殺人鬼に遭遇しました
空き地にて。
僕とアイラーゼはいつものようにそこにいた。
しかし、そこで行っていることは魔術でも武術の鍛錬でもない。
今、都市を騒がせている一つの事件について話していた。
「子供の惨殺事件。最近その話ばっかり聞きますね」
「ホント。ええっと、確か犯人ってまだ捕まってないんだっけ?」
「そうらしいですね」
子供の惨殺事件。
二日前に起こった、シルーグ都市中で囁かれている一つの事件だ。
この異世界。
殺人というのはそこまで珍しくないのだが、何分今回の殺され方がかなり惨たらしい惨殺だったようだ。
まだ被害者は一人しか出ていないが、犯人は捕まっていない。
それを考慮すれば、また犯行が続く恐れもある。
早く捕まって欲しいものだ。これでは怖くて夜も眠れないじゃあないか。
「アイラーゼも気を付けてくださいね。もしかしたら襲われるかもしれませんよ?」
「その時は返り討ちにするから大丈夫よ」
自信たっぷりにアイラーゼが言い切った。
その油断が命取りになるのだと言って聞かせてやりたい。
ま、彼女も弱くない。
並大抵の大人との喧嘩なら勝ってしまうほどだ。
身のこなしもいいので、襲われても最悪は逃げ切れるだろうし、大丈夫だろう。
もちろん僕の場合は全力で逃げます。
殺人鬼と戦うなんてそんな勇気はありません。
とはいえ、だ。
シルーグ都市の衛兵も犯人捜索に尽力している。
それを考えれば犯人が捕まるのも時間の問題か。
「どっからでもかかって来なさい!」と意気込むアイラーゼだが、その意気込みも恐らく無駄になるだろう。
不安に思う部分があることも否定はできないけど。
ま、元の世界でも殺人事件くらい起きてたんだ。
それが少しだけ身近になった感覚。
そんなものだ。
時間が経てば解決する。
そんな風に楽観視していた。
楽観視してしまっていた。
事件が動いたのはそれから数刻後。
「じゃあ、また明日もここで!」
「はいはい」
最近ではもはや当たり前となっている声かけ。
それと共にアイラーゼと別れた。
時間はもう夕方を過ぎている。
惨殺事件が起きてからはマリーナも早くに帰ってこいとうるさい。
親の気持ちもわからないでもないから反論することはないが。
急ぎ足で家まで向かうとしよう。
空き地から家に帰るには、路地裏を通る方が近い。
僕はいつも通りに近道するために、路地裏を進んでいく。
それが失敗だった。
もう少し警戒するべきだった。
路地裏の先。
僕はそこで、一人の人物と出くわした。
出くわしてしまった。
「……え?」
僕は立ち尽くす。
なぜか。
見てしまったからだ。
薄暗い路地裏の先に起こった残虐なる行為。
子供が一人、殺されていた。
「………………」
体に何回も、何十回もナイフで刺されたような傷跡。
目は抉り出され、内臓は腹から飛び出ている。
惨殺事件。
その言葉が頭に浮かんだ。
強烈な吐き気が、来る。
「うっぷ」
鼻を刺激するのは血の匂い。
それが酷く不快で堪らない。
人の死体は初めて見た。しかもこんな無残な死体だ。
胸が締め付けられるような苦しさを覚えた。
だが、それでも。
僕は耐えなければならなかった。
なぜか。
危険だからだ。
何が危険なのか。
一人の人物が視線の先にいるからだ。
全身真っ黒のローブに身を包んだ、殺人鬼が。
「……あらら。見られちまったか」
不気味な声が路地裏に静かに響く。
黒ローブの人物。
その手に持っているのは血に濡れたナイフ。
間違いない。
こいつが例の殺人鬼だ。
「くひゃひゃ」
「何が、おかしいんですか……?」
「そりゃ、笑っちまうぜ。もう一人、殺さなくちゃならねえ子供が出てきたんだからよぉ」
黒ローブは笑っていた。
声からして男だろうか。
そいつが僕を見て笑っていた。
否、嗤っていた。
「……っぅ!?」
殺気が向けられる。
純粋なる殺意。
ディノールとの稽古やアイラーゼとの試合では決して向けられることのないものだ。
それが今、僕に向けられている。
ハッキリ言おう。
少しチビった。
「はぁ、はぁ」
冷や汗が流れる。
当たり前だ。
純粋な殺意を向けられることなんて初めてなんだから。
仕方のないことなんだ。
足がガクガクと震え、息が荒くなる。
思えば僕は温室育ちだった。
限りなく良い環境。
限りなく安全な場所。
その両方があった。
だからこそだろう。こんな状況になれば思うように体が動かないのは。
一歩。
殺人鬼が、動いた。
動いたのはその一歩だけ。
客観的に見れば、大したことのない一歩。
殺人鬼とて、僕に近づこうと思って踏み出したのかさえ怪しい。
そんな一歩に僕は恐怖した。
「うぁああああ!!」
有言実行。
僕は全力で逃げることを選択した。
踵を返して、元来た道を戻る。
とりあえず大通りに出よう。
薄暗くなってきたので人気はほとんどないだろうが、路地裏よりはマシな筈だ。
「逃しゃしねーよ!」
僕はチラッと後ろを見る。
ナイフを持った殺人鬼は、真っ直ぐと僕に狙いを定めていた。
追いかけられている。その事実に恐怖を覚える。
「やるしか、ない」
懐から魔紙を取り出す。
今日は魔術を刻んだ魔紙はそう多く持って来ていない。
その少ない中でやりくりするしかない。
魔紙を魔導演算機にセットする。
発動するのは四級水属性魔術、アイシクル。
僕の通った道の足元から、ピキピキと音が立ち始める。
「んだと……ッ!?」
出現したのは氷柱だ。
氷柱といっても大きさは大したことはない。
せいぜい脛くらいまで伸びた氷の棘というだけ。
しかし流石に男も驚いたらしい。これなら足止めには持ってこいだろう。
今のうちに逃げる。
「舐めんなガキがァ!」
「んな!?」
甘かった。
いや、僕の判断に後悔はない。
足止めするのにアイシクルは持ってこいの魔術だと思っていた。
だがしかし、まさか殺人鬼が壁を地面と変わらない要領で駆けて来るとは流石に予想できなかった。
あれは知識としては知っている。
武装魔術、『壁駆け』だ。
足下に魔力を帯び、それによって重力に逆らいながら壁などを走ることができる。
僕がアイシクルを発動したのは地面に対して。
壁ではない。
だからこそ、壁を突破口にしたのだろう。
僕の足止め用の魔術はあっさりと躱された。
殺人鬼が僕に到達するまで、あと三歩といったところか。
それほど近い位置まで追いつかれていた。
冷や汗がぶわっと流れる。
恐怖感に駆られて懐に手を入れる。
恐らく今日一番の速さだろう。
懐から取り出した魔紙を即座に魔導演算機に差し込んだ。
四級水属性魔術、ミストフィールド発動。
僕を中心とし、霧が視界を遮る。
「おま……ッ。どんだけ魔術を使いやがる……!」
男が「どこだ!」と、探るような鋭い声を出す。
霧のおかげで満足に僕の姿が見えないのだろう。
もちろん僕も見えなくなるが、ほぼ毎日通っていた路地裏の道だ。
見えなくてもある程度はわかる。
走りながら、続けてもう一度魔紙を差し込む。
魔導演算機から魔方陣が出現するのを見る暇もなく、すぐさま後ろの、殺人鬼の方に右腕を突き出した。
僕の右腕から――正確には魔方陣を展開する魔導演算機から電撃が迸った。
四級雷属性魔術、エレクトリックだ。
「――グギャァッ!?」
奇声が上がる。
霧のせいで奴の様子は見えないけど、恐らく直撃したのだろう。
視界を遮ってからの電撃魔術。
流石に避けることはできなかったようだ。
直撃しただろうことにほっと一息。
もちろん油断は禁物。
まだ助かったと決まったわけじゃあない。
走り続けると霧を抜ける。
全身をそのまま続けつつ、チラリと後ろに視線をやる。
追って来ない。殺人鬼が姿を見せない。
まさか、倒せた、とか?
なんて思ってたのが仇となった。
立ち込める霧の中から黒い影が現れ、霧の中から殺人鬼の姿が現れた。
所々がボロボロの黒いローブ。
どうやら電撃は直撃したようだが、相手を倒すとまではいかなかったらしい。
「テメェ。殺す。絶対に殺す」
呪詛のように呟く。
その姿はまさに鬼のようだ。
僕の股間がまたもや湿り気を帯びる。
どうすればいい。
四級魔術でも仕留められない、となると残るのは三級魔術だ。
しかし三級魔術となると相応の集中力がなければまともに発動することはできない。
なのにこの距離。
ほとんど近接している状況だ。
せめてもう少しだけ距離があれば、と思わずにはいられない。
どうする……。
ふと視線を前へと向ける。
薄暗い中で真っ直ぐと目を向けた先。
大通りが見えた。
あと少しで大通りに辿り着く。
時間はすでによるに差し掛かっている。
しかし惨殺事件から夜の警備は厳重になっている筈。
大通りに出られれば、なんとかなるかもしれない。
「やってやる」
一枚の魔紙を取り出す。
足止めのための魔術なら多めに持ってきている。
四級水属性魔術、ウォータレインを発動した。
黒ローブの頭上から、大量の豪雨が降り注ぐ。
「次はなんだァ!?」
驚きの声というよりは、怒号。
だけど、それにビビっている暇はない。いや、チビってはいるけど。
僕は続け様にもう一度エレクトリックを放つ。
前にアイラーゼと初めて会った時と同じだ。
雨に濡れた殺人鬼は電撃によって感電した。
ギャァッ、と悲鳴が背後から上がった。
だけど気にしない。
気にする前に走りきる。
「ガキがァ――――ッ!! 次に会った時は殺す。殺すからなァ!!」
絶叫が響き渡る。もはや僕は半泣きだ。鼻水すら出た。
一歩、また一歩の感覚が長かった。
だが、その長い時間も終わりが来る。
大通り。
僕はそこまで五体満足で辿り着くことができた。
「…………っ!」
もちろん油断などしない。
そこからも全力で家まで走っていった。
大通りに出たからだろうか。
家まで走る時、背後からはもう黒ローブが追ってくるようなことはなかった。
そして僕は家に帰ってきた。
「もうレイ。あれほど遅くならないように……って、どうしたのよ!?」
家に帰るとマリーナが出迎えてくれた。
僕の顔を見て心配するような声が上がった。
よくよく考えてみると、今の僕は呼吸が荒く全身から冷や汗が止まらない状態だ。目や鼻から体液も止めどなく流れている。
表情も恐らく真っ青だろう。
でも、無理もないと言い訳させて欲しかった。
なにせ、初めての殺意を感じた。
本気で殺されるかと思ったのだ。
それを受けて、普段通りにしろという方が無理なのだ。
荒い呼吸を抑えてとにかく家に入る。
一刻も早く外の世界から安全な中の世界に入りたかった。
僕は生きて家に帰って来ることができた。
その生を実感したかった。
★
僕は自分が体験したことを全て話した。
話を聞いてくれたのはディノールとマリーナの両方。
それぞれが僕の話を聞いて、真剣な顔をしている。
そら、当然か。
都市を騒がせている殺人鬼に息子が出くわしたというのだから。
ともかく、僕は殺人鬼がどんな奴だったか。
どうやって乗り切ったか。
それらを二人に対して話した。
「……なるほど」
全部話し終えた時、ディノールは神妙な顔付きで腕を組んだ。
「姿を聞く限り、最近話題になっている"人斬り"かもしれんな」
「"人斬り"、ですか?」
物騒な単語に、僕は首を傾げた。
ディノールは言葉に頷く。
「ちまたで話題になってる犯罪者でな。騎士でも手を焼いていると噂だ」
「そんな奴がなんでこの街に……」
「わからん。ただ、話によれば隣町に出没していたということを聞いた。もしかしたらこの街に流れてきたのかもしれん」
そんな危険な奴と出くわしたなんて。
今考えてもよく生きてるな、僕。
"人斬り"と呼ばれる犯罪者のことを思い出して、震える。そんな最中でも、マリーナとディノールがあーだこーだと話し合っていた。
「まあ、シルーグの衛兵が何とかしてくれるだろう」
「それを願うしかないわね」
だが、最終的にはやはり衛兵に任せるということで話が一致したらしい。
いや、むしろそれ以外に僕らにやれることなどないだろう。
「とにかく今日はお前はゆっくり休めよ」
「……そうですね。正直、疲れました」
疲れた。
本当に心の底からそう思う。
死への恐怖。
それをモロに味わった。
正直に言えば、体力以前に精神的に限界だった。
疲れた体を引きずるようにして動かす。
早くベッドに入りたい。
そんな時だ。
「レイバース」
後ろから、ふとディノールから声がかかった。
「……ともかく、無事で何よりだ。お前の命はお前だけのものじゃない。あまり心配をかけるなよ」
心配の言葉。
親ならば当たり前の気遣いとも言えるだろう。
その気遣いの言葉を聞いて――僕は震えた。
そう。
心配。
心配だ。
それは息子にかけられた言葉であり、気遣い。
レイバースにかけられる心配。
もし、もしここで僕が失敗していたらどうなっただろうか。
僕が死ぬ。それは当然のこと。
しかしそれ以外のことについては考えてなかった。
レイバースが死ねば悲しむ人がいる。
それを忘れてはならなかった。
レイバース・アルノードという人生を僕が背負っている以上、そこに気付くべきだった。
危ない真似はするべきではなかったんだ。
それを思った時。
僕は……。
「うぇ……」
吐き気が込み上げてきた。
失敗できない。
今度こそ、成功しなければならない。
それは誰の為だろうか。
自分のため……?
違う。
レイバースという人生を背負ってしまった、僕の使命だ。
新たな生を奪い取ってしまった、僕のせめてもの償いだ。
だから死ぬわけにはいかない。
失敗するわけにはいかない。
そんな感情が僕の中に入ってきた。
入ってきてしまった。
――僕は外に出ることへの恐怖感に負けてしまった。
だから、次の日から僕は家に引きこもった。




