39. 負けないから
あの、公爵家からの帰り道、雨が降り出したときのことだ。
塔に帰ってみると、ヤナに驚きの声を上げられた。
「どうしてそんなに濡れているんですか! まさか水を掛けられたんですか! ひどい!」
「え?」
どうやら塔の周辺では雨は降らなかったらしい。
これはもしや、魔法陣なしで魔法が発動したのではないかと、血の気が引いた。
わたしが雨が降るといい、と願ったから雨が降り出したのではないか。
確かめるべく、いろいろ試してみたところ、わかったことがある。
頭の中に完全な魔法陣を思い浮かべることができれば、魔法は発動した。でもほんの少しでも曖昧な記憶になると、発動しない。それから、強く願う必要があった。
あれはきっと、水魔法だ。さんざん練習したから魔法陣を思い浮かべることができたのだ。
その割に、規模が大きすぎるけれど。
「いやもう、これは本当に怖いわね……。間違えないようにしないと」
「そうですね、考えただけで発動するとは予想外でした」
とカレルと二人で話し合った。
世界を滅ぼせる力を身の内に持っているのは、恐怖でしかない。なにせ今はもう、結界は破られているのだから。
「お姉さまー!」
「虹ー! 虹出してー!」
今日も弟妹たちは塔を訪れて騒がしくしている。
塔の中で魔法を使うのは禁止だと、ヤナが厳しく言い聞かせたところ、「じゃあ庭ならいいよね!」と、彼らは使用人たちに庭に置けるテーブルと椅子を持ってこさせた。これで長時間、庭にいられるという目論見らしい。
もちろん使用人たちは仕事を済ませると、すぐさま飛んで帰ったわけだが、あのメイドだけは渋々ながら弟妹たちに付いている。
弟妹たちが、魔法というものを正しく認識しているかは怪しい。だからこそ、無邪気に魔法を使いたい、と言えるのだろうけど。
世代が変わるとこうも変わるのか、それともそのうち怖くなって来なくなるのかはわからないけれど、今のところわたしは彼らを受け入れている。
その新しく設置した椅子に腰掛けたまま、彼らがいるほうに向かって指を差すと、小さな空間に雨が降り出し、薄く虹が掛かった。
「すごいー!」
「綺麗ー!」
キャッキャッとはしゃぐ弟妹たちの横で、メイドは首を捻っている。
彼女には、「夢を壊すのも忍びないから」と、手品を覚えたと説明した。
納得したのかしていないのかは謎だが、とにかくそう思うことにしたのだろう。特に騒ぎ立てたりはしなかった。
「いやあ、魔法陣なしで魔術とは、本当にお嬢さまは素晴らしい」
恍惚とした表情で、後ろに控えているカレルが言う。
「出力を調整するの、けっこう大変なのよ?」
「でも練習しておいたほうが、暴走の心配をしなくて済みます」
「まあ、そうね」
だから、こうして弟妹たちにも、練習を兼ねて披露しているのだ。
それだけではなく単純に、魔法が怖がられるだけではなく、こうして喜んでもらえるのが嬉しい、という気持ちもある。
そのとき、バサッという音が聞こえて振り返ると、ダニエルが蒼白な顔色でこちらを見つめて突っ立っていた。
落とした小さな箱を拾いもせずに、焦ったように大股でこちらに近付いてくると、わたしに向かって口を開く。
「ツェツィーリエ嬢、これは……」
「なあに?」
「手品……ですか」
「そうよ、手品。覚えたの」
そうしれっと答えると、彼は半目でわたしを眺める。
「疑うのなら、訊かなければいいのに」
肩をすくめて答えると、彼は腕を組んで片方の手を顎に当てて、なにやらブツブツと呟いている。
「いや……でも、可能……か? 手品で? でも、まさか……」
混乱の最中にいる伯爵令息を立たせたままもなんなので、テーブルを挟んだ椅子を勧めると、彼は遠慮せずにドカリと腰掛け、そして頭を抱えた。
「信じたくない……」
「じゃあ信じなければいいんじゃないの」
どうやら彼の中では、あれは手品ではなく魔法だという説が勝ったようだ。
パッと顔を上げると、やけくそのように大声を上げた。
「ああ、そうなると話が全然違ってきます!」
「どうなるの?」
「予想もつきませんよ、こんなの!」
「だから、手品よ」
にっこりと笑って答えると、彼は苦虫を嚙み潰したような顔をしてみせた。
そうしているとヤナがこちらにやってきて、先ほどダニエルが取り落とした箱を目の前に差し出した。
「お嬢さま、チェンバレンさまがお持ちになったケーキですが……」
箱の中身はケーキだったようだ。
ヤナがそうっと箱を開けると、ケーキは哀れ、ぐちゃぐちゃに崩れてしまっていた。
「ああ、すみません。驚いて落としてしまいました。というか、今、それどころじゃないんですが……」
ダニエルはそう言ったが、ヤナは構わず、わたしのほうにずいっと箱を寄せる。
「お嬢さま、お願いします」
「えっ」
驚くダニエルを他所に、わたしはケーキを指差す。
するとじりじりと、クリームと、乗せられていたはずのフルーツが、元あっただろう位置に寄せられていき、美味しそうなケーキの完成となった。
ポカンと口を開けるダニエルは放っておいて、ヤナは箱を持ち上げると、うん、とひとつ頷く。
「修復魔法は本当に便利です。これはいくらでも使ってください。兄さんの何倍も役に立ちます」
「辛辣ぅ」
控えていたカレルは、やけくそになってハハハと笑う。
その発言に、ダニエルはバッとヤナのほうに振り返った。
「今……魔法って言った?」
「言いましたが、手品です。魔法のようにすごい手品という意味です。お嬢さまの手品は一級品です。誰にも見破れません。お嬢さまはすごいです」
ヤナは堂々とそう答える。
これは、『秘密を守れる性格』なのかどうか、判断が難しい。
というか、修復魔法はヤナにさんざん使わされて、確実に魔法陣なしで発動できるようになった。練習って本当に大切だ。
「ケーキはみっつのようですが」
瞳をキラキラと輝かせてヤナが指摘してくる。
「ふたつは弟たちに。あとひとつはヤナが食べるといいわ」
「ありがとうございます」
この塔において、ヤナの機嫌を取っておくことは大事だ。
正直、魔女などより余程怖いと思うのだが、それを言ったらまた怖くなる気がするので、黙っておく。
ヤナが立ち去ったあと、ダニエルは大きくため息をついた。
「まさか、受け入れている人間までいるとは思いませんでした……」
「手品としてね」
そう口を挟んだが、ダニエルは無視して話を進める。手品だということで納得はしないのだろう。
「できれば、見なかったことにしたいんですがね。ツェツィーリエ嬢が言うように、これは手品だと。それが一番丸く収まる。国が混乱することは避けたいですし」
「賢明な判断ね」
「それには、ツェツィーリエ嬢がなにも行動を起こさないということが前提になるんですが……。まさか、王家に喧嘩を売るつもりではないですよね?」
「そちらの対応次第ね」
わたしがそう応じると、彼は腕を組んで、うーんと考え込んだ。
敵対する可能性がある以上、黙っておけるものでもないのだろう。
「どうするの? あなたの主人には報告しないといけないのかしら」
「報告……するとしても、なんて言えばいいか……」
眉根を寄せて思案しているダニエルに、わたしは声を掛ける。
「わたしが代わりにしてあげましょうか?」
その揶揄いの混じった提案に、彼は不思議そうに首を傾げた。
「でもツェツィーリエ嬢は、この塔から出られないんでしょう? 今のが魔法なのだとすれば」
「出られるわよ。先日も、ヘイグ公爵家にお邪魔したし」
「はあっ?」
「公爵家の人たちに訊いてみれば?」
わたしの口調で、それが噓ではないとわかったのだろう、彼は目と目の間を指で揉んだ。
「『封印の塔』の効果のほうが噓で、魔法のほうは真実だなんて、笑えない……」
「またどこかに閉じ込めるのかしら? まあ、どこでも逃げ出せると思うけど」
「そうですか……」
テーブルに肘をついて、額に手を当て、またため息をついている。
それから疑わし気な視線をチラリと向けて、念押ししてきた。
「王家に復讐とか考えてないですよね?」
「今のところは」
「お願いですから、問題を起こさないでくださいね……。なにごとも起きなければ、王家だって今まで通り、なにもしないはずです」
「肝に銘じておくわ」
そう返して、にっこりと笑う。
「そちらも、せいぜい、わたしの機嫌を取っておくことね」
「なんて人が悪い……」
「今まで王家にされたことに比べたら、これくらい可愛いものだと思うわよ。わたしの優しさに感謝してよね」
わたしの冷え冷えとした声にピタリと動きを止めると、ダニエルは何度目かもわからないため息をついて、背もたれに身体を預けた。
「まあ……それもそうですね」
魔女だということを受け入れたのか、それとも考えることを放棄したのか、苦悩するのはやめたようだ。
「現状、私もまったく報告しないわけにはいかないでしょうが、だからといって、王家が魔法を信じて対策を練るかどうかは怪しいですね。現状維持、というところでしょうか」
「そんなところかしらね」
とはいえ、それをそのまま信じるのも危うい。
だからわたしは告げた。
「言っておくけど、わたしは負けないから」
わたしはもう、泣いてベッドに潜り込むだけの無力な子どもではない。理不尽には対抗する。そして戦う。
その決意を感じ取ったのか、わたしの宣言に、ダニエルは片方の口の端を上げた。
「勝てる人、いるんですか?」
「いませんよ。お嬢さまが最強です」
黙って話を聞いていたカレルが、胸を張ってそう付け加える。
ダニエルはその言葉に眉を顰め、カレルに訊いた。
「君……なに?」
「僕は、お嬢さまの弟子です」
それを聞いたダニエルは、何度も目を瞬かせたあと、ぼそりと漏らす。
「もう……これ以上、混乱させないでくれ……」
疲れを声に滲ませて、彼は天を仰いだ。




