悟の乱暴な振る舞いを注意し、勝は悩ましげな顔で皿洗いを継続する。アルバイト代を減らされたらたまったものではないと、彼はそれだけで頭が一杯だったらしい。

「それなら、スポンジはいいんだな!」

 拳悟の怒鳴り声が響いた瞬間、投げ付けられたスポンジが勝の横顔にものの見事にヒットした。髪の毛も頬も、さらにミラーグラスにもふわふわな泡が付着している。

「はっはっは! カレー味が隠し味になっている洗剤のお味はどうだ?」

 拳悟はお皿を扇子のように揺らし、これ見よがしにケラケラと嘲笑した。当然と言うべきか、このまま勝が黙っていられるわけがない。

「それなら俺のはどうだっ! マヨネーズが隠し味になってるんだぜ」

 勝が放り投げたスポンジが拳悟の顔面に思い切りぶち当たった。繰り返し言っているかも知れないが、このやり合いはもう小学生なみの拙さである。

 こうなってしまうと、理性と感情をコントロールできなくなるおバカな二人。恒例というか性懲りもなくというか、取り留めのない子供じみた言い争いが始まってしまった。

「やりやがったな、てめぇ! 覚悟はできてるんだろな!?」

「おう、やったろうじゃねーか、かかってこいよこのアホ!」

 鼓膜を打ち付ける怒声を撒き散らし、見境なくエキサイティングしてしまう粗暴な男子二人。ところが、今日ばかりは喧嘩の舞台がまずかった。

『ガシャーン――』

『パリーン――』

 洗い場の室内に甲高く轟いた破裂音――。それは語るまでもなく、大衆食堂の名前が入った食器が割れる時の無残な音であった。

 宙を舞うお皿や丼、それぞれがぶつかったり床に落下するたびにアルバイト代が弁償代へと消えていく。しかし、激しく罵り合う拳悟と勝の二人にはもうそんなことなど頭の中にはなかった。

 洗い場で勃発した騒動の余波はやかましい騒音となって室内を飛び越し、たまたま廊下を歩いていた店長の耳元まで届いていた。

 いったい何事だ?と、店長は戸惑いの表情で恐る恐るドアを開けて室内を覗き込んでみた。

 ――そこで彼は、とてつもない衝撃を目の当たりにするのだった。

 濡れた床に散乱する食器の破片、そして、まるでお皿や丼をおもちゃのように投げ飛ばしているアルバイト学生。そんな信じられない光景を目撃したら、さすがの店長も落ち着き払ってはいられないはずだ。

「コラコラ、おまえたち! これはいったいどういうことだっ!?」

「うわっ、やべぇ!」

 鬼の形相で迫ってくる店長の襲来に、勝はびっくり仰天し右往左往しながらしどろもどろになっていた。

 ――その直後、勝の横を風のようにすり抜けていく円盤のような一枚の洋風皿。それは乱れのない直線的な軌道を描き、怒り心頭の店長の顔面へと突っ込んでいった。

『カッコ~~ン』

 それはあっという間の出来事だった。高音ながらも鈍い音とともにお皿が店長の顎の辺りにヒットした。彼は痛撃のあまり卒倒してしまい、仰向けのまま床の上に倒れてしまった。

 この由々しき事態に呆然としてしまう勝だが、お皿を投げ飛ばした張本人の拳悟の方が、それはもう動揺をごまかせないほど全身を震わせていた。

「バカ! おまえ、とんでもないことしてくれたな、おい!」

「仕方がねーだろ! そもそも、おまえが避けるのが悪いんだぞ!」

 ここで罪の擦り合いをしていても何も解決しない。そう判断した二人は気絶している店長をそっと抱え起こした。

 肩を揺さぶられること数十秒後。店長はうめき声を上げてようやく息を吹き返した。ショックのせいだろう、自分がなぜここにいるのか意識がまだハッキリしていなかった。

 滑って転んで頭を打ったのだと、拳悟たちからまったくの嘘を聞かされた店長は、それをすっかり信じ切って気恥ずかしそうに苦笑していた。

 何より致命傷に至らずに済んで拳悟と勝の二人はホッと胸を撫で下ろしていたが、それよりも、お皿を割るほど大騒ぎしたことがバレずに済んでホッとしていたようだ。

「いやはや、何はともあれ、店長が無事で良かったな」

「ホント、ホント。一時はどうなるかと思ったよな」

「これは心配をかけてしまったな。はっはっは……」

 ……やがて、店長の乾いた笑いがほのかに怒気を帯びていく。あちこちに散乱しているお皿の破片が事の真相をすべて物語っていた。

「ごまかすな、バカもん! この割れた食器はどういうことじゃあ!」

「わ~、そりゃバレるわなぁ~!」

 汗を飛ばして逃げるアルバイト学生二人、それを血眼になって追い掛ける店長。無駄に広い洗い場という空間で大人と子供の追いかけっこが始まってしまった。

 よくよく振り返ってみると、ここ最近、拳悟と勝はいつも追われる身だったりする。相変わらず進歩のないおバカな男子二人といったところか。

 そんなドタバタ劇が展開されているとも知らず、洗い場の方へ汚れた食器を運んできた一人のアルバイト女子。それは、接客から裏方の仕事を手伝うよう指示されていた由美だった。

 洗い場に近づくにつれて、男性のものと思われる怒鳴り声とわめき声がおのずと耳に届いてきた。何かあったのだろうか?と、彼女は不思議そうに頭を傾げている。

『ガッシャ~ン』

 それはあまりにも唐突だった。大きな物音とともに洗い場のドアを蹴破って飛び出てきた拳悟の逃げていく姿を見て、彼女は硬直したまま呆然としてしまった。

「ケ、ケンゴ、さん……?」

 さらにそこへ青ざめた顔で逃げ出してきた勝と、彼らを真っ赤な顔で追走していく店長を連続に目撃し、由美は食器を抱えたまましばらくその場に立ち尽くしてしまうのだった。

「……いったい、何があったというの?」


* ◇ *

 それからしばらく経ち、時刻は午後二時半を過ぎた頃。

 慌しかったランチタイムも終了し、大衆食堂で働く従業員やアルバイト学生たちにとってしばしの休憩時間が訪れた。

 ここは店内にある七畳ほどの休憩スペース。各々が自動販売機で飲み物を購入し、備え付けのテーブル席で一服する者もいれば苦労話や世間話に花を咲かせる者もいる。

 拳悟と勝の二人も皿洗いという過酷な労働から解放されて、冷たい缶コーヒーを口にしながら一息ついていたところだった。

「いやはや、参ったな。どうなっちまうんだ、俺たち」

「どうなるも何も、こうなったのは全部おまえのせいなんだぞ」

 洗い場での騒動を振り返り、拳悟と勝は青ざめた顔で困惑するしかない。

 結局あの後、鬼ごっこから逃げ通すことができた彼らだったが当然このまま無事に済むわけもなく、この休憩時間が終わってから店長室まで来るようお呼びが掛かっていた。

 弁償代金としてお給金カットは免れないにしても、せめてクビだけは勘弁してほしいと願う彼ら。心穏やかになれず、飲み物も喉に通らないほど戦々恐々としているというわけだ。

 落ち込んでいる二人のところへ、同じく休憩に入った由美が近寄ってきた。彼女のすぐ傍には、先ほど出会ったばかりのシャギーを入れた髪の毛を揺らすアルバイト少女の姿もあった。

「ケンゴさん、スグルくん。お疲れさまです」

「ああ、ユミちゃんか。お疲れさん~」

 由美のことを労いつつ挨拶を返す拳悟。しかし、声のトーンは数オクターブほど低めだ。

 洗い場でのドタバタ劇を思い出した由美は、意気消沈としている彼らのことが気に掛かり、あの時いったい何があったのか?と真相について尋ねてみた。

「いや何、些細なことだよ。気にしない、気にしない」

「ドアを壊してまで逃げたりしてたのに、本当に些細なことなんですか?」

 目撃したシーンが衝撃的だっただけに、信じたくてもつい懐疑的な目を向けてしまう由美。本日二度目の”気にしない”という台詞に、正直なところ疑いをごまかせない彼女だった。

 由美の戸惑いの眼差しが拳悟の胸にグサッと突き刺さる。これ以上勘ぐりされるとまずいと思い、勝に応援を要請しようとしたが……。

「このバカさ、店長を怒らせちまったんだよ。お皿を投げ付けて……」

「お、おいスグル! おまえ、いらんことは言わんでいいんだって!」

 その時、拳悟の口封じの手のひらが発動する。それをもろに背中に食らった勝は、飲みかけのコーヒーをテーブルの上にぶちまけてしまった。

 ゲホゲホと咳き込む勝を尻目に、拳悟は冷や汗を飛ばしながら話題を切り替えようとする。そんな慌てふためく彼の目に、由美の隣で小さく微笑んでいる一人の少女がピタリと止まった。

「それよりユミちゃん。その娘さんはだ~れ?」

「あ、ご紹介しますね。彼女はわたしと同じウエイトレスの大野柚加利おおのゆかりさん」

 どうぞ、よろしく――と姿勢正しく腰を折り曲げながら挨拶をした大野柚加利は、矢釜中央駅から少しばかり離れた桃尻ヶ丘高等学校に通う十七歳の二年生。

 学校こそ違えど、彼女は由美や拳悟たちと同学年ではあるが、このアルバイト先では数ヶ月ばかり先に採用された先輩なのだという。

 アルバイト先で偶然に出会った同級生、しかもそれなりにルックスのいい女の子となれば、拳悟と勝もお近づきになりたいのだろうニッコリとさわやかな笑顔を名刺代わりに差し出した。

 ところがどっこい、これから飛び出す由美の悪気のないストレートな一言が思春期の男の子らしい彼らの思惑をぶち壊し、さわやかな微笑みさえも凍り付かせてしまうのだった。

「ちなみに、ケンゴさんとスグルくんのことは一年留年している一学年先輩だと、ユカリさんにはしっかり伝えておきました」

「あ、あの、ユミちゃん。それ、できることなら内緒にしておいてほしかったなー……」

 嘘が付けない素直で真面目なクラスメイト。その汚れのない真っ白な由美の人間性にどこか魅力を感じながらも、拳悟と勝は恥ずかしそうに苦笑いを浮かべるしかなかった。

「おーい、そこの二人。早く店長室に行けよ~」

 ほんの三十分少々の休憩時間も終わり、従業員の一人から店長室へ行くよう促された拳悟と勝の二人。緊張と不安のダブルパンチが襲ってきて、その場に起立して全身を硬直させてしまう。

 まるで死刑執行場に赴くような気分の彼ら。ガックリと肩を落として去っていくお友達が見えなくなるまで、事情を知らない由美はただ手を振って見送るしかない。

「ユミちゃんのお友達って、ちょっと変な人たちだね」

「変とかそういうんじゃなくて……。他に人に比べると個性的なんだと思う」


* ◇ *

 不穏を漂わせる店長室へ呼び出された拳悟と勝の二人。ここを訪問するのは本日二回目となる。

 スーハーと大きく深呼吸をして気持ちを落ち着かせた拳悟は、勝に目配せをしてから店長室のドアを小さくノックした。

 ドアの向こう側の反応を確かめるなり、失礼しますと控え目に入室すると、肘付き椅子をクルリと回転させた店長が眉根を寄せた険しい表情で彼らを出迎えた。

「ああ、来たか。楽にしてくれたまえ」

 店長のありがたい心遣いのままに、拳悟たちはリラックスしようと来客用のフカフカのソファーの上にどっかりと腰を下ろして踏ん反り返った。

「で、店長、どんな御用かね?」

「バカもん、誰が椅子に座っていいと言った? しかも偉そうにするんじゃない!」

 事の重大さも理解しようとせず、反省の色もまったく見せないアルバイト学生の態度に店長は嘆きを漏らして頭を抱えるしかなかった。

 とはいえ、いくら拳悟と勝がまだ未成年といえども善悪の区別ぐらいは付く年齢だ。表情や態度では偉ぶっていても、内心ではまったく反省していないわけがない。

 彼らはしおらしくして店長の机の真正面でピシッと整列する。どんなお叱りを受けるのだろうかと、ハラハラドキドキと高鳴る鼓動が室内の隅々まで届くほどだ。

 それから数秒間、気難しい顔つきのまま押し黙っている店長。彼が口火を切るよりも先に、もう二度とあんなことはしませんと拳悟と勝は平謝りしながら後悔の念を口にした。

「アルバイト料のカットは受け入れるから、どうかクビだけは……」

「お願いしますよ。せっかくの楽しい夏休みの計画がおじゃんになるから」

 店長の吊り上がり気味の眉がピクッと動いた。それはあからさまに不機嫌を示すもので、抑え込んでいる憤りと苛立ちが今にも爆発しそうな様相を呈していた。

「あれだけ大暴れしておいて、この期に及んで慈悲を求めるとはとんでもないことだ。おまえたちはクビに決まっているだろうが!」

 机の上に二つの握り拳を叩き落し、店長は顔を紅潮させながら割れんばかりの怒号を発した。

 食器類の破壊に留まらず、人に向かってお皿を投げるという暴力行為。さらにはドアを蹴破って逃走まで図る始末。これほどの悪行の数々では懲戒解雇を通達されるのも無理はない。

 そればかりか、物損や人身被害における損害賠償すら請求されてもおかしくない事故といっても過言ではないだろう。

 ショックのあまり途方に暮れてしまう拳悟と勝の二人。今回ばかりはおいたが過ぎたせいか、お情けを嘆願したり言い返したりする気持ちすらも萎えてしまっていた。

「……と、本来ならクビにするところだが」

 店長が呟いた思わせぶりな一言に、拳悟と勝は伏し目がちの顔をゆっくりともたげる。

「お互いにライバル同士なのだろう。張り合っているせいか食器清掃が人一倍早い。正直な話、おまえたちのようなアルバイトは初めてだ」

 仕事の効率に一定の理解を示し、ここまでの実績と成果だけは賞賛していた店長。事実、彼ら二人は不平不満を言いつつもノルマだけはしっかりとこなしていたのだ。

 それにここで彼らを解雇したところで、食器清掃のアルバイト学生を急募してもそう簡単に応募があるとも限らない。そういう理由も考慮し、店長が思案に暮れて泣く泣く出した結論だったのであろう。

 給料カットは仕方がないにしろ、どうにか解雇という非常事態からは放免された拳悟たち。これこそが、もう一度だけチャンスを与えてくれた店長からの期待と温情の証しでもあった。

「ほれみろスグル。この皿洗いプロフェッサーのおかげだぞ。ありがたく思えよな」

「おめーはすぐに調子に乗るんじゃねーよ。俺の活躍だって評価されてるんだからな」

 些細なきっかけで言い争いを始める懲りないライバル二人。取っ組み合いの喧嘩まで発展しなかったのは、それなりに反省している気持ちの表れだろうか。

 私語は慎むようにと言わんばかりに店長はわざとらしい咳払いをする。いざ許してはみたものの、本当にこれで良かったのだろうか?と不安視する思いも覗かせていた。

「いいか? 次に騒ぎを起こしたら、その時が最後だと思うんだぞ」

「了解です! 肝に銘じてこれからも皿洗いに精進するであります」

「俺たちこう見えても、同じ過ちを繰り返さないんで、ご心配なく」

 ハチャメチャな学生が活躍する物語らしく、ちょっとした騒動はご紹介の通りだが、大衆食堂での短いようで長いアルバイト初日はそれからしばらくして終わりの時を迎えるのであった。

 真っ赤な夕日が街角のビル群に落ちていく頃、ひと時の別れの挨拶を交わしながら大衆食堂を後にするアルバイト学生たち。

「う~ん、今日は疲れちゃった。アルバイト初めてだから余計にそう感じちゃったんだろうな」

「ユミちゃん、かなり張り切ってたもんね。わたしからみてもバッチリこなしてたって感じよ」

 アルバイト初体験を滞りなく終えて安堵の笑顔を零している由美。そして、労いの意味を込めて彼女に励ましの気持ちを伝えたアルバイトでは先輩に当たる柚加利。

 愛らしい女子高生たちのことを後ろからニヤニヤしながら眺めるのは、いろいろな意味で今日一日お疲れだった拳悟と勝の二人だ。

「なぁ、スグル。よく見てみるとさ、ユカリって結構いい感じじゃねーか? ラインもそれなりに細いしさ」

「ああ、全体的に細いくせに、胸はかなりのボリュームだもんな。あれは世の男子たちも放っておかないぜ」

 それは思春期真っ只中、男子二人のいやらしい目線を背中で感じ取った柚加利は、ゾクッと背筋を凍らせつつ横目で背後をチラ見する。

「あの二人、何話してるのかな? 薄気味悪いほどニヤけてるけど」

「よくわからないけど、男子にしかわからないお話なんだと思うよ」

 若者らしい青春の一ページが垣間見れるこの光景。アルバイトに汗水をたらし、新しい出会いに喜ぶ学生一人一人の充実感のある夏休みのワンシーンとも言えるだろう。

 微笑ましい思い出作りの一つでもあるアルバイト。ここに集まる学生たち四人はまだ、この先に待ち受ける波乱なる大騒動など到底知るはずもなかったのである。

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