第十三話― 悲しきかな、雨もしたたる水泳授業(1)
矢釜市も夏を迎えて早一ヶ月ほど。
真っ赤な太陽がギラギラと顔を覗かし、大地に熱視線を降り注ぐ七月中旬。
毎年この時期、派茶目茶高校の体育授業では生徒たちにとってのお楽しみ、校内のプールを使っての水泳授業を執り行われていた。しかし、今年は思い通りにならない異常事態が発生していた。
それはいったい何か……?今回のお話は水遊びをこよなく愛する一人の男子生徒にとって、聞くも涙、語るも涙の物語である。
* ◇ *
「あ~~、くそったれがぁぁ!」
派茶目茶高校、とある休み時間。冒頭からいきなり下品な大声を張り上げたのは二年七組のクラス委員長である勝だ。彼は憤りをぶつけるように、机の上に二つの握り拳を叩き落した。
「今日もまた雨が降り出したじゃねーか! どうなってやがんだよ、おいコラ!」
「俺に怒ってもしょうがねーだろ? 自然現象なんだからどうすることもできないだろうに」
いつもながら憤怒の矛先にされているのは拓郎だ。彼は呆れた顔つきで、愚痴ばかり零すクラス委員長を渋々宥めるしかなかった。
勝が怒りを撒き散らしている理由とは果たして何か?それは会話にもあった通り、明るい太陽が鳴りを潜めてしまい鉛色の上空から雨が降り注ぐこのお天気のことであった。
本日、二年七組の生徒たちの待望と言うべきプールで水と戯れる水泳授業があるのだが、期待を裏切るようにお天気はあいにくの雨。降水確率八十パーセントと、天気予報すら裏切らない結果となってしまった。
この学校ではプールの水温に関係なく、衛生上の理由により雨が降ると自動的に水泳授業は中止となってしまう。水遊びを楽しみにしていた彼らにしたら、雨模様は地団駄を踏むほど恨めしかったというわけだ。
この由々しき事態を悔しがるのは、何も勝や拓郎に限ったことではない。彼らの近くの机の上に突っ伏している、本日の水遊びを誰よりも待ち望んでいた拳悟もその中の一人だった。
「おっかしいだろう~。これで俺たち三回目の水泳授業中止だぜ? こんな悲惨な現実ってどう考えてもおかしいだろう~?」
止むことのない雨を儚く思い、意気消沈としてふて腐れている拳悟。すでにインナーに水着を着込んでいた彼にしたら、この仕打ちはあまりにも惨たらしい悲劇と言えなくもない。
二年七組の教室内に重々しい鬱々とした暗い影が落ちる中、拓郎が頬杖を付きながら溜め息を漏らして窓の外へそっと視線を向ける。
「俺の記憶だけど、この前、梅雨明け宣言したばかりだよな。それにしては雨の日が異様に多くないか?」
拓郎が納得いかなそうに首を捻るのも無理はない。
矢釜市はつい先日夏本番を告げる梅雨明けを発表したものの、それを境にして、夏らしいかんかん照りの日が思いのほか少なく季節外れの雨降りが数日間続いていた。
もともと「水の都」と呼ばれる所以か、矢釜市の降水量は全国でも高い水準なのだが、ここに来てのぐずついたお天気の連続はもう異常気象と言えなくもないレベルであった。
また運の悪いことに、二年七組の体育の授業がある時に限ってほぼ間違いなく雨が降っている。これはもうお天気の神からも見放された、呪われた宿命と言っても過言ではない。
突如ふらっと頭をもたげる拳悟。憔悴し切ったうつろな目線で、クラスメイトたちのことを睨むように見据えていた。
「ちくしょー。きっとこれは雨男の仕業だ。どこのどいつだ? 雨男は名乗り出ろ。この俺が一人残らずぶん殴ってやる!」
拳悟は相当頭に来ているのか、鼻息を荒くしながら席から立ち上がる。このままでは見境なくクラスメイトに手を出し兼ねない。そう判断した勝と拓郎は、彼の理不尽な暴挙を制する対応に追われてしまった。
仲間二人から宥められて無理やり元の場所へ着席させられた拳悟だが、押さえつけられた分だけ虫の居所の悪さはさらに膨れ上がるばかりだ。
「ちくしょう! ドイツもコイツも邪魔ばかりしやがって。まったく頭に来るぜ!」
拳悟はやり切れない苛立ちを吐き捨ててウルフカットの髪の毛をかきむしる。すると雨のせいでジメジメしているせいか、彼の頭の近くに耳障りな羽音を立てる一匹のハエが飛んできた。
それをぼんやり見つめていた勝がクスリと嘲笑してポツリと呟く。
「……確かに、来ているな」
プールでの授業が中止となり、これ見よがしに落胆に暮れるハチャメチャトリオ。その一方で、彼らの席から少し離れた窓際では降りしきる雨の情景を窓越しに眺める女子生徒がいた。
夏の雨は青葉を濡らし、渇いた大地をも濡らしていく。ちょっぴり窓を開けてみた由美、そして机の上に腰を下ろしている麻未は霞んでいる景色にそれぞれの思いを馳せていた。
「それにしてもよく降るね。朝の天気予報でも大雨注意報が発表されていたし、ちょっと心配だね」
「でも、雨が降る時の優しくてリズミカルな音色。不思議と耳に心地よくてロマンを感じるのよね~」
結局、この日の雨は夕方近くまで降り続き、ここ矢釜市の街をしっとりと潤していった。
異常気象の気紛れというやつか、雨が止んだ途端真夏の暑さがぶり返し、二年七組の生徒たちにとっては、いじらしいほどに皮肉めいた一日となってしまったようだ。
* ◇ *
ある日の夜、ここは由美が姉の理恵と暮らしているアパート。
この日の天候も雨時々曇り。アパートがびっしょり濡れているせいか、彼女たちの部屋の中もどこか不快な湿り気を感じなくもなかった。
姉妹二人はこれから楽しい夕食タイム。姉の理恵が調理を担当し、妹の由美がテーブルの片付けや配膳を担当する。これは、いつもと変わらない日常の光景であった。
チェック柄のエプロンを肩から下ろして、艶やかな長い髪をポニーテールに結った理恵。鼻歌交じりの彼女、メインディッシュの材料を冷蔵庫から取り出そうとした、その瞬間。
「えーっ、うそぉ!?」
姉の大きな声に、妹はハッと驚きの表情で振り返る。いったいどうしたの?と、由美は流し台の隣にある冷蔵庫のもとへ駆け寄った。
「ユミ、見てよほら。このお肉、カビが生えちゃってるわ!」
「あ――! 本当だ。でもこれ、二日前に買ったものだよね? こんなに早く悪くなるものだっけ?」
「そんなことないでしょう。まだ消費期限だって過ぎていないのに」
理恵の手に握られているパックの豚肉。消費期限であるはずの翌日朝を待たずに、おいしそうなピンク色の塊には白っぽい粉上のカビが数箇所付着していた。
ショックのあまり茫然自失とする姉妹。予想よりも早く悪くなってしまったこともそうだが、何よりも今夜のメインディッシュの材料を失ってしまったことの方が衝撃的だったはず。
「う~ん、カビを落として、無理やりフライパンで焼いたら食べられるんじゃないかな」
「お姉ちゃん。わたし、少しばかり質素な食事でも我慢する。だから結果オーライ的なことはやめようよ」
姉妹二人が悩みに悩んで相談した結果、本日の夕食のメインは”畑のお肉”とも呼ばれる貴重なタンパク源、お豆腐を使った創作料理で落ち着いた。
綺麗に片付いたテーブルの上に主菜に副菜、そしてサラダとお味噌汁が並んで、理恵と由美にとって心待ちにしていたディナーの時間がやってきた。
テーブル席に向かい合い、いただきますと声を上げてお箸を両手に合掌する彼女たちは、テレビやラジオの雑音もない静かな食卓で慎ましくも和やかな話題で盛り上がる。
「うんうん。このお豆腐の炒め物だけど、とってもおいしいよ! やっぱりお姉ちゃんはお料理が上手だよね」
「あらあら、褒めてくれるのは嬉しいけど。言っておくけど、褒めたからって何もご褒美なんて出ないんだからね」
最愛の妹のために、会社帰りに寄り道せずに真っ直ぐ帰ってくる理恵。そんな姉を心から尊敬して慕っている由美。両親と離れて生活している彼女たちにとって、お互いの存在が大きいことは間違いなかった。
微笑ましい彼女たちの次なる話題といったら、異常気象とも言えなくもない、ここ最近の季節外れの多雨についてだった。
「本当に困ったものよね。やけにジメジメしてるし、お肉が早く悪くなったのもそのせいなのかしら」
「わたしのクラスの水泳授業もね、まだ一回もやってないんだよ。運が悪いのか、いつも授業がある時に限って雨が降るんだよね」
理恵も由美も首を捻って、梅雨明け宣言したばかりの矢釜市の天候にすっかり困り果てているようだ。
洗濯物を屋外で干せない遣る瀬無さに嘆く姉。その一方、登校時に防水加工の靴を履かなくてはいけない煩わしさに嘆く妹。紫外線が待ち遠しいわけではないが、太陽の日差しが何とも恋しい二人なのであった。
* ◇ *
それから数日後。太陽の日差しがさんさんと降り注ぐ、突き抜ける青空が目に眩しい朝がやってきた。
ここは二年七組の教室内。明るい陽光が差し込む窓の前に一人立ち、ミラーグラス越しの目から感動の涙を浮かべる勝。明るく晴れ渡る風景を見つめて独り言のような台詞を呟く。
「晴れた……。今日こそは、水泳授業ができるんだ……」
そうなのである。本日は二年七組にとって体育授業の日。それはすなわち、これまで何度も中止に追い込まれた、あの待ち遠しかった水泳授業の開催を告げるものだった。
窓際でひたすら感激している彼に声を掛けるクラスメイト。その人物こそ遅刻の常連にも関わらず、上々のお天気に心を躍らせてプール恋しさにいつもよりも早起きした拳悟であった。
「おい、スグル!」
「おお、ケンゴ!」
ついにこの時がやってきたのだ――!勝と拳悟は喜びに感涙しながら、男の友情のままにお互いの体を寄せ合った。熱血漢同士の抱き合う姿は青春の一ページに見えなくもないが、正直なところあまり気持ち良くはない。
それを物語るように、同じクラスメイトである女子生徒が一人、抱き合う彼らを見かけるなり一定の距離を置きつつ不思議そうに目をパチクリさせていた。
「お二人とも、何してるんですか……?」
恐る恐る声を震わせながら尋ねる由美。登校して早々、こんな男臭いシーンを目の当たりにしてか彼女の表情には戸惑いの色が浮かんでいた。
このままでは誤解されてしまう――!拳悟と勝の二人はすぐに離れて汗だくのまま釈明に追われる。これは歓喜を分かち合う二年七組特有のスキンシップの一つなのだと。
「ほら、今日はいいお天気でしょ? 今日こそはプールで水遊びができるから、つい嬉しくてテンションが最高潮というわけさ」
「ああ、なるほど。このお天気だったら間違いないですよね。楽しみですね、水泳授業」
本日の予想最高気温は二十五度の夏日。プールで水遊びに興じるには丁度よい暑さと言えよう。
この学校へ転校してからというもの、まだ一度も体験していない水泳授業だけに由美も気持ちが高ぶっているのか、お気に入りの水着の入ったトートバッグを楽しそうに揺らしていた。
水泳授業が楽しみでウキウキしているのは、もちろんこの三人だけではない。二年七組のクラスメイト全員が、午後四時限目の体育授業を今か今かと心待ちにしていた。
――少々時間が経過し、三時限目の英語の授業になった頃にはますます午後のプール遊びのことばかりが頭に浮かんで、みんながみんな肝心の授業などすっかり上の空であった。
「コラ、あなたたち、何ボケッとしてるの? ここはテストに出すところなんだから、しっかり頭の中に叩き込んでおきなさい!」
英語の講師であり担任でもある静加の怒鳴り声がこだました。しかし、プールの中を泳ぐ魚になった気分の生徒たちは、英語のスペルなど右耳から左耳へ通り抜けてしまっているようだ。
クラス委員長である勝、そして拓郎や麻未に至っては何メートル泳げるとか、どんな水着なのかといった自慢話で盛り上がり、賑やかなおしゃべりに花を咲かせる始末であった。
「それより、ユミちゃんはどんな水着なの?」
「おお、それ知りたい、知りたい」
勝と拓郎は何の前触れもなく、ご近所の由美をも座談会に巻き込もうとした。声を掛けられて無視できない彼女は、恐縮しながらも当たり障りのない返答をするしかなかった。
「わ、わたしのは、その……。普通の水着です」
派茶目茶高校の校風らしく、水泳授業の水着も制服と同様に指定されてはいないため各自自由な水着で良いわけだが、あからさまに艶かしい水着を着たりする女子生徒は思いのほか少ない。
ちょっぴり照れくさそうにする由美を眺めて、クスリと色っぽい笑みを浮かべる麻未。彼女はいきなり、由美のワイシャツ越しのウエストにそっと手を触れる。
「あら、ユミちゃんぐらいスタイル良かったら、男心をくすぐるエグいワンピースとか似合いそうだよ~」
「ひゃっ! ア、アサミさん、びっくりさせないで」
真っ赤な顔で冷や汗を飛ばす由美をよそに、男の性というヤツか勝も拓郎もニヤニヤといやらしく笑っていた。この二人から繰り返される言葉といったら、間違いなく似合うという麻未の意見に同調するものだった。
「いやぁ、水泳の時間が楽しみになってきたぜ」
「うんうん。眠気も吹っ飛ぶほどにな」
「冗談半分だったのに、とんでもない助平ね、あんたたち」
授業そっちのけで、えげつない会話ばかりが耳に入ってくる静加。それを不甲斐なく思う彼女はただ呆れるばかりで重たい溜め息を零すしかない。
「まったくもう。水泳の授業があるだけで本当にだらしがないお子様たちね~」
静加はお説教を口にしながら生徒一人一人を一瞥していく。するとその途中、黙々とノートに何かを書き込んでいる一人の男子生徒を目撃した。彼こそ何を隠そう、水泳授業を誰よりも楽しみにしているはずの拳悟だった。
教師としては失敬かも知れないが、あまりにも意外な展開にびっくりして彼女は思わず立ち止まってしまう。
「ほら、みんな、ケンゴくんをご覧なさい。しっかり勉強しているわよ」
あの拳悟が勉強を――!?クラスメイト全員が愕然とし、教室中に壮絶なるどよめきが巻き起こる。それほどまでに、勉強大嫌いの彼が学習していることそのものが奇跡と言えるのだろう。
黒板を板書しているのか、はたまた教科書から英単語を抜き出しているのか。静加は興味津々で、彼の机の上にあるノートを覗き込んだ。
「ん? 何、このグラフみたいなの?」
「おお、シズカちゃん。どう? なかなかいい読みだと思うでしょ?」
拳悟が一心不乱でカリカリ書き上げたノートには、その名も”女子の水着統計グラフ”というタイトルとともに、ワンピースのハイレグ具合や柄や色を予想した円グラフが何個も書かれていた。
稚拙なほどのバカさ加減にツルッと足を滑らせてしまう静加。怒り心頭ですぐさま体勢を立て直すなり、伝家の宝刀である聖なる鉄槌を拳悟の脳天に食らわせた。
「英語の授業をおちょくっとんのか!」
「ど、どど、どうも、ス、スミマセン……いてぇ~」
まぁこんな感じで、英語の授業もほとんど進まないまま三時限目の授業はあっという間に終了した。――しかしこの後、ワクワクしながらお昼休みを迎える生徒たちに予想だにしない悲劇がやってくる。
* ◇ *
「タイヘンだぁ! タイヘンだぞぉ!」
二年七組の教室内に反響する叫び声。その声の主である勘造がモヒカンの髪の毛と両手をばたばたさせながら、まるでニワトリのごとく教室内を駆け回る。
やかましい!と、あからさまに不快感を示す勝のもとへ彼は血相を変えて駆け付けた。
「スグルさん、タイヘンなんだよ!」
「あー? 誰がヘンタイなんだよ?」
「いや、スグルさん、そんなベタなボケ言ってる場合じゃないッスよ!」
勘造は慌てつつもしっかりツッコミを入れてから、一呼吸置く間もなく窓に映る外の景色に向かって人差し指を突き出した。
「見てくださいよ、ほら! 雨が降ってきたんスよ!」
それは衝撃的な光景であった――。
午前中まであれほど夏の陽気を思わせるお天気だったにも関わらず、お昼休みになった途端、矢釜市上空はどんよりとした灰色の雲に埋め尽くされていたのである。
日差しの消えた薄暗さ、灰色に染まった空から落ちてくるのは教室にいる生徒たちにとって不運とも言える、焼けたアスファルトを冷ましていく雨のしずくのみだ。
そんなバカなことがあるものか!と、勝はミラーグラス越しの目を大きくして怒声を張り上げる。彼は座席から飛び上がるなり、雨模様が一望できる教室の窓にへばりついた。
「ゲ~~、なんちゅーことだ!? さっきまであんなに晴れていたのに!」
雨が降ってしまったイコール、それは心待ちにしていた水泳授業の中止を意味していた。この無慈悲な現実に、勝は窓に手を宛てながら崩れ落ちるしなかった。
誰もが予想しなかったことが起こり、賑やかだった教室内に上空の曇り空のような不穏な空気が垂れ込める。生徒たちの誰もが絶句し、しとしと降り注ぐ雨音をその耳で受け止めるしかない。
言葉を失ってしまった勝の傍に、いつになく真面目な顔つきをした拳悟が近づいてきた。やはり降ってきてしまったか……。彼はこの悲しい状況を見越していたかのようだった。
「午後の降水確率五十パーセント。降ってもおかしくない予報だった。俺も浮かれてはいたが、まさかの事態を予測してなくもなかったのだ」
「そ、そうだったのか……」
拳悟は儚さを表情に浮かべて夏の雨に煙る窓越しの遠景を見つめていた。物悲しさに黄昏る彼の姿をチラ見して、勝は一つだけ違和感を覚える。
「おまえさ、雨が降ると予測してたくせによ。何で、すでに下半身水着姿になってんだ?」
「……さっき、トイレから帰ってきたばかりなんだ。あんまり深く考えないでくれ」
突然降り出した雨にびっくりして、ズボンを上げずにトイレから駆け付けてきたのか?それとも、雨などまったく考えないままプールに入る気満々でお昼時間から着替えていただけなのだろうか?
拳悟が照れ笑いでごまかした真意など、親友の勝どころかここにいる誰にもわかるはずもない。いや、そんなことはどうでもよく重要なのはこの忌々しい雨なのだ。
案の定、お昼過ぎから降り出した雨のせいで二年七組の四時限目の水泳授業が中止となり、体育館によるマット運動という決定が体育教師の口から正式に発表された。
「ふざけるな! こんな小雨なんてどーってことねー! 俺たちはプールで泳ぐって決めたんだ!」
教師の独断に納得できない一部の生徒たちが暴徒化し、自分勝手に水着姿になって反旗を翻した。その生徒たちこそ、水遊びをこよなく愛するハチャメチャトリオの三人であった。
彼らの手にはビート板に浮き輪。勝に至っては、ミラーグラスの代わりに水泳用ゴーグルまでちゃっかり装着している。
「おいおい、おまえら。プールに入っちゃいかん。雨が降っているのもそうだが、水温も冷たくなっているんだぞ~」
そんなこと知ったこっちゃないと、拳悟を先頭にしたハチャメチャトリオの面々は体育教師の中途半端な制止を振り切り、小雨が降りしきる屋外へと飛び出していった。
無謀で向こう見ずな男たちのことを体育館の窓から心配そうな顔で見つめている由美。そして、呆れ返ったような顔で見つめている麻未。
「ああ、どうしよう。三人とも本当に出て行っちゃった」
「あーなっちゃうと、誰もあの三人を止めることはできないわね」
濡れたコンクリート床を裸足で駆け抜けて、プールの目の前まで辿り着いた男子三人。コバルトブルーの水面目掛けて、いざジャンプ一番、華麗なる飛び込みをお披露目した。
『――バッシャ~ン!』
プールの水面に大きな水しぶきが上がる。それから数秒後、水中から飛び上がるように浮上してきた彼らの青ざめた顔があった。
「ぐわぁ、さ、さ、寒いじゃんかぁぁ~!」
楽しいはずの南国パラダイスが、まさに北限の地へと引っ越していた屋外プール。それは大げさではあるが、彼らは冷水にどっぷり浸かってしまい全身をガタガタと震わせていた。
そこへ傘を差して現れる体育教師と彼らの身を案じるクラスメイトたち。その表情は一様に同情心から哀れんではいるものの、どことなく冷め切っているように見えなくもない。
「だから言っただろう、冷たいってさ。このままだと風邪引くから早く上がってこいや」
「う、うるせー。こ、これぐらい、どーってことねーよ。むしろ涼しいぐらいってなもんさ」
こんな状況下でも、負けず嫌いの性格が出てしまうクラス委員長。水中でじたばたと暴れる情けない姿は、冷たさを認めたくないと受け取られても仕方がない。
とことん強情を張るハチャメチャトリオを体育教師はおもしろがっていじめようとする。そんなに水泳やりたいなら、そのままプールを一往復泳いで来いと課題まで出す始末だった。
「一往復だろうが百往復だろうがやってやるわ! そこで黙って見とれっ!」
勝たち三人は虚勢を張って、まるで川を遡上する鮭のごとく自由形スタイルで水の中を掻き分けていく。しかし、いくら百戦錬磨の彼らといえどその強がりも長くは続かなかった。
ほんの五メートルほどしてバチャバチャと横にコース変更した彼らは、プールから上がるなり体育教師のもとへ逃げ帰ってきた。
「すみません、ボクらが悪うございました。もう二度と、こんな子供じみたおいたはいたしません」
「よしよし、一つお利口になったな」
体育教師の温情により、ハチャメチャトリオたちはどうにか凍える体をバスタオルで包まることを許された。だがその代償として、体育の授業を見学する羽目になってしまったが……。
「ヒックシッ! ちくしょう~、鼻水が止まんね~ぞ」
「まったく、みっともない姿を晒しちまったもんだぜ」
「このまま風邪引いたら、俺らただのアホ丸出しだもんな」
面倒くさがりな体育教師もいなくなり、ほぼ自習のような授業の場となっていた体育館。
バスタオルに包まったままの拳悟に勝、そして拓郎の三人は後悔と愚痴を挟みながらくしゃみを連発させていた。さすがに今回ばかりは、調子に乗り過ぎたと反省しきりの彼らであった。
しゅんとしている三人のことをこれ見よがしに嘲笑する麻未。いじめっ子っぽく振る舞い、彼らのバスタオルを引っ剥がそうとしていた。
「日頃からの行いが悪いからそーなるの。バチが当たったんだよ」
「やかましい! 日頃からの行いをおめぇに指摘される覚えはねーぞ!」
クラス委員の二人が言い合いをしている最中、マット運動のノルマをしっかり終えた由美が唇を真っ青にした拳悟のお見舞いにやってきた。彼女の切なげな眼差しを見て、彼もただただ気まずそうに苦笑するしかない。
「いやはや、念願のプールに入れたのはいいけど、結果的に見学という悲惨な目に遇うとは」
「強引だったんですよ。気温も水温も、夏とは思えないほど低くなっちゃったみたいだし」
余談ではあるが、雨が降り出した午後の気温は十五度。水温もグッと下がり十度を下回らんばかりの冷たさだった。それでは彼らのみならず、強靭な肉体を持つ人間でも凍えてしまってもおかしくはないだろう。
いくら夏とはいえ、ちょっとした気象変化で寒暖の差が激しくなることを痛感したハチャメチャトリオにとって、今日という日が悪い意味でもお勉強になる忘れられない一日になったようだ。
授業終了残り一分となり、のんびり屋の体育教師が体育館へ戻ってきた。そのせいで屋外へ通じる扉が開け放たれてしまい、気温低下した冷風が否が応でも吹き込んでくる。
『ビエックシーッ!』
それは、同じタイミングで放たれた二つのくしゃみの音。
冷たい空気を全身に浴びた拳悟と勝の二人は、お互いの顔に向かってくしゃみの副産物である鼻水をぶっかけてしまった。
お見苦しい表現で申し訳ないが、顔中を鼻水だらけにして唾を飛ばしながら憤慨する拳悟と勝。もうすっかりお馴染みの光景だが、この二人の激しい口論の幕が切って落とされた。
「汚ねーぞ、おい、コラッ! てめー、何てことしやがるんだ!」
「てめーこそ、とんでもないことしやがって! ぶっ殺したろか!」
寒さなんてどこ吹く風と言わんばかりに、拳悟と勝の二人は取っ組み合いの喧嘩を始める。これには暴力が苦手な由美だけではなく、いつも仲裁役ばかりの拓郎もすっかり困惑顔であった。
「ケンゴさんとスグルくんって、仲がいいんだか悪いんだか」
「喧嘩するほど仲がいいっていうけどさ、コイツらの場合、それを超越した男臭い親密度すら感じさせるよね」
いつになったらプールで遊べるんだ!そんな切実なる怒号が飛び交う男臭い二人の殴り合いは延々と続き、休み時間すら通り過ぎて次の授業まで食い込んでしまうほどだった。




