運命回る偶像庭園
地上にいるありとあらゆる存在が動きを止め、空を見上げていた。
現実感を忘れた巨体は、そのままゆっくりと降下し、領域の全てを見下ろせる位置で止まった。
ただそこにあるだけで、膝を着きそうになる。見ているだけで、意識が遠のく。
エキドナとは比べ物にならない圧が、身体どころか魂までをも押し潰す。
魔力が上手く回らない。冷たくなった血のように、淀んでいくのが分かる。
テュポーンは目だけを回して地上を見回すと、ビルをつまめそうな指をたたんで、手を握りしめた。
「『――⁉』」
直後、魔力が天を鳴動させた。
ただ魔力を動かしただけ。ただそれだけで、世界そのものが揺れた。
テュポーンの内側から炎が巻き上がり、頭髪のように、衣のように巨体を覆った。
白い肌には熱い血潮が流れ、命が目を覚ます。
今、起きたのだ。
あの存在感でこれまでは眠っていたというのか。
イカれているにも程がある。
しかしテュポーンの動きはそれだけに留まらなかった。
彼の逸話を知る者がどれほどいるだろうか。
様々な話が残されるギリシャ神話体系だが、一説には、主神ゼウスを正面から打ち負かし、封印にまで追い込んだとされる。
使うのは、炎。
「dczeoiayutoiwfaeoinasoetaywoeitaha」
テュポーンが胴体を反らし、首を持ち上げた。ちょうど真下の地上に顔を向けるように。
そこへ一気に魔力が集まる。
ゾッ‼ と血の気が引いた。
「『カナミ! カナミ聞こえるか‼』」
『――は、はい‼ 聞こえますわ‼』
「『今すぐリーシャに全力で聖域を強化させろ‼ 全力でだ‼』」
月子と、コウは、無理だ。今の俺じゃどうにもできない。
密度が高すぎて、『星剣』での分解も不可能。せめて威力を減衰させる。
『無限灯火』を再度発動させ、深紅のコートを身に纏う。
全力だ。『我が真銘』からこの瞬間、できうる限りの魔力を引き出し、操作する。この後のことなど考えるな。
歯を食いしばり、怒涛と押し寄せる魔力を強引に身体に回す。
口の中に血の味がにじみ、頭が破裂しそうな程に痛む。
紅い魔力が腕を伝ってバスタードソードへ、螺旋状に絡みついた。
テュポーンがそれを完成させるのと、俺が技を放つのは、ほぼ同時だった。
その瞬間、世界を震わせる響きが明確な音となって聞こえた。
『神の炎』
「『嵐剣ァァアアア‼』」
煌、と輝く小さな太陽に向けて、俺は全力で剣を振った。腕が千切れ飛ぶ勢いで、何千、何万、何億と斬撃を放つ。
頼む、止まれ。止まってくれ。
しかしそれらは息吹の前の木くずのように、吹き飛ばされた。
「『ぁ――』」
光の波が炎を伴って、地上に広がった。
次に訪れたのは衝撃と熱の波濤だった。
着弾地点から炎があらゆるものを飲み込み、人も、モンスターも焼き尽くして広がっていく。
思考が停止していたのは一秒にも満たない間だった。
止まっている暇はない。
剣を振るい続け、少しでも炎の勢いを削れ。一人でも多くの人を、守れ。
どれ程の間そうしていたか。
永遠にも思える一瞬を駆け抜け、もはや腕が上がらなくなった時、目の前に広がっていた光景は、地獄だった。
「『はぁ‥‥はっ‥‥ぁ‥‥』」
視界に映る何もかもが、赤く染まっていた。
街並みという街並みが、炎に巻かれ、黒煙をもうもうと上げて燃えている。
テュポーンの真下には、そこに何かがあったという痕跡すらなく、ただ白熱する溶岩だけが残されていた。
「『は‥‥ぁっ‥‥』」
今の一撃で、何人が死んだ。
俺はどれだけの人々を守れなかったんだ。
見ている光景が、二つにぶれ、重なった。
それはアステリスで何度も見てきた光景だった。魔族の侵攻に間に合わず、あるいは奇襲を受け、街は悲鳴と怒号に沈んだ。
どうする、どうしたいい。
迷っている間に、いくつもの命が手から零れ落ちていく感覚。
そうしている内に、炎の中から新たなモンスターたちが姿を現すのが見えた。
テュポーンに、地上のモンスターたち。
どこから対応すればいいんだ。
コウの沁霊術式は――駄目だ。あいつの魔術は本質的に守ることには向いていない。下手をすれば被害が拡大する。
頭では分かっているのだ。
このテュポーンは終わりをもたらす存在。
時間が経てば、領域もろとも崩壊して消え去るだろう。つまり俺が今すべきことは、月子を連れてリーシャたちを守ることだ。
見たところテュポーンは俺たち個人ではなく、領域内の全てに攻撃をしている。リーシャたちを守るだけならば、何とかなるだろう。
崩壊までは目前だ。
それが分かっていながら、脚が動かない。
俺たちの戦いに巻き込まれた人々を、勝手な都合で見捨てるのか。
そんな人間が、リーシャを守るだとか、神魔大戦を終わらせるだとか、言えるわけがない。俺が口にした言葉は、もっと重いはずだろう。
この程度の障害に下を向いてはいられない。
すぅ、と息を吸い、吐く。
――榊綴。
お前が必死の境地をもって敵となるのであれば、俺も同等の覚悟を見せよう。
感覚がなくなった手に魔力と力を込め、再び剣を強く握り締める。
地獄がなんだ。それを繰り返させないために、俺はあの日、剣を取ったんだろう。
「『カナミ』」
通信機に呼びかけるが、魔道具そのものが壊れたのか、あるいは炎によって魔術が妨害されているのか、通信がつながることはなかった。
それでも彼方にリーシャの魔力を感じる。彼女たちなら、大丈夫だ。
「『‥‥』」
顔を上げ、空に鎮座するテュポーンを見る。
『無限灯火』は既に解除され、残されたのは鎧と剣だけ。
それでもいい。やるべきことは一つだけだ。
一刻も早くテュポーンを斬り、その後で下のモンスターたちも撃滅する。
俺は一歩を踏み出そうとした。
その時、声がした。
懐かしく、頼もしい、あの声が。
『ユースケ、あなたは希望よ。何よりも輝く私たちの一等星』
それは聞こえるはずがない声だった。
思わず後ろを振り返るが、当然、そこには誰もいない。ただ燃える街が広がるだけだ。
「『‥‥は、はははは』」
榊があんなことをしたせいだろうか、それとも知らず知らず心が臆していたのだろうか。
こんな窮地の時、彼女はいつも俺の背中を押してくれた。
俺の進むべき道を指し示してくれた。
君がここにいてくれたなら、どれ程心強かっただろうか。
小さく零れた笑いを噛み締め、前を向く。
彼女はもういない。
誰よりも誇り高く、誰よりも優しい彼女に笑われないように、俺も信念を貫き、戦おう。
「『行ってくるよ、エリス』」
小さく呟いた言葉は、誰に宛てたものでもなかった。
あるいは届くことがないと、知っていたからかもしれない。
それは炎の中に落ち、一人消えゆく運命にあった。
そう、そうなるはずだった。
誓いに応えるのは、純白の光。
炎の中から溢れ出すそれは、生命の鼓動。
「沁霊術式――解放」
今度は、明確に聞こえた。
何度も、何度も。あと一度でいいから、聞きたいと願った声。
純白の光は、優しく、力強く、破壊の領域を包み込む。
第一次神魔大戦において、幾度となく勇者白銀を救い、導いてきた魔術。
命あるものに救いを。
命奪うものに茨の棘を。
「『願い届く王庭』」




