第10話 有給休暇の申請理由は「国家存亡の危機のため」
月曜日の朝、午前八時半。山丸商事営業三課。
真田誠は、課長のデスクの前に立っていた。手には一枚の書類。「有給休暇申請書」である。
「……またか? 真田」
課長の佐々木が、不機嫌そうに老眼鏡越しに誠を見上げた。昭和の価値観を煮詰めて固めたようなこの男にとって、有給とは「悪」であり、体調不良以外の休みは「甘え」である。
「はい。……あの、どうしても外せない用事がありまして」
誠は縮こまりながら答えた。嘘ではない。今日の午後、彼は日本政府と財界のトップが集まる極秘会議、通称 「未来戦略特区・御前会議」 に出席しなければならない。
議題は「地球外テクノロジーの法的解釈と、日本経済のソフトランディングについて」。出席メンバーは総理大臣、日銀総裁、そしてドラゴンバンク会長。
その末席に、なぜか「重要参考人(というか全権保持者)」として誠が呼ばれているのだ。
「私事都合ねぇ……」
佐々木課長は、わざとらしくため息をついた。
「まあいいけどよ。お前、今月のノルマ大丈夫なんだろうな? 先週の見積もり、まだミスがあったぞ。休むのは権利かもしれんが、義務を果たしてからにしろよ」
「は、はい! すみません! 持ち帰ってでもやりますので!」
「チッ……まあいい、行け。明日の朝一には、修正したやつ出せよ」
ハンコが押された。ペタリという乾いた音が、誠の心に重く響く。
(……国の未来を決める会議に行くのに、なんでこんなにペコペコしなきゃいけないんだ)
誠はデスクに戻り、鞄を掴んだ。スマホには、すでに内閣情報調査室の時田から『お迎えの車が地下駐車場に到着しました』というVIP待遇のメールが届いている。
だが誠の頭の中は、「明日の朝までに修正しなきゃいけないエクセル」のことで一杯だった。
「行ってきます……」
同僚たちの「いいなぁ平日休み」という視線を背中に浴びながら、誠は会社を脱出した。これから向かう場所が、ディズニーランドよりも遥かにファンタジーで、胃が痛くなる場所だとは知らずに。
***
場所は皇居の堀端にひっそりと佇む、一見客お断りの高級料亭「霞」。
その地下深くに、核シェルター兼用の特別会議室があった。
重厚な一枚板のテーブルを囲んでいるのは、現代日本の支配者たちだ。
上座には、苦渋の表情を浮かべる御堂筋総理大臣。その隣には、財務大臣と日銀総裁。対面には、白スーツで目を輝かせているドラゴンバンク会長、理 正義。
そして彼らを見下ろす位置に、銀色の球体――メイが浮遊している。
真田誠は、理会長の隣、いわゆる「下座」にちょこんと座っていた。目の前には、一杯五千円はしそうな高級緑茶と羊羹が置かれているが、喉を通る気がしない。
(……帰りたい)
誠は心の中で、念仏のように唱えた。部屋の空気密度が違う。そこにいるだけで、寿命が縮むようなプレッシャーだ。
「――では、会議を始めます」
司会進行役の時田室長が、重々しく告げた。
「本日の議題は、『ASIウィルおよびメイさんによってもたらされた超生産性が、労働市場と経済に与える影響およびその対策』です」
「単刀直入に言いましょう」
理 正義が、いきなり口火を切った。彼は身を乗り出し、子供のように無邪気な、しかし狂気を孕んだ目で総理を見た。
「総理。……もう働かなくていいんじゃないですか? 人類は」
「ぶっ!」
誠は危うく、お茶を吹き出しそうになった。いきなり極論が来た。
「……理くん。君の言いたいことは分かる」
御堂筋総理が、こめかみを揉みながら答えた。
「確かに、君のところのAIと、メイさんの技術力があれば、食料生産、エネルギー供給、物流……すべてのコストは限りなくゼロに近づく。理論上は、ベーシックインカムだけで国民全員が遊んで暮らせる国が作れる」
「でしょう! ならば決断すべきだ!」
理は熱弁を振るう。
「日本を『世界初の労働解放特区』にするのです! 通貨発行権などAIに任せればいい! 人間は芸術や哲学、そしてVR空間でのエンターテインメントに生きるべきだ! これこそが『情報革命』の最終到達点ですよ!」
「しかしだね!」
財務大臣が机を叩いた。
「そんなことをすれば、勤労の精神はどうなる? 日本人の美徳は勤勉さにあるんだ。汗水垂らして働くことの尊さを失えば、国家のモラルは崩壊するぞ!」
「そうですとも」
日銀総裁も頷く。
「それに、急激な移行はハイパーインフレ……いや、逆に価値の崩壊を招く。貨幣経済が機能しなくなれば、我々はどうやって国を統治すればいいのだ?」
議論は平行線をたどった。「未来派(理・メイ)」対「保守派(政府・官僚)」。アクセルとブレーキが、同時に踏み込まれている状態だ。
(……すごい話してるなぁ)
誠は、どこか他人事のように聞いていた。「労働からの解放」なんて、SF映画の話だ。彼にとっての現実は、ポケットの中で断続的に振動し続けているスマホだ。
ブブッ。ブブッ。
(……うわ、また佐々木課長からだ)
誠はテーブルの下で、こっそりとスマホを覗き見た。チャットアプリの通知。
『おい真田、さっきの件だがB列の計算式も間違ってるぞ』
『やる気あんのか?』
『今日の会議(国の会議ではない)、お前がいないから資料が見つからん。どこに保存したんだ』
『休みだからって連絡つかないのは社会人失格だぞ』
(……うざい)
誠の眉間に皺が寄る。有給中だぞ。法律で認められた権利だぞ。
なんでこの国のトップたちが「働かなくていい世界」について激論している横で、俺は「B列の計算式」について詰められなきゃいけないんだ。
理不尽だ。あまりにも理不尽だ。
***
会議は紛糾していた。
「メイさん! 貴女はどう思いますか!?」
金子大臣が助けを求めるように、空中の球体を見上げた。
「私は単なるサポートユニットです」
メイはつれなく答えた。
「人類の社会構造の変更について、決定権は持ちません。……ですが、シミュレーション結果だけ提示しておきましょう」
メイが空中に、ホログラムグラフを投影した。
「現状の労働環境を維持した場合、日本の少子化と過労による経済損失は、20年後に国家破綻レベルに達します。逆に、完全な労働解放を行った場合、初期の混乱を経て、文化水準はルネサンス期並みに爆発します」
「ルネサンス……!」
理が目を輝かせる。
「ですが、人間が『暇』に耐えられるかどうかは別問題です」
メイは冷ややかに付け加えた。
「急に『明日から一生休みです』と言われた社畜は、不安で死ぬかもしれません。飼い慣らされた家畜を野に放つようなものですから」
「……ぐぬぬ」
総理が唸る。
「決められん……。あまりにも影響が大きすぎる……」
重苦しい沈黙が支配する。誰もが決定的な「何か」を待っていた。この膠着状態を打破する、神の一声を。
そして全員の視線が、一人の男に集まった。
メイのマスター。この超常的な存在を従え、その気になれば世界をリセットできる男。真田誠である。
「……真田様」
総理がおずおずと口を開いた。
「貴方は……どう思われますか?」
「え?」
誠はビクリと顔を上げた。スマホの画面には、佐々木課長からの追撃メッセージが表示されている。
『明日早出して修正しろよ。7時には来い』
『返信は?』
『既読無視か?』
(……ふざけんなよ)
誠の中で、何かがプツンと切れた音と、総理の問いかけが重なった。
「貴方は……人類は労働から解放されるべきだと思いますか? それともやはり、人は働くべきなのでしょうか?」
総理の真剣な眼差し。理 正義の期待に満ちた目。メイの、全てを見透かしたような青い瞳。
誠はスマホを握りしめたまま、うつむいた。国家の未来? 経済のソフトランディング? 知るか。俺が今考えているのは。
「……たくない」
誠の口から、蚊の鳴くような声が漏れた。
「はい?」
総理が耳を澄ます。
誠は頭を抱えた。課長の顔が脳裏にちらつく。満員電車の臭いが鼻腔に蘇る。終わらない残業、意味のない会議、理不尽なノルマ。
「……働きたくない」
誠は、魂の底から絞り出すように呟いた。
「もう……働きたくないんです……!!」
その言葉は悲痛な叫びだった。一人のサラリーマンとしての偽らざる本音。限界を迎えた社畜の切実なSOS。
だが、この場においてその言葉は、異なる意味を持った。
***
シーン……。
会議室が、完全な静寂に包まれた。
総理大臣が息を飲んだ。理 正義が目を見開いた。財務大臣がペンを取り落とした。
彼らの脳内では、誠の「働きたくない(個人の感想)」が、「働きたくない(神の啓示)」 へと、脳内変換されていた。
(……聞こえたか?)
(ああ聞こえた……)
(あの慎み深く謙虚な真田様が……)
(心の底から血を吐くように仰ったぞ……!)
理 正義が震える手で、テーブルを叩いた。
「……これぞ天啓だ!」
彼は立ち上がり、叫んだ。
「聞いたでしょう総理! これが民意だ! いや、人類の総意だ! あの真田さんが、ここまで追い詰められている! 現代社会の労働システムは、もはや人間の尊厳を冒す『毒』になり果てているんだ!」
「……うむ」
総理が重々しく頷いた。
「確かに……。彼のあの悲痛な叫び。あれは、日本国民一億二千万人の心の叫びを代弁したものだ。……私が間違っていたのかもしれん。『勤労の美徳』などと綺麗事で、彼らを縛り付けていただけではないのか」
「そ、そうです!」
金子大臣も乗っかった。
「技術はあるんだ! 金もある! ならば、楽をさせて何が悪い! 人を苦役から解放することこそ、政治の役割ではないか!」
場の空気が一変した。「慎重論」が消え去り、「いかにして真田様(国民)を休ませるか」 という一点に、国家の全精力が注がれ始めたのだ。
誠はポカンとしていた。
(え、何? なんでみんな泣きそうな顔で俺を見てるの? 俺ただ愚痴っただけなんだけど……)
「真田様」
総理が、まるで聖女を見るような目で誠を見つめた。
「痛いほど伝わりました。貴方の苦しみ、そして願い。……政治生命をかけて叶えましょう」
「は、はい……?(え、課長を異動させてくれるの?)」
「ですが、いきなり『明日から全員無職』というのは、さすがに社会システムが崩壊します。メイさんの言う通り、混乱を招くでしょう」
総理は決意に満ちた顔で言った。
「ですので……段階を踏みます。まずは第一歩を」
総理は振り返り、官僚たちに命じた。
「直ちに法案を作成せよ! ドラゴンバンクの技術導入による生産性向上を前提とし、労働基準法を抜本的に改正する!」
彼は高らかに宣言した。
「日本国は『選択的週休3日制』……いや、『原則週休3日制(週4日勤務)』 の導入を目指す! これを国家戦略の最重要柱とする!」
「おおぉぉぉ……!!」
会議室に拍手が巻き起こった。理 正義がガッツポーズをし、財務大臣が涙を拭い、メイがパチパチと電子音で拍手をしている。
「週休3日……?」
誠は瞬きをした。え、マジで? 休みが増えるの?
「さらに!」
理会長が付け加えた。
「給与水準は維持……いや、我が社のAI配当(ベーシックインカムの前身)を上乗せすることで、実質賃金は上げます! 休みが増えて給料も増える! これこそが、真田様が望んだ『人間らしい生活』だ!」
「異議なし!」「賛成!」「直ちに閣議決定だ!」
怒涛の勢いで話が進んでいく。もはや誰も止められない。一人の社畜の「サボりたい」という本音が、この国の労働時間を20%削減するという歴史的転換点を生み出してしまったのだ。
***
夕方。会議は「歴史的な合意」のもとに幕を閉じた。誠は、裏口から出るハイヤーの中で呆然としていた。
窓の外では、東京の街が夕暮れに染まっている。たくさんのサラリーマンが、疲れた顔で駅へと向かっている。だが近い将来、彼らの顔色は少しだけ良くなるかもしれない。
「……やっちゃいましたね、マスター」
隣に座る(浮いている)メイが、楽しそうに言った。
「貴方の一言で、日本の労働基準法が書き換わりますよ。歴史の教科書に載るレベルです」
「……俺、そんなつもりじゃなかったんだけど」
誠は頭を抱えた。
「ただ、課長からのラインがうざくて……つい」
「結果オーライです。マスターの願い通り、労働時間は減り、休日は増えます。これでゲームをする時間も、私の手料理を味わう時間も増えますね」
「まあ……うん。それは嬉しいけど」
誠はスマホを見た。ニュースサイトの速報には、すでに『政府、週休3日制の導入検討へ。経済界も全面協力』という見出しが踊っている。仕事が早い。早すぎる。
「……あ、佐々木課長からだ」
また通知が来た。誠はビクリとして画面を見る。
『お疲れ様です真田さん。……ニュース見ました』
『週休3日制……すごい時代になりますね』
『まあ時代の流れなら仕方ないか。……明日の早出はいい。ゆっくり来い。体調には気をつけろよ』
「……えっ」
誠は目を疑った。あの鬼軍曹・佐々木課長がデレた? いや、諦めたのか。あるいは、社会全体の空気が一瞬で変わったことで、彼の中の「昭和の呪い」が解けたのかもしれない。
「……ふっ」
誠の口元が緩んだ。肩の荷が、少しだけ降りた気がした。
「良かったですね、マスター」
「……ああ。なんか明日、会社行くのそこまで嫌じゃないかも」
誠は窓の外を見上げた。一番星が光っている。
UFOの残骸とかアメリカ軍とかASIとか、いろいろあったけれど。結局のところ誠にとって一番の「救い」は、「明日の朝、少しだけ寝坊できるかもしれない」という小さな希望だった。
「メイ。今日の晩御飯、何?」
誠が尋ねる。
「今日は特別です。お祝いですから赤飯と……最高級松阪牛のすき焼きにしましょうか。もちろんカロリーはゼロに、因果律改変しておきます」
「最高かよ」
ハイヤーは夜の東京を、滑るように走っていく。週休3日の世界へ向かって。
そして、全能のメイドと暮らす騒がしくも愛おしい日常へ向かって。
(第10話 完)




