到来の風
恐ろしくゆっくりと時間が流れる中で、リーシャは俯いたまま考え続けていた。
既にロゼが淹れてくれたお茶は一口も飲まれることなく冷めきっている。ラルカンもロゼも部屋を出ており、今ここにいるのはリーシャだけだった。
ラルカンやフィフィに言われた言葉が頭の中でリフレインする。
ユースケさんが、勇者様‥‥。
あり得ない話だ。勇者とは女神聖教会において人よりも神に近い英雄である。纏う神気はあらゆる魔を寄せ付けず、あまねく人々を救済する。
しかも魔王を倒した後には天へと招かれたのだ。
そんな人が、地球で学生をやっているわけがない。一つ一つの何気ない会話で笑い、ふざけ合い、マッサージをしてあげる。
彼と過ごした日常が、ラルカンたちの言葉を否定する。いや、否定しようと引っ張りだしているのだ。
『認めたくない理由は知らないが、奴が来れば全て分かることだ』
ラルカンの突き刺した言葉が胸から抜けない。
自分自身、認めたくない、考えたくない理由は分かり切っている。
もし本当に勇輔が勇者だったとしたら、リーシャは今までのように接することはできなくなる。勇者を相手に気安く話しかけることは許されないのだ。
「ユースケさん、カナミさん‥‥」
恐ろしい程の心細さを感じ、リーシャは身体を縮こませた。
必ず彼は助けに来てくれる。たとえ何があろうと、リーシャに手を差し伸べてくれるだろう。
しかし救われたとて、カナミが死んでしまっていたら、勇輔が勇者だとしたら、リーシャは一人きりだ。
その未来が、たまらなく怖い。
今までも怖いと思ったことは何度もある。ルイードの火に追い詰められた時は死の恐怖に身体が震えた。戦いの度に聖域が壊れてはどうしようかと、不安な気持ちは消えない。
だがこの恐怖は、まるで別のものだ。
教会の中は何不自由なく幸せな生活だったが、リーシャは勇輔やカナミと出会い、対等に人と関わるという鮮烈で刺激的な楽しさを知ってしまった。
それを失うことが、怖い。
こんなにも自分は愚かで弱い人間だっただろうか。勇輔やカナミはいつも命を懸けてリーシャを守ってくれているというのに、救われるのを待つだけの自分が怯え震えているなんて。
勇輔が助けに来てくれた時、どんな顔をするべきなのか。どう声を掛ければよいのか、今のリーシャにはまるで分からなかった。
「‥‥」
カチャリ、と茶器が鳴る音にリーシャは顔を上げた。
そこにはいつの間に来たのか、ロゼが立っている。その傍らには新しく淹れたらしいティーセットが用意されていた。
どうやら冷めたお茶を取り換えに来てくれたらしい。
沈黙に潰されかけていたリーシャは思わず口を開いた。
「‥‥何故あなた方はユースケさ――勇者様を探しているのですか。やはり、復讐でしょうか」
答えを期待しての問いではなかった。気を紛らわせようとしての言葉。
その意図に反して、手を止めたロゼはリーシャに向き直り答えた。
「ラルカン様のご意志を私などが全て理解することは叶いませんが、恐らく復讐という言葉で説明できるものではないでしょう」
「説明、できない?」
リーシャが見たラルカンの傷は酷いものだった。腕は切り落とされ、首の傷も命を絶つのには十分過ぎるものだ。世間知らずのリーシャでさえ、生きているのが奇跡だと分かる傷痕だ。
だからリーシャは殺されかけた復讐なのだろうと、勝手にそう思っていた。
「ラルカン様にとって命を奪われかけたことは小事ということです」
ロゼはそれだけを言い切ると、再びお茶の用意を始めた。
殺されることが、大したことではない。それは今まさにリーシャが感じていた恐怖に似ているかもしれなかった。
だとすればラルカンは、命よりも遥かに重いものを懸けてここにいる。
それが意味することは即ち――。
「お待たせいたしました」
思考を中断するように、リーシャの目の前にカップが置かれた。
そのまま背を向けようとするロゼをリーシャは呼び止めた。
「待ってください」
「何でしょうか?」
「貴方の主は、復讐でなくとも、勇者様と戦うつもりなのですよね」
「はい、その通りです」
ロゼは戸惑うこともなく頷いた。
「貴方は、主が負けるとは思わないのですか?」
その問いを聞いた瞬間、ロゼの瞳は今までにない程に凍てつき、視線は鋭く尖った。
「あり得ません」
端的なその一言が、ロゼの絶大なる信頼を示していた。
それを傲慢だと言うことはできない。今この時まで、リーシャもまた、勇輔が負けるなんて露ほども考えていなかったのだから。
それも無理はないだろう。これまで称号持ちの魔族を二人、正面から打ち破ってきたのだ。その信頼はそうそう揺らぐものではない。
故に勇輔が勇者なのではないかと、そんなことばかりを考えていた。
だが、だがラルカンが先の戦いで勇者と渡り合える程の英傑で、そんな魔族が死の淵から追ってきたのだとしたら。
命すら些末事と切り捨てる、尋常ならざる覚悟を持っていたとしたら。
その刃は、途方もつかない程に重いはずだ。
「‥‥っ!」
今更ながら、どちらが死んでもおかしくないのだと、そんな当たり前のことに気付いたリーシャは身体を震わせた。
◇ ◇ ◇
俯いてしまったリーシャをロゼは冷めた目で見下ろしていた。
このような世間知らずの小娘が戦いの大役を担っているということに、憐みすら感じる。まだ戦争の本当の恐ろしさを知らないのだ。
きっと自分の近しい人は死なないと、強ければ必ず帰ってくると、そんな都合のいい妄想を現実だと勘違いしている。
何も知らない非力で愚かな籠の鳥。
それでも聖女としての力を持つ者なのは間違いない。勇者を除き、人族の中では女神に最も近い存在だ。
「‥‥」
立ち位置の関係で、ロゼにはリーシャの白いうなじがよく見えた。
少し力を加えれば呆気なく折れてしまいそうな、細い首。攫った時点でリーシャの役目は八割方終わっている。待っているのが死体だろうが、大した違いはない。
ロゼの視線に失意のリーシャはまるで気付かない。
カップから立ち上る湯気よりもゆっくりと、ロゼの手が持ち上がり始めた。
魔術すら必要ない。身体強化によって腕が侍女から戦士へと変わる。
「っ」
その変化が止まったのは、突然のことだった。黒い団子髪が口を開け、小さな声で呟いたのだ。
『おい、守衛が壊された』
「‥‥そう」
ロゼは深く息を吐くと、手を下ろした。そこへフィフィの情報がロゼの脳内に送られ、戦闘の過程が脳裏に浮かび上がる。それは想像以上に一方的なものだった。
守衛は特殊な機構が仕組まれており、受けたダメージを蓄積し相手に返すことができるのだが、それを受けて傷一つないとなれば、やはり目的の相手で間違いないだろう。
『ここに着くまでにあと五分も掛からねーだろうよ』
「分かったわ。貴方はここで鍵を見張りなさい」
『了解だ』
髪からフィフィがいなくなり、ロゼは部屋を出た。彼女は拠点にしている場所を定期的に見回っているが、これはそのためではない。廊下からベランダに出ると、開けた視界一杯に月光を被る夜が広がっていた。
自分の住んでいた場所とはまるで違う、ぬるま湯のような空気。
それも昼に比べれば夜風に散って幾分ましに感じられた。
そんな中、ベランダの手すりに目当ての人物は腰かけていた。
「ラルカン様、白銀がもう間もなく現れます」
「‥‥ああ。魔力を感じた、懐かしい奴の魔力だ」
ロゼはラルカンがベランダに出ていた理由に気付いた。
守衛と勇輔の戦闘が始まった時点で、いや、それよりも前からラルカンはその接近に気付いていたのだろう。
だからこうして外で待ち続けていた。
その事実に思うところがないわけではないが、ロゼはそれをおくびにも出さず言った。
「どうか、ご武運を」
「気持ちはありがたいが、俺の運は既にあの時尽きている。もはや兵士としての矜持もない者に、魔神の加護もありはすまい」
ラルカンは悲嘆も後悔も感じさせない口調で返した。
彼は自分の在り様をよく理解している。事実を語ることに、感情が揺れることはない。
ロゼもそんな主の気性を良く知っていた。
そう返答が来るだろうということも。
「これは私からラルカン様に送る祈りです。それも無意味な行いでしょうか」
「‥‥」
ラルカンがロゼの方を振り向いた。ロゼにとっては長く見つめ返してきた目だ。
「そうか。それならばありがたく受け取っておこう」
「はい、私はここで帰りをお待ちしております」
「ああ、分かった」
ラルカンは再び外に目を向けると、手すりの上で立ち上がった。
一層強い風が吹き、外套が大きくはためく。
それはまるで待ち人の到来を知らせるかのようだった。




