敵の狙い
やはりというべきか、男の目的は勇輔。
それも神魔大戦すら放棄して勇輔を探しに来たのだとしたら、十中八九間違いない、第一次神魔大戦に従軍した魔術師だ。
「聖女を下すと約束するのであれば、答えましょう」
「残念だがそれは無理だ。この鍵は奴との戦いに必要になる」
その何気ない一言がカナミの心中を揺さぶった。
(やはり、それが目的ですのね)
この男は勇輔と戦うためにここにいる。魔王の仇討ちか第一次神魔大戦の因縁か。
どちらにせよ目前の化け物が勇輔と戦ったら、起こるのはランテナス要塞攻防戦の再現だ。
相手に悟られないようにゆっくりと呼吸を重ねる。魔力が全身を回り、身体が力を取り戻す。
たとえ相手が誰であろうと、守護者の責務を捨てることはない。後のことは任せてほしいと、そう勇輔と約束したのだ。
「であれば、答えることは一つとてありませんわ」
その言葉を聞くと男は一度目を閉じ、リーシャを壊れ物を扱うように丁寧に抱きかかえた。言葉通り、無用に傷つけるつもりはないのだろう。
再び開かれた目は、これまでの冷徹な輝きの中に、圧し潰されるような戦意を湛えていた。
たったそれだけで、かき集めた意志が霧散しそうになる。
「抗おうというのであればやめておけ。俺は戦士であれば容赦はしない」
思わず笑ってしまうくらい下に見られた言葉。敵対するのであれば一蹴するという決定事項をただ伝えただけだ。
確かに実力に開きがある。それぐらいは分かっている。
だから正面から戦うつもりはない、あらゆる搦め手を使い、全ての手の内を見せたとしても、リーシャを奪還して逃走する。
その決意と共にフェルガーを持ち上げ、銃口を男に突きつけた。
今はカナミが距離を詰めなければならない、魔弾で隙を作って駆け抜ける。
男は武骨な銃口を見据え、外套の中で小さく呟いた。
「その道を選ぶか」
ならばそれ以上を考える必要はなかった。
互いの道が重なったのであれば、後はどちらが押し通るかという単純な話。そうなった時点で結末は決まっていた。
カナミの指先が引き金を引き絞る。
刹那、鈍い音が彼女の両腕から響き、魔弾があらぬ方向へと飛んだ。
「ぁっぐっ⁉」
カナミは喉をつんざくような悲鳴を無理矢理噛み潰した。そうでもしなければ、甲高い叫びをあげていただろう。
フェルガーを支えていた両腕が、肘からへし折られた。
なんだ、何が起きた? 理解が追い付かず、頭が痛みと驚愕に混乱する。敵から目を離すことも、油断もなかったはずだ。
にも拘わらずカナミの両腕は、質の悪いスプラッタ映画のように、一瞬にして折れ曲がった。黒い袖の中で、糸の切れた玩具のように腕が揺れる。
男は一切動いていない。間違いなく魔術を使って折られたのだろうが、その起こりが全く見えなかった。
『シャイカの眼』が何の意味もなしていない。
この時初めてカナミは理解した。自分が差だと思って見ていたものは、砂漠の蜃気楼に等しい幻影だったのだと。
人が巨大な湖を海と見紛うように、カナミのレベルではそのシルエットを捉えることさえ不可能。
たった一撃で理解させられた事実に心が折れる。無情にも覆いかぶさる黒い闇に抗うには、意思と誇りだけではあまりに無力だった
「っ‥‥」
握力を失った手から、フェルガーが落ちた。
頭がショートしそうな程の激痛。元々細かった勝ち筋が消えようとしているのは明らか。
それでも脳裏に浮かんだのは、二人の顔。自分が守るべき少女と、誰よりも憧れる人。
二人に顔向けできない人間になるぐらいなら、死んだ方がマシだ。
カナミは下唇を血が出る程に噛み締め、腕の激痛を紛らわす。
靴底が地面を蹴りつけ、音を鳴らした。
腕が使えなくても発動できる魔道具はある。チャンスがあるとすれば、こちらの攻撃手段を潰したと思っているこの一瞬だけ。
――リーシャ!
決死の覚悟を宿した瞳が濃紺の光を後に、カナミは男へと肉薄する。
そして魔道具を発動しようとした瞬間、それは来た。
グシュッ! と何か水っぽい物を潰すような音が内側から響いた。全身に走り抜ける衝撃と身体が宙に浮く感覚。
『何勝手に終わった気になってんだ、てめえは?』
守衛の声が明滅する思考の中に降ってくる。
こいつ、まだ動け――。
カナミが考えられたのはそこまでだった。胴体をメイスで横薙ぎにされ、そのまま真横に吹き飛んだ。勢いを殺すこともできず、塀に叩きつけられる。
血と菫の髪がゴシックドレスの上で鮮やかに弾け、落ちる。
その体が動くことは、もうなかった。
『ちっ、手間取らせやがって』
そこへ守衛はメイスを振り上げた。半死半生だろうが、まだ生きている。ここで確実に頭を潰す。これはお遊びではない、戦争だ。殺せる時に、殺す。
「やめろ」
しかしその行動はたった一言で止まった。
守衛は男の言葉に反抗することもなく、メイスを下ろし、無言でカナミに背を向けた。まるで人が切り替わったような不自然な変化に違和感を覚える者はここにいない。
男はリーシャを抱えたまま歩き出した。
カナミを殺さなかったのは優しさではない。彼女が守衛に細工をしていたことに男は気付いていた。
全ては己が目的のため。
去り行く男たちの背を追うように、夜が迫る。あたりは戦いなど忘れたかのように静けさを取り戻していた。ただ一人、血だまりに沈む菫の花を残して。
蓋をしていた過去は既に這い出し、口を開けて待っている。
勇者、白銀の到来を。
◇ ◇ ◇
守れなかった人間を数えなくなったのは、いつの頃だっただろうか。
夜の闇に包まれながら俺は考える。
魔族の出現を知らせる急報に駆け、辿り着いた街が既に廃墟と化していた時か。
戦地で助けた女性が婚約者が死んだことを知って首を吊った時か。
死に際の母親から冷たい赤子を託された時か。
囮となって鏖殺される兵士を背に、前に進んだ時か。
長く旅した仲間が、死んだ時か。
俺は無意識に数えるのをやめた。
だが数えなくなったからといって、辛さが消えるわけじゃない。
俺の背には零れ落ちたはずの命が、見えない重さとなって圧し掛かってくる。それはふとした瞬間に途方もない重圧となって存在を主張するのだ。
そしてそれと同じくらい、俺の身体には無数の手が掴まっている。
守れなかった者じゃない。
それは俺のために望まず死んだ、あるいは直接この手で殺してきた者たちの手だ。奴らは未来永劫離さないだろう、俺が同じ場所に行く以外、納得することはない。
この地球に帰ってきた時、落胆や悲しみと同時に、確かに俺は感じていたのだ。
もうあんな思いをしなくて済むという安堵と解放感を。
「‥‥」
しかしそれは幻想だった。
どことも知れぬ夜の街を歩きながら、ポケットからヘアピンのようなアクセサリーを取り出す。
それを見た瞬間思い出すのは、白い部屋で眠る少女だった。
退廃とした死の空気。自分の背に乗る重さが形を持ち始め、息苦しくなる。
リーシャを守っていたはずのカナミは何者かの襲撃を受け、瀕死の重体となった。その相手はリーシャを攫い行方をくらましている。
腹の底から沸き上がる憤怒を押し込め、平静を保つ。
今すべきことを見誤ってはならない。
カナミが殺されていない、わざわざ攫ったということは、現状ではリーシャを殺すつもりがないんだろう。
ならまず俺がすべきはリーシャを救うことだ。
カナミは死なない。仮にも皇女から英雄と呼ばれる立場にまでなった人間だ、死ぬはずがない。そう信じる他なかった。
そんな無力ささえも歯がゆく、腹立たしい。
俺はヘアピンに魔力を流した。ピンからぼんやりとした光が浮かび上がり、まるでコンパスの針のようにある方向を指し示した。
これはカナミが残してくれた最後の手がかりだ。
恐らくこの光の先にリーシャと、それを連れ去った敵がいる。
加賀見さんを含めた対魔官の人たちは、俺を監視していた。きっと勝手な行動を取らない様に見張っていたに違いない。彼らにとって俺は無力な一般人であり、下手に動けば状況を悪くする要因でしかない。
だからついさっきその目を掻い潜って対魔官の施設から出てきたところだ。
ここから先の俺は山本勇輔じゃない。
翡翠の魔力が身を包み、銀の鎧が世界の法則を引き千切って顕現する。魔力が魔力を呼ぶ無限の回廊、『我が真銘』は感情の励起に応えた。
爆発的に跳ね上がる身体能力と凄まじい全能感。
一気に地面を蹴って上空へと跳び上がる。そのまま近くの建物の屋上に着地すると、更に跳ぶ。向かうはピンの示す光の先。新幹線に乗っている時の比ではない速度で周囲の景色が流れ、夜景が幾本もの光線を残して消えていった。
移動しながら考える。
敵の狙いはなんだ。
状況から見て襲撃者は間違いなく魔族だろうが、その行動には不可解な点が多い。
明らかにカナミは満身創痍、反撃も逃走もできない状態だ。生かす意味がない。
その上リーシャを攫うというのも、疑問だ。
明らかに誘われている。恐らく敵の狙いは俺だ。
既にルイードとタリムを倒しているから、魔族が俺の存在に気付いて排除に動くのもおかしな話じゃない。
それにしてもなんだ、この胸騒ぎは。臓腑を鷲掴みにされるような嫌な感覚。
その胸中を示すように、俺の向かう先にはただ闇が待ち受けていた。




