怒り
◇ ◇ ◇
榊綴は山本勇輔を目の前にした時、得体の知れない雰囲気を感じた。
エキドナを倒したことには驚いたが、あのシキンをも打倒した男だ。土壇場で強い力を発揮する魔術師は往々にして存在する。
しかし山本勇輔から感じるそれは、そういった強者のものとはまた違っていた。
だからかは自分でも分からない。
とにかくここで倒しておかなければならないと、直感した。
『こういうやり方を、取るしかない』
その言葉に呼ばれるように、一人の女性が榊と勇輔の間に立った。
鮮烈な緋色の髪をなびかせるのはその女性は、圧倒的な存在感で全ての視線を集めた。
榊が用意したのは、エリス・フィルン・セントライズという切り札だった。
もちろん本人ではない。
榊が『妖精の落書き帳』で作成したキャラクターである。
しかし本物ではない、というだけだ。
新世界には流転という魔族が所属している。彼はアステリスでの様々な出来事を記録し続けていた。
当然、勇輔やエリスについても詳細な記録を持っていた。
榊は己の持てる技術と経験、時間を使ってエリスを描き上げた。
故にこのエリス・フィルン・セントライズは、本人と変わらない肉体、精神、力を有している。
榊の魔術について理解していれば、エリスが本人でないと気付くこともできるだろう。
しかし気付いたところで、どうすることもできない。
その人への思いが強ければ強い程、攻撃の手は鈍る。頭で分かっていても、心が拒否をする。
そうなれば魔術など形無しだ。
そしてこのエリスは本人と同等の力を持っている。戸惑い力を失った山本勇輔を殺すなど造作もない。
こういうやり方は好きではなかったが、目的のためならばそんなこだわりは捨てよう。
あとは見ているだけで終わる。
エリスが勇輔を見つめ、歩き始めた。
アステリスでは縮まることのなかった距離が、静かに、着実に短くなっていく。
彼女は深緑の目で勇輔を見つめて、その名を呼んだ。
「ユース――」
紅い光が世界を照らし、エリスは最後まで言葉を紡ぐことなく消えた。
髪の一本、ドレスの一片、何一つ残らない。
文字通り、居たという余韻すら残さず、彼女は消失した。
「っ⁉」
その時榊は見た。
剣を振り上げたまま、深紅の眼光でこちらを見る勇輔の姿を。
刹那、脳が理解を超えて直感する。
――失敗した。
今自分は竜の尾を踏んだのだ。尾の先からこちらを見る瞳は、想像の何十倍も大きく、怒りに満ちていた。
その考えが頭に浮かんだ瞬間、榊は吹き飛ばされた。
「ぅぐっ⁉」
空と地面が連続で入れ替わった。何度も地面に叩きつけられ、衝撃に臓腑が跳ねまわる。
なんとか止まり、立ち上がろうとしたが、それは不可能だった。
「『‥‥』」
紅衣を纏った山本勇輔が、立ったまま榊を見下ろしていた。首には剣があてがわれ、勇輔がほんの少しずらすだけで、榊の細い首は容易く飛ぶだろう。
しかし首に食い込む剣の感触など、まるで気にならなかった。
真上から叩きつけられる圧に、息ができない。頭のてっぺんからつま先に至るまで、磔にされたかのように動かなかった。
榊綴は導書だ。そしてこの領域は自らが構築した、榊のための世界だ。
圧倒的に有利なはずの状況で、榊は明確な死の危機を感じていた。
勇輔が深く呼吸をし、言った。
「『くだらない。実にくだらない。こんなもので、少しでも俺が迷うと思ったのか』」
「‥‥」
「『仲間を愚弄するな。これでどうにかなるという侮りそのものが、俺たちへの侮辱だ』」
榊は何も答えなかった。
たしかに勇輔たちを甘く見ていたのかもしれない。これまで同じやり方で、多くの人間が愛に倒れてきた。
しかし常に死と隣り合わせの最前線で戦い続けた勇輔たちにとって、それは策とすら言えない愚かな行いだった。
己の手の先さえ見えない深い霧の中でも、敵味方入り乱れる戦場でも、光無き常闇の世界であっても、勇輔たちは戦い続けてきた。
仲間かどうかなど、見なくても分かる。
山本勇輔が、エリス・フィルン・セントライズを間違えるはずがない。
そして彼女を騙る存在など、どれだけ似ていようが許すはずがない。世界にエリス・フィルン・セントライズは一人だけだ。
たった一人しかいないから、あれほど苦しんだ。
そんな勇輔の胸中までは知らず、ただ榊は自身の計画が失敗に終わったことを悟った。
もはや山本勇輔を倒すことも、土御門晴凛を退場させることも不可能だ。
だったらせめて、当初の目的は果たさなければならない。
すなわち対魔官を潰し、日本の防衛機能を一時的に麻痺させる。
この後の計画において、少しの邪魔が入ることも許されない。
榊綴は魔術師の中でも特に孤独だった。その類稀な才能は、代わりに彼女から人間関係と、コミュニケーション能力の全てを奪い去った。
榊にとって人間とは、得体の知れない、腹の底で何を考えているか分からない生き物だ。
喋っているだけで吐き気がする。
存在するだけで鳥肌が立つ。
自分と、自分が考える世界だけが、彼女の全てだった。
そんな孤独の人生において、たった一人だけ、榊が心の底から信頼できる人がいた。
「主‥‥」
新世界の頂点。絶対に到達できない高みにいるあの人だけが、榊にとって認められる他者であった。
初めて会った時を昨日のことのように思い出せる。世界が色づき、呼吸をし始めたあの瞬間を。自分がこの世に生きているのだと、実感した時を。
主は、現実の世界と榊を唯一繋ぐ存在だ。
あの人のためならば、何でもしよう。
どんな悪にもなろう。
榊は領域に残る全魔力を操作する。
本来ここまでするつもりはなかった。それをしてしまえば、自分自身どうなるのか分からない。
それでもここで全てを使い切る。術式が崩壊する可能性すらある、魔力の全開放。
何もかも壊れて、潰れてしまえ。
「『貴様、何を』」
勇輔が反応しようとするが、遅い。
もはやこの暴走は誰にも止められない。榊本人にさえ、どうにもできない。
――沁霊術式。
「『気まぐれ妖精の終わり』」
その時、領域内を監視していたカナミ、対魔官たちが各地で巨大なモンスターを観測した。
地獄の番犬、ケルベロス。
双頭の黒犬、オルトロス。
多頭の毒蛇、ヒュドラ。
嵐の精霊、キマイラ。
異形の乙女、スキュラ。
ギリシャ神話における最悪の怪物たちが、人類を駆逐せんと産声を上げた。




