妖精の落書き帳
「さて、お遊び用の人形はいなくなったわけだけど、次は君の番かな」
完全に吸血鬼が消失したことを確認してから、土御門は振り返って言った。
榊綴はまったく動くことなく、受付のところに立っていた。土御門を見ようともせず、スマホを操作する。
『強いね。思っていたより強かった』
「お褒めに預かり光栄だ」
『『式神剣製』。己の有する式神に武装としての概念を付与して顕現させる魔術』
「流石は新世界。こちらの情報は筒抜けというわけかい」
土御門は肯定するようにして野太刀を揺らした。
真空の刃をもって敵を切る『鎌居太刀』。嵐を呼ぶ『天狗扇』。そしてその双方を掛け合わせて鍛える『血風羽団扇』。
土御門の所有する鎌鼬と大天狗の式神を用いた武装である。
自身の情報が新世界に把握されていることは理解していた。
「逆に聞きたのだけど、君は何者だい? そちらばかり僕を知っているというのは、いささかフェアじゃないだろう」
『フェアである必要はないけど。私は榊綴』
榊綴。その名は土御門も聞いたことがあった。導書の中でも特殊な魔術師で、表に出てくることはなかったはずだ。
それがわざわざここまで出張ってくるとは。
「素敵な名だね。この魔術領域も君の魔術かい?」
『時間稼ぎのつもり?』
「いや、純粋な疑問だよ。ここまで多種多様なことができる魔術師は聞いたことがなくてね」
答えを期待してのことではなかった。
しかし想像に反して、榊は答えた。
『私の魔術は『妖精の落書き帳』。描いた生き物や道具、景色を疑似的に実体化できる魔術』
「‥‥へえ、便利な魔術だ」
淡々と返ってきた答えに、土御門は驚嘆した。平然と自分の魔術を明かしたこと、魔術の内容。
何が目的だ。
榊はそんな土御門の様子を気に留めることもなく続けた。
『だからモンスターも異空間も、魔道具も作り出せる。いろいろと制限はあるけど』
「それじゃ、このHPバーは君の趣味かい?」
土御門は頭の上を指さす。
モンスターを放つだけならば、こんなものは必要ない。わざわざこういうシステムを作り上げたのが不思議だった。
『‥‥』
榊が初めて土御門の方を見た。黒曜石のような瞳が艶めいている。
『そのゲージは、私の沁霊術式、『私たちの物語』の本質』
「沁霊術式、ね」
土御門は目を細める。勇輔から聞いた。アステリスの魔術師が到達する最高地点。榊綴はそこに至っているということか。
櫛名とフィンが手を組んでいるのだから、新世界がアステリスの技術を入手していても不思議ではない。
『私がこの規模の魔術を一人で成立させることは不可能。誰もがこのゲージを見た時、一つの考えが浮かぶ』
「考え?」
『あなたも思ったはず。まるで、ゲームみたいだって』
「‥‥」
確かにその通りだった。そしてそれは土御門だけではないだろう。このHPバーを見たほとんどの人間が同じことを思ったはずだ。
「ゲームだと思わせるために、わざわざこのHPバーを作ったということかな」
『正解』
榊は頷いた。
『ゲームの中なら、いくらモンスターが出てもおかしくないでしょう』
当たり前のことのようにそう言った。
土御門は目を見開き、落雷のような衝撃を処理した。
『現実の世界にモンスターがいることは、おかしい。おかしいことを実現するのにはそれなりのコストがかかる。けれどゲームの世界なら? 誰もがゲームの中だと認識しているのなら、そこにモンスターが現れることは、普通になる』
「領域内の認識を歪めて、低コストでモンスターを出現させているということかな」
『そう。この領域を維持しているのは私だけじゃない。この領域の中にいる人間の無意識が、領域をより強固なものにしている』
当たり前のことのように言っているが、無茶苦茶だ。彼女は魔術となんら関係のない一般人の無意識を、己の魔術の骨子に組み込んだのだ。荒唐無稽の絶技である。
「発想の勝利というわけだ」
『そんなに大層なものじゃない。私は現代の人間が作り上げてきた仮想空間への認識を利用しているだけ』
「そうか。‥‥どうしてわざわざそれを話してくれたんだい?」
榊に今の話をするメリットはないはずだ。戯れや自己顕示欲で話すような人間にも見えない。
榊がスマホを操作する。
『何か勘違いをしているようだから。ここはゲームの中。そういうルールで成り立っている』
「すまない、それだけじゃ何を言いたいか分からないな」
『ゲームで死んだところで、現実では死なない』
「何?」
死なない。つまりこのHPバーが消えても、現実では死んでいないということだろうか。確かにここがゲームを模倣した空間ならば、それは道理だ。
「だったら、どうしてこんなことを? てっきり対魔官の戦力を削ぐ目的だと思っていたのだけど」
『すごいね。そこまで分かってるんだ。そう、主はあなたたちを高く評価している。あなたたちの正義と、自己犠牲の覚悟を。放っておけば、この後の計画に支障が出るから、ここで叩いておくことにした』
「死なないのにかい?」
『死なないだけ。殺されたという感覚は魂に刻まれ、肉体はしばらく仮死状態に陥る』
つまり、新世界の計画が終わるまでは寝ておけということか。
榊の言葉を信じるのなら、このロビーで死んだ対魔官たちも、モンスターに殺された一般人も、一命はとりとめていることになる。
そしてこれまでの経験から、新世界が無差別に命を奪う享楽殺人者の集まりでないことは知っていた。
若干の安堵を感じながら、土御門は更に聞いた。
「勘違いは分かったけれど、それを正した理由まで聞いてもいいかい?」
土御門の問いに、榊は首を傾げた。
『死なないから、ここは潔く死んでほしい』
「‥‥それは本気で言ってるのかな?」
『本気。このまま戦ってもあなたは死ぬ。無駄なことはやめた方がいい。ただ痛みが増すだけ』
榊は親切でもかけるように言った。実際、彼女からすれば親切心なのだろう。何をどうしようと結果は変わらないから、楽な道を選んだ方がよいと言っているのだ。
「ご丁寧にありがとう。配慮痛み入るよ。しかし僕が戦うこともせずに諦めるというわけにはいかない。これでも、日本最強の看板を背負っているものでね」
『無駄だよ。山本勇輔も、他の仲間も助けには来られない。あなたでは、私に勝てない』
「それはやってみないと分からないだろう。それに勇輔君を甘く見すぎだ」
山本勇輔は土御門が知る限り最強の魔術師だ。あのシキンすら正面から打倒する彼を、いくら導書といえど、そうそう止められるものではない。
そんなことは榊もよく分かっているはずだ。
『たしかに山本勇輔は強い。だから彼を止めるために、この術式を使った』
「大量のモンスターで圧し潰そうとでもしているのかな? 彼がその程度で止まるとは思えないけれど」
『山本勇輔に雑魚をいくら当てたところで、意味はない』
榊はそう言いながら、スマホを下ろした。
そして初めて自分の声で、言葉を発した。
「シキンを倒す人間。あれを殺すのであれば、まっとうなやり方では無駄」
本当にその言葉は榊のものなのだろうか。
土御門は目の前で何かが変異していくのを感じた。周囲の空間から魔力が榊に纏わりつき、信じられない密度で圧縮されていく。
景色が歪み、榊の華奢な身体が折れ、捻じれ、引き延ばされる。
そこで気付いた。自分がこれまで喋っていた相手は、榊綴ではないということに。
土御門は魔力を回し、今自分が持つカードを頭の中でリストアップする。
「‥‥まんまと騙されたよ」
「ここは仮想世界。現代では存在しない、存在できないはずの認識が、肯定される」
掠れた声にノイズが走り、榊綴は完全に人としての姿を失っていた。
歪みは限界に至り、空間がひび割れ、砕けていく。
落ちていく景色の破片を踏みつぶし、それは姿を現した。
科学技術の発展によって潰されていく歴史の地層から、這い上がり、その身を起こす。
全身から滴り、ロビーを満たすのは、あり得ざる『神性』。
「神はいない。現代において神は現実ではない」
三面が口を開く。
「不合理、不条理」
「不遜、不義」
「故に仮想において、空想において神は肯定される。無知の排斥において神の庭は此処となった」
彼ら、いや彼か、あるいはそれか。
榊綴の代わりに現れたそれは、土御門を見下ろした。ロビーの天井近くまである上背に、それに見合うだけの分厚い肉体。だが何より特筆すべきは、三面六臂の身体だ。
つまり、三つの顔に六本の腕。
神性を持ち、その特徴に当てはまる存在は限られる。
細かな衣装や手に持つ武具から、土御門はそれがなんなのか看破した。インドラ、あるいは帝釈天と戦った最強の武神。
正義の反転、妄執によって悪業を為す者が行き着く六道の一。
『阿修羅』である。




