君としたかったこと
◇ ◇ ◇
ぼふん、と空から落ちた俺は、柔らかな感触に受け止められた。
淡い色の花びらが舞い上がり、重力を思い出したようにひらひらと降りてくる。
俺の足元にだけ花畑が広がり、クッションになってくれたらしい。
既に魔力は尽き、『我が真銘』も解除されてしまっている。これがあったおかげで、余計な怪我をせずに済んだ。
誰がこれを用意してくれたのか。考えただけで心臓が早鐘を打ち、血が音を立てて全身を駆け巡る。
その時、通信機からノイズ混じりの声が聞こえた。
『‥‥ユー‥‥。ユースケ様。聞こえますでしょうか』
「あ、ああ。カナミか。聞こえるぞ」
『良かったですわ。こちらは、月子様の安全を確保いたしました。それ以外の皆様も無事でございますわ』
「そうか――。よかった」
助けに行けなかったことがずっと気になっていた。イリアルさんたちに頼んでおいてよかった。
周囲を見回すと、領域が光の破片となって崩れていくところだった。完全に自己崩壊するよりも先にテュポーンを斬ったので、榊綴は死んではいないだろう。
しかし今の俺にはそれを探すだけの余力は残っていない。
どちらにせよ、これだけの無茶をしたのだから、しばらくは何もできないはずだ。
『‥‥また、後ほど』
カナミはそう言うと、通信を切った。
もう今の俺にできることはない。
だから、少しだけ。
少しだけ時間が欲しい。
不安と希望が入り混じった数秒が過ぎ去り、その時は来た。
破れた朱のドレスをなびかせて、全身で荒い息を吐きながら、彼女はそこに現れた。
久しぶりに見た彼女の顔は、煤と砂ぼこりに汚れ、玉のような汗がにじんでいた。
それでも彼女は綺麗だった。
零れ落ちる魔力の光よりも、思い出したように降り注ぐ日差しよりも、彼女は輝いて見えた。
俺が知る顔よりもさらに大人びて、少女らしい可愛らしさから、女性らしい美しさに磨きがかかっている。
あの時から変わらない、燃えるような緋色の髪が、きらきらと光の粒子を風に乗せて揺れた。
エリス・フィルン・セントライズが、そこにいた。
「 」
言葉を出そうとして、何も出ないことに気付いた。喉が渇いて、声にすらならない。
そもそも俺は何を言おうと思ったのだろうか。
彼女に何と声を掛けるべきなんだろうか。
別れを告げられた湖畔で、俺たちの関係は一度終わった。
そのことに対して怒りを覚えなかったと言えば、嘘になる。
けれどそれは俺を救うための苦渋の決断だったと、コウに聞かされた。
どうして話してくれなかったのだろうと思い、彼女の徹底した優しさに、打ちひしがれた。
俺は気付けたはずだ。
もっと彼女のことをよく見ていれば、彼女が抱えた苦悩と、痛みに気付いてあげられたはずなんだ。
しかしあの時の俺は自分のことばかりで、それに気付けなかった。
ならば謝ればいいのだろうか、感謝を伝えればいいのだろうか。
目の前の彼女を見て、そんな考えは頭の中から吹き飛んでいた。
今求められているものは、そんなものじゃない。そう、感じた。
「――――」
その時、驚くべき姿が見えた。
彼女の大きな深緑の目から、涙が零れ落ちたのだ。
声はなく、目をつむることもなく、ただ俺を見つめたまま、彼女は泣いていた。
そして、力を失ったようにその場に膝を着いた。
舞い上がった花びらがゆらゆらと踊る。
彼女は決して目を逸らさなかった。
ただその真摯な瞳が、大粒の涙を流しながら、俺に何かを伝えようとしていた。
どんな声を掛けるべきかと悩んでいたのが馬鹿だと思えるくらい、俺は自然と一歩を踏み出していた。
今の俺たちは、きっとどんな言葉を、どれだけ重ねても、この気持ちの一欠片だって伝わらない。
歩き出して、想像よりもずっと自分の身体に力が入らなくて、俺は数歩をつまずきながら歩き、最後には倒れるようにして彼女の下に辿り着いた。
「ぁ――」
そして。
魔王を倒し、勇者の呪いに自分を見失っていたあの時、彼女がそうしてくれたように、俺は彼女の身体を抱きしめた。
子どもの頃から追いかけ続けた彼女の身体は、思っていたよりもずっと華奢で、力を入れたら壊れてしまうのではないかと思えた。
それでも、優しく、力強く抱きしめる。
あるいはそうしなければ、俺自身が不安だったのかもしれない。彼女がまた消えてしまうのではないかと、全身でその存在を感じる。
体温を感じる。
鼓動が聞こえる。
触れられる。
「っ――‼」
彼女が、ここにいる。
ゆっくりと、俺の背中に彼女の手が回り、強く抱きしめられる。
首筋に熱い感触が広がった。それが彼女の涙だと気付いた時、俺もまた泣いていた。
「ぅっ、ぁあ、ああぁ」
嗚咽が零れ、どうにもならなくなった。
忘れようとした。
違う人生を生きようとした。
けれど心のどこかでそれはずっと涙を流したまま、消えることなくそこにいた。
エリス。
エリス。
ずっと君に会いたかった。
ずっと、こうしていたかった。
涙に溺れ、何も見えなくなって、それでも俺たちは手を離さなかった。
失った時を二人で数えるように、俺たちはいつまでもそうしていた。




