棍対拳 三
◇ ◇ ◇
コウガルゥたちが戦った空間は他の場所と違い、広さを削った代わりに頑強に作られている。そんな木造の部屋は、ひび割れ、砕け、崩れていった。
その下から現れたのは、真っ黒な壁だった。
先に進む扉だけを残し、床も壁も黒く染まったそこで、勝者と敗者が決した。
「凄まじい。天駆ける彗星の如き一撃よ」
シキンが驚嘆の呟きを漏らす。
『百錬轟大砲』を打った右腕は、完全に消失し、再生する兆しもない。
しかし立っている。両足で黒を踏みしめ、立っているのだ。
彼が見つめる先には、コウガルゥが大の字で倒れていた。
全身から血を流しピクリとも動かない。半ばから粉々に砕けた棍が離れたところに落ちている。
百年という時の修練を消費した『百錬轟大砲は、普通の魔術師からすれば、命を懸けた攻撃に等しい。
コウガルゥが打ち負けたのも当然と言えた。
――身体、痛ぇな。
動こうとしない手足に力を込めながら、コウガルゥは細い意識を保っていた。
生きていたのは、棍がシキンの攻撃の大部分を受けてくれたからだ。
あれを正面から受けていれば、今頃自分の身体は雲散霧消していただろう。
こうして真正面から力でねじ伏せられ、絶体絶命という言葉を脳裏に刻まれるのは、いつぶりだろうか。
いつの間にか、それを懐かしいと思う時が来てしまった。
幼い頃はそれが当たり前で、大森林の国で王となった時でさえ、命の危機は珍しいことではなかった。
彼の一族はアステリスにおいて多くの場合、人族とも魔族とも呼ばれない。神を否定する蛮族だ。
古く、人族と魔族が袂を分かった頃、コウガルゥの祖先は人族の国で大罪を犯し、国外追放に合ったと言われている。
王家の口伝に曰く、女神は神ではないと、そう主張したそうだ。
正直な話、そんなことに興味はなかった。
森林の外に出なければ、迫害もない。人族だ魔族だとしょうもない戦いに巻き込まれることもない。
興味があるのはただ一つ、大森林の最奥に何があるのか。
自分たちはどんな世界で生き、戦っているのか。
それだけだった。
『力を貸してほしい、森の民よ』
そんな世界に、外から突如として切り込む者がいた。
外界の者ではまともに歩くこともできない森を、剣一本で進み、国に辿り着いたのだ。
彼は自分を勇者であると名乗った。
それが、コウガルゥと山本勇輔の出会いだった。
男同士の友情を今際の際に回想するなんて心底から御免被る。
「――ほう、まだそんな力が残っていたか」
コウガルゥは立ち上がっていた。
いつどうやって立ち上がったのか、どこにそんな力があったのか、自分でも分からない。
それでもそうしなければならないと、魂が鼓動を打っていた。
神魔大戦に参加するなんて、馬鹿げた話だ。はるか古代に、そういったしがらみから抜け出し、自分たちの一族は森で暮らすことを選んだのだ。
そう言ったコウガルゥに対し、勇輔はこう返した。
『コウガルゥ、俺は自分の祖先が何だったのか、何をしていたのかも知らない。知ろうと思ったこともない。お前の人生はお前が決めるものだろう。外の世界を見て、この森に帰ってくる、そういう選択肢があってもいいんじゃないか』
詭弁だ。
『俺が言うんだから間違いない。世界は広く、驚きに満ちている』
そう分かっていながら、その言葉に心躍った。
だから最後は殴り合いで決めた。勇輔の言葉が本当ならば、彼の拳は自分にはない重みを持っているはずだから。
「――――」
自分の中で眠っていた魔力が、胎動した。
普段は黒い魔力の内側で静かに横たわっているそれは、今この時になって起きる。
コウガルゥは自分の中にありながら、その力を使うことを忌避する。自分でさえも分からない次元にあるものだから。
いつだったのかも覚えていない幼少の頃。
訓練で大森林を探索していたコウガルゥは、大人たちとはぐれ、魔物はびこる樹海を一週間歩き続けた。
そうしてある時、彼はそこに辿り着いた。
夜だったと思う。明かりがなかったから、そう感じているだけで、あるいは昼だったのかもしれない。
とにかくコウガルゥの目前には巨大な湖が広がっていた。
藍色の、深く、どこまでも透き通っている湖面の奥で、いくつもの星が瞬いていた。
その無数の光点が何だったのか、見定めることはできなかった。
――――ぬらりと。
湖の奥で、白い影が揺らめいた。
幻想ではない。
湖面が静かに波打ち、星々が陰る。
白い影はどこまでも続き、どこまでが身体でどこからが尾なのかさえ判然としない。
途方もない大きさの存在を見た時、コウガルゥは『神』という言葉の意味を初めて理解した。
森の深奥に住まうとされる『極龍』とは、彼の者のことなのか。
気付けば、彼は大人たちに囲まれて森の中に倒れていた。
誰もあの湖のことは知らなかった。
幾度となく探し、結局今の今まで見付けることはできていない。
あの時から、コウガルゥは己の奥底に、似た影がとぐろを巻いているのを感じていた。
ここにいるのが、自分だけで良かった。
心底そう思う。
「――沁霊、顕現」
こいつは、敵味方など関係なく、蹂躙してしまう。
「『暴駆』」
コウガルゥの髪が蒼銀に染まった。
永遠を象徴するような蒼の中で、銀の光がきらきらと舞っている。
どこまでも美しく、暴れ、狂っている。
暴威の化身だ。
「――それが、真の力かコウガルゥ」
驚きに満ちたシキンの声に、コウガルゥは答えなかった。
答えられなかった。
意識が朦朧として、自分が自分ではなくなっていく。
ただどんな暗闇の中でもすべきことは明確だった。
――――前へ。
――前へ。
前へ。
足が黒い床を踏みしめ、倒れるようにして一歩目を踏み出す。
それが魔術の始まりであると、シキンは直感した。
大仰な仕草も、魔力の圧縮もない。
死にかけの男の、最後の一歩だ。
それを見た瞬間、土地神さえ相手に戦ってきたシキンは、感じたことのない圧に震えた。
震え、奮わせ、叫んだ。
全身全霊を掛ける時が来たのだと。
「『九百錬轟大砲』‼」
身命を賭して残った左の拳を振るう。
彼はもはや己が生に未練はない。死の苦しみに囚われた妻も、子も、主が救うだろう。
自分にすべきことは、この男をここで打ち倒すことだ。
シキンという男が積み重ねてきた修練がたった一つの拳となり、一歩目を浮かせたコウガルゥへと迫った。
九百年が鼻先へと至る瞬間、コウガルゥの足もまた、地面に触れた。
――刹那、勝敗は決した。
まさしく、刹那である。
コウガルゥもシキンも互いにその瞬間を認識しなかった。
コウガルゥの『暴駆』は森羅万象を加速させる。蒼銀の沁霊は、コウガルゥの時間を加速させた。
寿命という概念を無視し、永遠にも思える時間をこの刹那に圧縮した。
これがもたらす現象は、ただ速く動けるというものではない。
周囲の時間と加速した時間。そのずれは、とてつもない摩擦を発生させる。
そこから生まれるエネルギーは、不可思議と言うほかない。
コウガルゥとシキンは示し合わせたように真っ直ぐ拳を振るい、コウガルゥだけが、振りぬいた。
「――――」
勝者として扉の前に立ったコウガルゥが振り返った時、黒い空間には銀の煌き以外、何も残ってはいなかった。
夢幻の超越者は、儚く散ったのだ。
「――その称賛、有り難く頂戴しよう」
舞い落ちる幻想を後に、コウガルゥ・エフィトーナは扉を押し開いた。




