ジョーカー
「‥‥」
土御門は仰向けに倒れた。
力という力が抜けて、もう指の一本も動かせそうにない。
そんな彼を覗き込む者がいた。
『‥‥驚いた。まさか阿修羅を倒せるとは思わなかった』
榊綴が驚きに少しばかり目を大きくして、土御門を見ていた。
「‥‥僕自身も驚いているよ」
『勝てる可能性はなかったはず』
「正真正銘、真なる神であれば勝てなかった。ゲームの世界だからこそ、だろうね」
勝てないボスはいない。それが人々の無意識の認識にあったからこそ、土御門は勝つことができた。
現実に神話体系の神が現れれば、なすすべもなくやられていただろう。
それでも榊には納得がいかないようだった。
『たとえそうだとしても、あり得ない』
「あり得ないなんてことは、あり得ない――なんて、これは流石に使い古されているかな。どちらにせよ、魔術師に常識を語るだけ無駄だろう」
『土御門晴凛、本気で私たちの下に来ればいい。あなたなら、すぐに導書になれる』
「元々僕は新世界の一員だけど?」
『つまらない冗談』
は、と土御門は笑った。襲撃された時点で気付いてはいたが、導書クラスには、お見通しだったらしい。
「対魔官には他にも新世界の所属員がいただろう。彼らも巻き込んでしまってよかったのかい?」
『問題ない。もう彼らが必要となる時は過ぎた』
「用済みになれば、切り捨てるというわけだ」
『切り捨てるわけじゃない。ただ申し訳ないけれど、今細かなところまで選別している余裕はない。それだけ』
殺さないこの領域は、もしかしたらそういう理由もあったのかもしれない。真実はどうあれ、ここから先は導書だけいればいいということか。
「そうか。残念だけれど、僕は力にはなれないかな。魔術師はもっと自由であるべきだ」
今の世界は、息苦しい。
榊は気のせいか、微かに残念そうな顔をした。
『仕方ない。それならしばらく寝ていてもらう』
「あまり痛くないようにしてくれよ」
『それはこちらに相談して』
すげなく答えると、榊が視線を横に移した。
そこにはいつの間に出現したのか、鬼が立っていた。西洋由来のオーガか、アジア圏の鬼か。鉄製の棍棒を所持しているので、和製なのかもしれない。
そんなどうでもよいことを考えながら、土御門は空を見上げた。
仮想世界でも、空は青く美しかった。
生まれた時から、この空を誰にはばかることもなく眺めていたかった。
しかしそれは許されないことだった。
魔術師の家系に生まれた時から、日陰の守護者として生きることを余儀なくされた。
皆、対魔官は正義だと言う。
人々の暮らしを守る存在だと。
ならばなぜ隠れなければならないのか。別に魔術を世界に広めたいというわけではない。
ただ生まれた瞬間から、常に何かに縛られ続ける人生が嫌だった。先に進めば何かが変わるかもしれないと第一位階まで至れば、そこにあるのは更なる支配だった。
――ああ。
こんなにも空は広い。
土御門は深く息を吐き、呟いた。
「あとは、皆に任せるとしよう」
「『そう言うな、まだ先は長い』」
銀が鬼を一刀にて分かつ。
あまりにも鮮やかな登場に、土御門も榊も数秒、反応できなかった。
翡翠の魔力と紅い外套をひらめかせ、神と戦っていたはずの彼は、振り返り言った。
「『待たせたな、土御門』」
異世界の元勇者、白銀がそこに立っていた。
話としては聞いていた。凄まじい偉業を為し、異世界の人間からは信仰にも近い信頼を寄せられている。
シキンと戦った四辻千里も、その力を興奮と共に語っていた。
それが所詮聞きかじりの知識であったことを、土御門は実感した。
「――ははは」
ただそこに現れただけで、圧倒的な安心感が身を包む。
これが山本勇輔という男か。
日本最強の魔術師と呼ばれた土御門は、誰かを頼るということはできなかった。式神を扱う魔術の万能性も、それに拍車をかけた。
誰かに任せるよりも自分が動いた方が圧倒的に速く、信頼できるからだ。
そんな土御門が初めて、対等に力を借りたいと感じたのが山本勇輔だった。
その判断は間違いではなかった。
『‥‥馬鹿な。エキドナはどうしたの』
崩れない機会音声に、動揺が見えた。
勇輔は榊がこの領域の主だと瞬時に理解したのか、土御門を守るように立ちながら答えた。
「『ああ、強かったぞ。そのせいでここに来るのに時間がかかった』」
『‥‥』
あの榊が指を止めた。
強かった。
ギリシャ神話最恐格の怪物、間違いなく神性を宿していたであろう敵を、強かったの一言で片づけるのか。
ふざけている。
そして平然とここに立っている時点で、それは嘘ではないのだろう。
事実、勇輔の頭上には半分ほどに減ったHPバーが見えた。激闘だったのは間違いないだろうが、それでも半分だ。
『そう。できればあなたにも、ここで眠っていて欲しかった』
「『悪いがそういうわけにもいかない。他のモンスターはコウが対応している。あとはお前を倒せば終わりだ』」
『あなたのことは、たくさん調べた』
榊が言う。
『生まれも、育ちも、異世界での生活も、魔術も、ありとあらゆるものを調べた』
「『どうやってかは知らないが、あまりいい趣味ではないな』」
『エキドナを当てれば倒せると思っていたけど、それを超えてくるのなら仕方ない』
そう呟く彼女の背後から、誰かが現れた。
いつからそこにいたのか、土御門でさえ気付かない程に静かに歩いてくる。
無機質な声が淡々と響いた。
『こういうやり方を、取るしかない』
現れたのは一人の女性だった。
日の光を受けて炎のように輝く緋色の髪に、森よりも深い新緑の瞳。
誰もがその美貌に目を奪われるだろう。誰もがその内に秘めた生命力に、心打たれるだろう。
魔力が恐ろしさすら感じる程滑らかに、彼女の身体をドレスのように覆っていた。
土御門晴凛は彼女を知らなかった。
知らなくとも、彼女がただならぬ人物であることが一目で知れた。
彼女の名は、エリス・フィルン・セントライズと言った。




