24. 明かされる
本棚の隅に、何度も読んで擦り切れてしまった絵本がある。
『白き魔女』と『黒き魔女』のおとぎ話の絵本だ。
ときどき、なんとなく読んでいる。今のこの現状の確認をしたくなるのかもしれない。
その日もわたしは、二階のソファで寝そべって、その本を読んでいた。
開け放した入り口の扉から、カレルに呼びかけられる。
「お嬢さま、そろそろ勉強……ああ、読書中でしたか」
「読書っていうほどでもないわよ」
わたしは身体を起こすと、片手に閉じた絵本を持って、ひらひらと振ってみせた。
それからカレルのほうを振り返ってみれば、彼は入り口で立ちすくんでいる。
「お嬢さま、それ……」
まさかわたしがこんな本を読んでいるとは、思いもしなかったのかもしれない。
「わたしの先祖の話よ」
自嘲的に鼻で笑って答える。
「あと、わたしの中にいるらしい、『黒き魔女』の話」
その卑屈な言葉に、カレルは返事をしなかった。
「『黒き魔女』は、暴虐の限りを尽くしたんですって。どんな酷いことをしたのかしら」
わたしは目を伏せて続ける。
「それじゃ、嫌われても仕方ないわよね」
八つ当たりしてもいい、とはいえ、こんな返事に困ることを言っても仕方ない、と思い直してわたしは顔を上げる。
「ええと、勉強の時間……」
するとカレルは険しい表情をして、大股で入室してくると、わたしの手からひょいと絵本を奪い取った。
「えっ」
驚くわたしには構わず、彼はパラパラと絵本をめくり、そして乱暴に閉じた。
「くだらない、おとぎ話です」
尖った声で、そう短く言い放つ。
「えと……」
「それなのに、王家はこの絵本が真実だと言い張っている」
「でももう、みんなおとぎ話だと思っているわ。本当に真実だと思っている人はいないんじゃないかしら」
ダニエルがいい例だ。
「そうでしょうか。あまりにも浸透しすぎて、皆、考えることもなく『白き魔女』は善で、『黒き魔女』は悪だと思っている。ついでに言えば、『白き魔女』に協力して『黒き魔女』を倒した王家も、善ということになっています」
「それはそうだけど」
どうしたんだろう。やっぱり『黒き魔女』の信奉者であるカレルにとっては、気に入らない話なのだろうか。
「そしてヘイグ公爵家は王家の庇護のもと、今なお存続している」
「それもそうだけど。念のため、ってやつじゃない? わたしがこの塔に連れてこられたのも、念のため、ってことだったわ」
あまりの剣幕に、わたしはなぜか、王家を庇うような返答をしてしまった。
だがカレルは続けた。
「しかし果たして、このおとぎ話を丸々信じてもいいものでしょうか」
「カレル?」
ふいに彼の声が低くなり、わたしは目を瞬かせてその顔を見つめる。
だって彼は、誰よりも『黒き魔女』、そして魔法を信じているのではないのか。
「カレルは魔法の存在を信じているんでしょ。むしろカレル以外に信じている人がいるのって話だわ」
「そこは疑っていません」
そうきっぱりと断じる。
「じゃあどこを疑っているのよ」
「お嬢さま、この話、おかしいと思いませんか」
「おかしい?」
いったいなにを言っているのか。
戸惑うわたしに向けて、カレルは絵本の表紙を見せながら、口を開いた。
「『カケラ』ですら、世界を滅ぼせる。ならば本体である『黒き魔女』の魔力はどれほどのものだったのか」
確かに。『黒き魔女の魂のカケラ』を持つだけのわたしですら世界を滅ぼせるというのなら、『黒き魔女』はもっともっと凄かったはずだ。
「そんな『黒き魔女』を封印できるほど、『白き魔女』の魔力も強大だったのか」
カレルは絵本の表紙を、バン、と平手で叩いた。苛立ちを込めて。
「とてもそうは思えません。だって完全な封印は結局できなかった。『黒き魔女の魂』が朽ち果てるまでに、八百年よりもっともっと長い時間が必要なんです。かなりの魔力差があったと思われます。それに、そこまでの強大な魔力を持つ者が何人もいたら、とうに世界は滅亡してますよ。ではなぜ、『黒き魔女』は敗れたのか」
わたしは勢いに押されて、もう口を挟むことはできなかった。
「考えられるとすれば、騙し討ちです。『白き魔女』を『黒き魔女』は信頼しきっていた、だから騙された、とみるほうが自然では?」
そう問いかけてはくるが、答えを期待しているわけではなさそうだ。
彼の中では、それが間違いのない真実なのだ。
「『白き魔女』と王家は、『黒き魔女』のその強大な魔力を恐れた。あるいは、邪魔だった」
そう吐き棄てるように言うと、カレルはまた絵本の表紙を自分のほうに向けて、ため息交じりで続けた。
「権威ある歴史書ですら、都合のいいように捻じ曲げられる。このおとぎ話も、きっとそうなんです」
そして、しんとした静寂が訪れる。
わたしはその空気に耐えられなくて、言葉を発した。
「ど、どうしてそこまで確信を持っているの?」
「我が家に伝わる話と違うからです」
「我が家?」
いったいなんの話なのか。
我が家。地下室に魔導書があるという家。ヤナが、古くて建て直したいと愚痴っていた家。
その家に住む、カレルたち。
「カレル……あなた」
ごくりと喉が鳴った。
「いったい、何者なの?」
今が訊くときだ、と感じた。
訊けばなんでも答えるとカレルは言った。
その言葉に噓はなかった。きっと答えてくれる。
それに彼は、今、『訊け』という願いを込めて、この話をし始めたのだ。
あとはわたしが、それを受け入れられるかどうかだ。
カレルはゆっくりと視線を動かし、わたしの赤い瞳をひたと見据えた。
彼の、隠しごと。
わたしは彼の唇が動き出すのを、ただ見つめて、待った。
そしてそれは、明かされる。
「僕は、『黒き魔女』の弟子の末裔にあたる者です」
『世界中に散らばった、黒き魔女の意思を継ぐ弟子たちも滅ぼされた』
――おとぎ話の、一節だ。




