六天星宮
◇ ◇ ◇
白亜の庭園を炎が舐めた。
獅子の赤いたてがみは、茨も樹々も、全てを等しく溶かした。
「『熾天を告げる輝槍』‼」
上空から翼を広げたイリアルが、炎に向かって幾万の槍を放った。
沁霊術式へ至った彼女の魔術は、これまでとはまさしく物が違う。格段に威力の上がった白槍は炎へと迫り、触れる前に掻き消えた。
「なっ――⁉」
空にいるのは彼女だけではない。
『大鳥の座』が翡翠の眼光を風に乗せて彼女を見ていた。
イリアルはその存在を認めた瞬間回避行動に移り、叩き落とされた。
既に彼女の周りには颶風の巣がいくつも渦を巻いていた。逃げ場などなくなっていたことに気付かず、嵐に突っ込んだのだ。
――『狩人の帳』。
落ちるイリアルの真下に、黒い矢が音もなく滑り込んだ。それは真っ黒な口を開けると、そのままイリアルを飲み込んで閉じる。
床に落ちる影を移動するネストは、烏から遠く離れた位置でイリアルを影から出した。
「うぐ‥‥かはっ!」
「無事、か」
「はぁ、はぁ――助かりました」
銀髪は血と土埃で汚れ、全身に裂傷が刻まれている。
イリアルの魔術、『白輳の翼』は自動で防御術式を展開する。そうでなければ、今頃サイコロよりも小さく刻まれていただろう。もはやあれは刃ではなく、やすりだ。
ネストは弓に矢を番えながら、影に沈む。
「正面からぶつからず、術師を狙う――」
斜め上から狼の顎が降ってきた。
翼を展開しようとするイリアルも、半身を影に沈めたネストも、気付かない。
二人がそれの存在を知覚したのは、ダイヤモンドの牙が閉じられる瞬間だった。
ガツン‼‼ と合わせられた顎は周囲の光すらも削り取り、一瞬の闇を生じた。
人など、原形どころか残滓すら残らない。
「馬鹿‼ 気ぃ抜くんじゃねえ‼」
寸前で二人を救出したコウガルゥが切羽詰まった声で叫んだ。
「選択を間違えるな! 死ぬぞ‼」
勢いのまま二人をぶん投げながら、コウガルゥは目の前の敵から目を離さなかった。
敵は烏と狼、獅子の三体だ。
どの敵も導書と遜色ないどころか、それ以上の力を持っている。
烏と獅子の攻撃は広範囲を殲滅する。軍を構えていれば被害は甚大だが、今回は少数精鋭だ。
その上こちらにはエリスがいる。
彼女の『願い届く王庭』が、攻撃を緩和してくれているおかげで、動きやすい。
厄介なのが、狼だ。
速く、突破力が高い。
奴にエリスを取られたら、この戦いは終わりだ。
『貪狼の座』は力場の塊だ。重力を駆使した移動は、コウガルゥ以外には対応できない。
『暴駆』の沁霊を顕現させているコウガルゥは髪を蒼銀に染め、『時の摩擦』によって超常のエネルギーを振るえる。
シキンすら一撃で消失させた攻撃を、狼には既に何発も叩き込んだ。
しかし狼は堪えた様子を見せることなく動き続けている。
火力だけではない。耐久さもイカれている。まるで大地を槌で殴り続けているような不毛さだ。
この化物たちを相手にしても意味がない。最優先で叩くべきは、ユリアス本人。
そんなことは分かっている。
それでも、
「クソが、近付けねえ――‼」
攻撃の圧が強すぎて、まともに距離を詰められない。
コウガルゥが今できることは、仲間たちを殺されないようにフォローに駆けることだけだった。
同時にコウガルゥ以上の負担を負う者がいた。
「――――っはぁ――‼」
肉体の限界を迎え、思い出したように呼吸をする。
エリスは充血した瞳から血を流しながら、レイピアを振るって魔術を奏で続けていた。
彼女が今行っているのは、ユースケの治療と敵の攻撃の防御、仲間たちの支援だ。
『大鳥の座』と『炎獅子の座』はどちらも単体で国を落とし、地図を書き換える。
エリスがいなければ、イリアルもネストも、既に三桁以上死んでいた。
毒を用いてバイズ・オーネットを倒した『願い届く王庭』だが、その強みは万能性だけではない。
三日三晩、魔王軍の攻撃から自軍を守り続ける持続力。
大鳥の座によって上空から吹きすさぶ死の風は茨の屋根で分散させ、炎獅子の座の炎は根を張り巡らせて押し潰す。
エリス自身の魔力だけでは足りない。茨は双方の攻撃から魔力を吸収し、庭園を維持する。
敵の魔力を己の魔力とする反則級の術式だ。
「はぁ――はぁ――‼」
それでも尚、彼女は限界の縁を渡り歩いていた。
個人が扱うには膨大すぎる魔力を回し続け、五感を超えて周囲の状況を探知し、それに合わせた術式を発動する。
一手一手が必殺の攻撃。ほんの少し判断を誤れば、ミスをすれば、誰かが死ぬ。
口の中は血の味が滲み、身体を動かしている感覚はない。
冷たい身体の中で、頭だけが熱をもって回転し、魔術を発動し続ける。
いつ倒れてもおかしくない状況で、エリスが戦えるのは、彼女を支えるのは、たった一つの思いだった。
――ユースケ。
彼が倒れていた。
――ユースケ。
間に合わなかった。
――ユースケ。
もう二度と離れないと。
――ユースケ‼
この奇跡を手放すものかと、そう誓ったのに。
「ぁぁあぁぁあぁあああああああああああああああ‼‼」
レイピアを振るう速度が上がる。炎を切り裂き、嵐を貫き、更に上がる。
一気に膨れ上がった『願い届く王庭』は、炎獅子の座と大鳥の座を茨で串刺しにし、縫い留めた。
「エリス‼‼」
コウガルゥが叫んだ。
今ここでやるのだと、彼も瞬時に理解した。
コウガルゥは戦いが開始してから初めて、足を止めた。そして――溜める。
誰よりも速く、その直線を駆け抜けるために。
天使の人型を舞い踊らせ、イリアルが槍を放つ。
「『裁定告げる真槍』‼」
同時に影から飛び出したネストが三本の矢を放った。
「『狩人の帳』‼」
歪でありながらも神々しい輝きを放つ白亜の槍が、その光の影に隠れるように三本の矢が、壁と立ちはだかる火焔旋風へと突き立った。
拮抗。
そして、嵐の中に人一人分の穴が穿たれた。
「――――」
ユリアス・ローデストへと至る一本の道が繋がった時、コウガルゥは地を蹴った。
『暴駆』。
力を溜めた足が、爆発した。
己の骨も肉も粉砕し、時を加速させる。
誰にも止められないその進撃に、一体だけが反応した。
貪狼の座が地球の重力を推進力に変え、割り込む。飛び込んでくるコウガルゥに向け、最強の牙を剥いた。
貪狼の座の身体は、それそのものが塵をダイヤモンドに変える程の高圧力の力場だ。
そこへ突っ込めばどうなるかなど、予想の必要もない。
「『暴駆』‼」
それに対し、コウガルゥはギアを上げた。
加速に加速を掛け合わせる。
そしてそのままに、貪狼の座の口目掛けて、拳を叩き込んだ。
轟ッッ‼‼
双方の衝突は、銀と金剛の粒子をばら撒いた。
狼の身体は周囲の茨と炎を丸ごと消し飛ばし、破裂する。
全身に牙を食らったコウガルゥは、残った足で地面を蹴飛ばした。
「がぁぁぁあぁああぁああああああああああああああ‼‼」
穴を抜け、ユリアスを眼前に捉えた。
両脚と、貪狼の座をぶち抜いた右手は使い物にならない。
それでも残った左腕を振り上げ、魔力を圧縮する。
その顔面を殴り飛ばす。
単純明快に最強な攻撃を前に、ユリアスは動かなかった。
動く必要がなかった。
「『角山羊の座』」
ユリアスのすぐ隣に、金の山羊が現れた。
加速した時間を進むコウガルゥに対し、完璧なタイミングで魔法を合わせたのだ。
それは大きく、更に体長の数倍はあろうかという曲がりくねった角を持つ山羊だ。
角が雷光を発し、爆ぜる音を響かせた。
音などより遥かに速く動いているはずのコウガルゥは、確かにその音を聞いた。
「金火倶雷――『天穿神槍』」
山羊の頭を、雷の槍が吹き飛ばした。
それは勇輔を片手に抱きかかえたまま、空に浮かぶ月子の一撃。
心臓マッサージを続けながら、同時に攻撃を放っていたのだ。
「――」
初めてユリアスが驚きに目を見開いた。
そして英雄は、その隙を逃さない。
「『暴駆』‼‼」
加速した拳が蒼と銀の尾を引きながら、ユリアスの顔を真っ直ぐに殴り飛ばした。
玉虫色の頭が吹き飛び、身体が宙を舞う。
「『白くあれ花茨』‼‼」
そこへ、歪に捻じれた茨の矢が突き刺さり、その内に秘めた魔力を喰らって爆ぜた。
その力を示すように、白い光は暁星のごとく全ての者のまぶたに焼き付いた。
それはまさしく戦いの終わりを示す凱歌の輝き――。
「素晴らしい力、美しい連携だ」
絶望の声が、入口から聞こえた。
「そんなっ――⁉」
「馬鹿な‥‥」
戦士たちの後ろ、皆が背を向けていたそこに、ユリアス・ローデストが立っていた。
傷どころか、息一つ乱さず、凛とたおやかに立っていた。
「今ので‥‥死んだはずじゃ‥‥」
震える声を絞り出したイリアルに、ユリアスは穏やかにほほ笑んだ。
「ああ、私は今間違いなく死んだよ。回避の隙すらなく、完膚なきまでに敗北し、殺された」
「では‼」
どうして生きている、と言葉は続かなかった。
「一度死んだ程度では、死ねない身体なんだ」
どこか自嘲するように、ユリアスは言った。
矛盾する言葉が、どうしてか事実だと腑に落ちた。
どさりと、何かが倒れる音が聞こえた。
「――――はぁ――ぁ――」
限界を超えて地面に伏したエリスが、爛々と深緑の瞳を輝かせてユリアスを見ていた。
もはや指一本動かす力も残っていないだろう。
それでも彼女の目は、喉を食い破らんとする意志に満ちていた。
その奥では、両手足から血を流すコウガルゥが倒れている。
もはや勝敗は決していた。
それでもユリアスは手を緩めない。それが四英雄への最後の手向けだと言わんばかりに、魔法を発動した。
「『六天星宮』」
獣たちの乱舞が、空間を洗い流した。
風が、炎が、大地が、雷が、樹々が、水が、混じり合い、絡み合い、全てを波濤の内に飲み込んだ。
◇ ◇ ◇
伊澄月子は動けなかった。
眼下を津波とも濁流ともつかない何かが押し流していくのを、ただ見ていることしかできなかった。
知らず、勇輔を抱く腕に力が込められていた。
「月子、その様子だと魔術が覚醒したね」
「ッ――⁉」
目の前にユリアス・ローデストが立っていた。
今の月子は『金火倶雷』を発動している。『届かない』という概念の上に立っているはずなのに、ユリアスは平然と彼女の前に立った。
しかし月子が驚いたのは、そのことではなかった。
この距離で、真正面からユリアスを見た時、そこに感じたのは恐怖ではなかったのだ。
――懐かしさだ。
似ても似つかない。
あり得ないのに、彼女はその呼び名を口にした。
「天涯、おじい様‥‥?」
死んだはずの当主の名を受け、ユリアスはよく見た笑みを浮かべた。
そうまるで、孫娘を見るような柔らかな笑みを。
「やはり君の才能は私の血筋の中でも、一際輝いている。まさか本当にここまで来れるとは、思っていなかったよ」
「‥‥そんな、どうして‥‥」
ユリアスの言葉が、暗に月子の言葉を肯定していた。
ユリアス・ローデストは、伊澄天涯である。
そんなはずがないと頭の中の冷静な部分が叫んでいるのに、もっと別の奥深く、本能が語っていた。
目の前の人間が、自分と血を分けた肉親であると。
「元々伊澄家は、日本で活動するために興した家なんだ。随分と居心地が良くて、長く一か所に留まってしまった」
ユリアスは懐かしむように言った。
「月子、君は伊澄の家でも特別だ。『昊橋』が発動した後の世界には、一人でも多く優秀な魔術師が必要だ。日本を支え、良き未来に導けるのは、君を置いて他にいない」
「そんな、そのために、私を‥‥」
握った金雷槍が、途端に冷たくなっていった。
魔力が重く淀み、回らない。
脳裏に駆け巡る、幼少の記憶。厳しい鍛錬の中でも、確かに感じていた天涯の愛情。
それが全てまやかしだったと、作り物だったのだと、頭が理解し始める。
そこへ、甘いささやきが滑り込む。
「月子、私ならユースケも蘇生できる。今より不自由な身体にはなるだろうけれど、君と共に暮らす分には問題ないはずだ」
「――‼」
腕の中で冷たくなっていく勇輔の感触に、心臓が跳ね回る。
たす、かる。
勇輔が、助かる。
それはあまりに甘美な言葉だった。
彼と二人で幸せに暮らすことができれば、それ以上は望まない。それが、願いだった。
「さあ、月子。共に昊橋を掛ける時だ」
差し出される手に、手を伸ばす。
勇輔が、最愛の人が助かるのなら、月子は――。
『私は‥‥私は、もうあなたに傷ついてほしくないの。それが我が儘でも、結果的に勇輔と離れることになっても、それでも』
『私の、大事な人だから』
倒れた勇輔の姿が、フラッシュバックする。
もう二度と傷つけさせないと誓った彼が、ぼろぼろになって倒れていた。
それをしたのは、ユリアスだ。
バチィッ‼ と金雷が走り、ユリアスの手を弾いた。
「‥‥それが、答えかい?」
「黙りなさい。私は人類の守護者よ。敵と手を組んだりはしない。何より――」
月子は顔を上げた。
絶対に勝てないと思っていた相手の目を、真正面から見据えて言う。
「大切な人を傷つけた手を握れるような女じゃないわ‼」
カッ‼ と万雷が咲き乱れ、ユリアスへと殺到した。
その中でも、彼はほほ笑んでいる。
分かっている。
勝てないってことくらい。
それでも、引けない。
「はぁぁぁああああああああああああああ‼」
魔力が稲光となって爆ぜる。
眩い光の中で、ユリアスが手をかざした。考えるのが馬鹿らしくなるほどの魔力が、収束する。
「『六天星宮』」
神の魔法を前に、月子は目を閉じなかった。せめて最後まで戦おうと、雷を放ち続ける。
そんなものは意にも介さず、天地創造の波が迫った。
月子は目を開けていたからこそ、その瞬間を見た。
「――――え」
ユリアスの魔法が、月子の目前で止まった。
まるで何かに遮られるかのように、うねり、叩き、壊そうともがき、行き場を失って流れていく。
光が照らしだすのは、まさしく黄金の城。
術師の信念を表すかのように、何よりも強固な壁。
『聖域』である。




