闇のいざない
◇ ◇ ◇
「姫様、夜会の準備が整いました」
暗い部屋で、侍女の声が背後から聞こえた。
「ええ、すぐに行くわ」
エリス・フィルン・セントライズは後ろを見ることなく答えた。最近自分の口から出た声に違和感を覚える。こんな声だっただろうか。
視線を落とせば、暗がりの中でも、髪に合わせた朱のドレスが激しく主張する。
今日は何の晩餐会だっただろうか。
何か良いことがあったのか、それともただ騒げればよいのか。
今日参加する者たちが誰かさえも、エリスは知らなかった。
知らされていない、ということもあるが、エリス自身知る気になれなかった。
知ったところでどうなる。
ただ食べ、歌い、踊り、笑い、求められる仮面を付け替えたところで、それは何にもつながらない。
昔は違った。
あらゆる行動に意味があり、目的があり、意志があった。
白銀の勇者、山本勇輔の力になれているという実感があった。
「‥‥」
エリスは机の引き出しを開ける。
そこには、一枚の封筒と、小さなヒューミルが入っていた。
ヒューミルは願いを込めて紐を編んで作るお守りである。そのヒューミルは戦いの加護を象徴するアイリスの花の形をしていた。
真っ赤な花弁は、綺麗な形に作るのに苦労した。
何度も作り直して、侍女や乳母に泣きついて、納得のいく形が出来上がるまで一週間以上の時間をかけた。
それを、まるで片手間に作りましたと言わんばかりに素っ気なく彼に押し付けたあの日が、つい昨日のことのように思い出せる。
このヒューミルは、エリスが勇輔に渡したものだった。
そして、別れの日、彼が残していった。
何千回と読んで、もう開かなくても諳んじられる手紙と共に。
「ユースケ、行ってくるわね」
エリスはそう呟くと、引き出しを閉めようとし、少し迷う。
どうしてそうしたのか、自分でも分からないままヒューミルを手に取り、フリルの裏に隠されたポケットへしまいこんだ。
そこまでして彼を感じていたいのか、自嘲が零れそうになるのを笑顔の仮面で隠しながら、エリスは部屋を出る。
鳥籠の舞台へと上がるために。
◇ ◇ ◇
エリス・フィルン・セントライズは苛烈にして強靭な英雄である。
たとえどんな魔族と戦おうと、国を相手取ろうと、決して退かず、自らの信念を貫く強さがある。
共に戦ってきた騎士たちは、エリスが弱音を吐いていることも、くじけているところも見たことがなかった。
少女ながら、どんな戦士よりも猛き心を持つ者。
そんなエリスが、泣いていた。
「ぅ、ぅぁ――ぁ――」
王城の裏にある湖の畔。
勇者が、山本勇輔が現れた場所にして、たった今消え去った場所。
周囲には数名の人間が立っていた。
彼らは最後に勇輔の旅立ちを見送った者たちだ。
エリスは、そこにいなかった。
城の中で、走り出しそうになる身体を魔術で縛り、彼の魔力が消えていく気配を、ただ感じていた。
悠久にも感じる一瞬を耐える。
そして勇輔がいなくなってから、ここに来たのだ。
そこには、沈痛な面持ちで顔を下げる人々と、二つの物が残されていた。
「っ――‼」
エリスの渡したヒューミルと、一通の手紙。
誰が、誰に宛てた物なのか。
その場にいる全員がエリスの道を作った。
勇輔が最後に残したそれが、彼女のためのものであると、誰もが知っていた。
エリスは膝を着き、震える手で二つをすくいあげ、手紙を開いた。
そこに何が書かれていたのか、知っているのはもはや、この世界に一人だけだ。
「ぁぁ」
背中が震える。
どんな絶望を前にしても、凛と立つ背が、小さく、か弱く震える。
「ぁぁああ」
声が漏れる。どれほどの苦痛を受けようと、決して悲鳴を上げなかった喉が、慟哭する。
「ぁぁぁぁぁああああああああああああああああああ――――‼」
大粒の涙が、ぼろぼろと零れた。
世界と愛する人を天秤に掛けた希代の英傑は、十七歳の少女だった。
ただの、少女だった。
◇ ◇ ◇
夜会の会場は、魔道具によって昼よりも煌びやかな光に満ちていた。
上を眺めていると、キラキラと反射する眩さに酔ってしまいそうだ。
「エリス様!」
「おお、いつ見てもお美しい」
「素晴らしい、流石はセントライズの華」
人々が口々にエリスを褒めそやす。
彼らはエリスが座に君臨する魔術師だということを知っている。知ってはいるが、その知識と目の前の可憐な姫君は決して結びつかない。
彼らにとってエリスは、美しい花なのだ。
棘があろうと毒を持っていようと、愛でる分にはさしたる違いはない。
「ありがとう」
エリスは称賛の言葉の中を歩く。
淑やかに、理想の姫として。
そんな人の輪の一角が、突如として開けた。
驚く人々の視線を受けながら、堂々とした立ち振る舞いで近づいてくるのは、空色の髪をなびかせた美丈夫。
白銀無き今、当代の勇者として選ばれた、ジャック・ダスケンだ。
彼は銀のタキシードに身を包み、自信に満ち溢れた顔でエリスを見る。
「これは、ジャック様。お久しぶりです」
エリスが挨拶をすると、ジャックはおもむろにその場で膝を着いた。
「エリス様、長く王都を空けたこと、誠に申し訳ございませんでした。魔族の鎮圧に想像以上に時間がかかってしまったのです。あなたに会えない間、この胸は張り裂けんばかりに痛みました」
声が朗々と響く。
「ええ、存じております。素晴らしいご活躍であったと」
「とんでもありません。ああ、口惜しい。貴方様と共に戦うことができたのなら、更なる力を眼前にて発揮できたものを」
ジャックは前の神魔大戦の後に見いだされた魔術師だ。この数年でここまでの実力をつけたのだから、才能は並々ならぬものがあったのだろう。
しかしエリスは本物を知っている。
たった数年で魔族を、魔将を、魔王を超えた最強の少年を。
そんな彼女からすれば、ジャックに勇者の名は、重い。
それでもエリスは笑顔を崩さない。
ジャックは膝を着いたまま、エリスへと手を伸ばした。
「本来であれば、災を倒し、貴方様を誘いたいところですが、この程度の勲功ではそんなことは言えません。しかし、この愚かな男を哀れと思うのなら、一曲でよろしいのです。――どうか、私と踊ってはいただけませんか?」
周囲の人が声を上げる。
勇者と四英雄のダンスだ。
これ以上の組み合わせはないと、そう思っているのだろう。
「ええ」
エリスはジャックの手を取ろうと、手を伸ばした。
国が平和であるのならば。皆が幸せであるならば、私はもう何もいらない。
その思いで、この数年を生きてきたのだ。
エリスの指先がジャックへと触れるその瞬間。
ヒューミルが、燃えるように熱を持った。
「な――⁉」
エリスは思わず懐へ手を当てる。
確かに熱い。けれど、痛みも不快さもない。
何かが起きている。
そう感じたのは、エリスだけではなかった。ただ、他の人々は、まったく別のものを見ていた。
「これは‥‥」
「まさか、これが噂に聞く第二次の」
エリスが振り向くと、そこには闇が広がっていた。
緑にも赤にも見える、先の見通せない闇。
それがぽっかりとエリスの前に口を開けていた。
勇輔の帰還の時に感じた、神性にも似た魔力。
それが何を意味するのか、エリスはすぐに理解した。
呼ばれているのだ。
この闇は、戦いに、新たな生贄を求めている。
「‥‥」
自然とエリスの足は闇の方へと向かっていた。人々が、王が、兄たちが何かを叫んでいる。
しかし何も耳に入らなかった。
思い出すのは、コウガルゥが最後に残した言葉だ。
『女神はあいつを異界から召喚した。そんな幾つも幾つも、別の世界があるとは考えにくい』
それは甘美な誘惑だ。
会えるのだろうか。
――会ってどうするの?
また傷つける。
どうせ、嫌われている。
顔も見たくないかもしれない。
「エリス様‼」
グッ、と手が握られた。
振り返ると、ジャックがエリスの手を掴んでいた。
「それは危険です! 行ってはいけない! あなたは本当なら戦いに行くような人ではない!」
そう言われ、エリスは自分自身を見下ろした。
ドレスと輝石で飾られた自分。籠の中で鑑賞されるだけの毎日。
彼が今のエリスを見たら、なんと言うのだろう。
あの笑顔で、軽い口調で、けれど真剣に。
『よく分かんねーけど、自分のしたいようにやったらいいんじゃね』
ああ、言いそうだ。
エリスはジャックの手を優しく振りほどくと、驚愕に目を見開く彼の前で、更にスカートを手で掴み、スリットを作るように破り裂く。
誰もが驚く中で、戦場での彼女を知る貴族たちだけが、笑っていた。
茨姫が、戻ってきたと。
エリスは動きやすくなった脚で、大きく一歩を踏み出すと、思い出したように振り返って言った。
「ごめんなさい、ジャック様。私、我が儘で身勝手な女なの」
だから、これも我が儘だ。
どうなるかなんて分からない。
それでも、会いたい。
あなたに会いたくてたまらない。
――ねえ、ユースケ。あなたはそこにいるの?
人々が見守る中、闇は、緋色の髪の先まで、エリスを完全に飲み込み、消えた。




