起動
◇ ◇ ◇
そこに木霊した声は、慟哭と一言で表すには切実で、生々しい、痛みの叫びだった。
「――――ぁぁあああぁあぁあああああああ‼‼」
掠れ切った声が、喉を引き裂いて吐き出される。滂沱の涙が机に叩きつけられた拳に滴り、落ちていく。
リーシャは叫んだ。
「ぁぁ、ぁああ――‼ カナミさん‼ どうしてみんな‼ どうして――‼」
皮膚が裂けた拳から血が飛び散り、それでも円卓を叩く手は止まらない。
「動いて‼ 動いてください‼ 私を、私も――‼」
どれだけ叫び、暴れようと結果は変わらなかった。
円卓は優しく、冷たく、リーシャを抱きかかえたままだ。
各空間の戦いは全て終結し、リミットであった一時間が過ぎた。
つまりそれぞれの空間は消失したのだ。
そこに何があったのか、誰が残っていたのかなんて、何の関係もなく。
空に映し出された映像は、はらはらと光となって舞い散った。
カナミ・レントーア・シス・ファドル。
陽向紫。
シャーラ。
ノワール・トアレ。
セバス。
ジルザック・ルイード。
バイズ・オーネット。
導書。
全て消えた。
消えてしまった。
「うぅううう‼」
胸がよじれ、心臓を握られるような痛みにリーシャは呻いた。
見ていることしかできなかった。どうすることもできなかった。
皆が戦い、傷つき、倒れていくのを、血を飲んで眺めることしか、彼女には許されなかったのだ。
他にできるのは、この場で無意味なあがきをすることだけだった。
そしてそれはリーシャ以外も同様だった。
「‥‥馬鹿が」
メヴィアは顔を押さえ、そう吐き捨てるように言った。それは侮蔑ではない。痛みと苦しさに耐えかねた言葉だった。セバスはメヴィアが物心ついた頃から聖女の守護をしていた。
聖女はその力から無法者だけでなく、法を利用する者、操る者たちからも狙われ続ける。
そんなメヴィアを表裏問わず守り続けたのがセバスだった。
彼の最期は彼らしいものだった。
同時に戦友であったシャーラも失った。
シャーラと旅をした期間は短い。勇者パーティーの中でも、最後に合流したのが彼女だ。
そんなシャーラが、メヴィアにはいつも眩しく見えた。聖女としての資質を持ちながら、教会に囚われることのない立場。どんな悪意も、自ら打ち破れるほどの力。
そして大切な人に好きだと伝えられる素直さ。
全て自分にはないものばかりだった。
そんなシャーラが消えた。最後の最期まで、好きな人のために戦って。
自分には一生許されない、美しく儚い終わりだった。
「――くそ!」
どうして死んだ。
生きてさえいれば、どんな怪我だって治すことができたのに。
そう思いながら、結局メヴィアもリーシャと同じように動くことはできない。どれだけ魔力を燃やし、想いを込めようと、癒しの剣は届かないのだ。
その中で一人、シュルカだけが小さくため息を吐いた。
「残念ね。あの子たちは、誰も残らなかった」
端的な呟きにどれだけの思いがあったのか、近くにいた櫛名にも分からなかった。
バイズ・オーネットの死に茫然自失となったフィオナは、その言葉が聞こえてすらいなかった。
「あまり嘆いてもいられないわ。勇者は既にユリアスと戦い始めた頃でしょう。私たちの行く道も、もう終わりが見えてきたわ」
「‥‥おいシュルカ、一つ教えろ」
「何かしら?」
名前を呼ばれ、シュルカはメヴィアの方を見た。
流石数多の修羅場を潜り抜けてきた聖女と言うべきか。砕けそうな精神を気力で支え、気丈にもシュルカを睨みつけてくる。
「空間が消えたら、魂はどうなる?」
アステリスにおいて、人の死とは消失とイコールではない。肉体は朽ち、魂は信仰する神に召し抱えられると信じられているのだ。神の下に行けなかった哀れな魂だけが、冥界へと落ちるのだ。
ではこの空間で死した者たちはどうなる。地球でもアステリスでもないここから、神の下へ辿り着けるというのか。
シュルカは「そんなこと」とつまらなさそうに答えた。
「消えるでしょう」
「魂も、空間と共に消えるってことか」
「行き場がないもの。私の目でも魂そのものを視認することはできないから断言はできないけど、当たり前に考えればその結末が妥当でしょうね」
淡々と告げられる事実に、メヴィアは押し黙った。
せめて魂だけでもという思いは、非情な現実を前に墜落した。
「そんなことに心を配っている余裕はないでしょう」
「――何だと?」
「大切なのは死んだ者ではなく、生きている者たちよね。戦いはここからが本番。時間も多くは残されていないのだから、泣いている暇があるなら目を逸らさずに見なさい」
シュルカが叩きつけたのは正論だった。鋼のように人の心を突き刺して抉る。
同時にある言葉が心に引っかかった。
「時間が残されていない?」
「私たちはこの『昊橋』の最後のピース。そして魔術は既に発動しようとしているのよ」
その言葉を待っていたかのように、円卓の間に光が走った。
複雑な魔法陣だ。それもただ壁面に描かれるだけではない。光にうっすらと照らされた壁の奥には、更に何重にも魔法陣が組み合っている。
それが明滅し、脈動している。
まるで人の身体を巡る血管のように、人工では決してなしえない密度と複雑さだ。
円卓にも光が描かれ、淡い光を放つ。
櫛名やフィオナも初めて見たのだろう、驚きに目を見開いた。
その中で、ネストの安全を祈り続けていたベルティナがあることに気付いた。
「ねえ、これ、待って! 光が手に!」
「何?」
そこでメヴィアやリーシャも気付いた。
魔法陣の光が円卓を辿り、自分たちの手にも昇ってきているのだ。
「‥‥これが、ピースってことか」
「ええ、そういうこと。私たちに時間が無いと言った理由が分かったでしょう」
「この光が全身を回ったら、私たちは晴れて魔法陣の一部になるってわけだ」
「このペースならもう一時間もないでしょうね」
そこでシュルカは円卓の間にいる一人一人の顔を順に見ながら、歌うように言った。
サーノルド帝国の隠された姫君、フィオナ。
「空間の力、『我城』」
深い森に守られた少女、ベルティナ。
「時間の力、『新月』」
姉と共に教会に救われた修霊女、ユネア。
「沁意の力、『霊廟』」
教会の守護を担う聖女、リーシャ。
「守護の力、『聖域』」
勇者と共に魔王と戦った聖女、メヴィア。
「治癒の力、『天剣』」
シャーラから力を簒奪した魔術師、櫛名命。
「開門の力、『冥開』」
そしてユリアスと共に新世界を作り上げた少女、シュルカ。
「見聞の力、『汪眼』」
自身の胸に手を当て、シュルカは零れそうな言葉を押しとどめた。
そしてゆっくりと顔を上げ、口を開いた。
「初代聖女リィラの残した魔術の欠片が、今ここに全て集った。私がユリアスと出会ってから三千年。この時が来るのをずっと待っていた」
この世で唯一ユリアスだけが知る真実を、シュルカは紡いだ。
「私はね、あなたたちとは生まれた時代が違う。もっと魔術が煩雑で、文明も停滞した暗黒期。人族が魔族に負けた時代」
「――何年前の話だ。魔族に負けた時代なんて、歴史書でしか聞かない話だぞ」
「さあ? もうそれがどれだけ前だったとか、どう時代が変わったとか、そんなことはどうだっていいの。私はその時代、ある研究の実験体だった」
「実験、ですか――?」
目を赤く腫らしたリーシャが、聞き慣れない言葉に問うた。
シュルカは目を細めた。どこか遠い、もう見えなくなったものを懐かしむように、あるいは掠れた記憶を忘れないように。
「魔族に押されていた人族――教会は戦争に勝利するために禁忌に手を染めた。保存された聖女の血を使って、適性のある少女を人為的に聖女にしようとしたのよ」
「そんな、そんなことあるはずがありません!」
そう叫んだのはユネアだった。
「教会は力なき者の庇護者です。そんな人道に反する行いを率先して行うなど、あり得ません!」
「純真ね。綺麗な水で育ってきたことは悪いことではないわ。でもね、綺麗な水を作るためには、汚れた水ができるものよ。あなたもよく知っているでしょう?」
問われたメヴィアは、口を噤んだ。その沈黙が何よりの証左だ。
聖女として高い地位にいたメヴィアは、勇輔の呪いを解くために教会が秘蔵する文書を、非合法なやり方で読んだことがある。
そこには教会が長い歴史の中で積み重ねては灰にしてきた黒い歴史が、ひっそりと書かれていた。まるで教会の中でさえも居場所がないように。
「研究の過程で起きた事故で、私はこの地球に飛ばされ、ユリアスに拾われたの。今更復讐だとかそんなものに興味はないけど、世界は変わらなければいけないと、そう思う」
光に食まれた手を、シュルカは愛おし気に撫でた。
「長い歴史の中で歪んでしまったものは、どこかで正さなければならない。ごめんなさいね、そのために私と一緒に人柱になってちょうだい」
きっと彼女は一度死んでいるのだと、その顔を見たリーシャは自然に思った。
どんな実験が行われていたのか、想像することしかできない。
ただ間違いなく、その時シュルカは一度死に、今のシュルカが生まれた。
だから命に執着しない。
世界を変えるという目的だけが、存在理由なのだ。
シュルカの視線につられて、全員が上を見た。
オーロラが揺れ、一つの映像が映し出される。
最後の戦い。
裁定を制した戦士たちの集う運命戦が、始まろうとしていた。
「ユースケさん」
その後に続く言葉は祈りか、誓いか。
ただ思いは遠く、オーロラの影に隠れて消えるようだった。




