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銀河最強のAIを拾いましたが、僕はただの会社員です  作者: パラレル・ゲーマー


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第1話 その日世界は「お茶の時間」で停止した

 日曜日の午後二時。

 真田誠さなだ・まことにとって、それは一週間の中で最も残酷な時間帯だった。


 休息の安らぎがまだ残っているにもかかわらず、意識の片隅には既に「月曜日」という名の死刑執行人が忍び寄っている。

 あと十数時間後には、満員電車という鉄の棺桶に詰め込まれ、吐き出された先にあるオフィスビルで、数字と謝罪にまみれた一週間が始まるのだ。


「……帰りたくねえなぁ」


 誠は独りごちて、コンビニで買ったおにぎりの包装を剥がした。

 パリパリと音を立てる海苔の感触だけが、今の彼にとって唯一の現実的な刺激だった。


 彼がいるのは、都心から電車とバスを乗り継いで二時間ほどの場所にある、名もなき低山の登山道だ。

 登山といっても本格的な装備が必要な場所ではない。スニーカーで歩けるハイキングコースを少し外れ、人が来ない岩場を選んで腰を下ろしていた。


 眼下には、関東平野のへりにあたる町並みがミニチュアのように広がっている。

 あそこには数百万、数千万の人間がひしめき合い、それぞれの憂鬱を抱えて生きている。

 そう思うと少しだけ気が楽になるかと思ったが、効果は薄かった。


 具のない塩むすびを一口かじる。

 しょっぱい。

 唇についた塩を舌で舐めとりながら、誠は空を見上げた。


 雲ひとつない秋晴れ。吸い込まれそうなほど高い青空。

 皮肉なほどに美しい世界だった。

 三十路を過ぎ、中堅商社の営業職として板挟みの日々を送る誠の心の内とは裏腹に、自然は無慈悲なほど穏やかだ。

 木々のざわめき、遠くで鳴く正体不明の鳥の声。

 それらはすべて「お前一人が悩んだところで世界は何も変わらない」と囁いているようだった。


「はあ……」


 重い溜息が足元のアリを吹き飛ばす。

 スマホを取り出し時間を確認しようとして、やめた。

 画面を見れば、上司からのチャット通知や、明日締め切りの資料のリマインドが目に入ってしまうかもしれない。

 休日に仕事の連絡を無視することは労働者の権利だが、それを見るだけで精神力メンタルは削られる。


「もしもだ」


 誠は二口目のおにぎりを咀嚼しながら、意味のない空想を始めた。

 疲れた現代人がよくやる逃避だ。


「もしも今、巨大隕石が落ちてきて会社が消滅したら。

 あるいは異世界へのゲートが開いて、勇者として召喚されたら」


 そんな妄想を何百回繰り返しただろう。

 もちろんそんなことは起こらない。

 おにぎりを食べ終えたらゴミを袋に入れ、来た道を戻り、バスに揺られて帰るだけだ。

 家に帰って泥のように眠り、明日の朝には死んだ魚のような目でネクタイを締める。それが現実だ。


 最後のひとくちを口に放り込んだ、その時だった。


 世界が割れた。


 比喩ではない。

 誠の感覚としては、空という巨大なガラスケースに、見えない巨人がハンマーを叩きつけたかのように思えた。


 ――ズウゥゥゥゥゥン!!


 爆音ではない。衝撃だ。

 鼓膜を揺らすというより、内臓を直接鷲掴みにされて揺さぶられるような重低音の振動。

 誠が座っていた岩場が微震し、手に持っていたお茶のペットボトルが倒れて転がっていった。


「うわっ!?」


 誠は反射的に身を伏せた。

 地震か? いや、空から音がした。飛行機事故か?

 心臓が早鐘を打つ。背筋を冷たい汗が伝う。


 遅れて突風が吹き抜けた。

 木の葉が舞い上がり、砂埃が誠の視界を覆う。

 だが奇妙なことに「爆発音」はしなかった。

 何かが墜落した時のあのド派手な破壊音や、何かが燃える音は聞こえない。

 ただ、巨大な質量を持つ何かが大気を無理やり押しのけて着陸したような、重苦しい「着地音」だけが山肌に響き渡っていた。


 静寂が戻る。

 鳥の声が消えていた。虫の羽音さえ聞こえない。

 山全体が恐怖にすくみ上がって息を止めたかのような、絶対的な沈黙。


 誠は恐る恐る顔を上げた。

 音の発生源は、ここからそう遠くない。直線距離にして数百メートル。登山道から外れた手つかずの雑木林の奥だ。


「今の……なんだ?」


 常識的に考えれば逃げるべきだ。

 もし墜落事故なら燃料への引火や二次災害の危険がある。

 あるいは自衛隊の演習ミスか何かなら、一般人が近づけば巻き添えを食うかもしれない。


 しかし誠の足を動かしたのは、恐怖よりも「好奇心」だった。

 いや、もっと正確に言えば「この退屈で絶望的な日常が壊れるかもしれない」という、不謹慎極まりない期待だったのかもしれない。


「遭難者がいるかもしれないし……」


 誰に聞かせるわけでもなく、誠はそう呟いた。

 正義感という名の言い訳を口にすることで、自分の野次馬根性を正当化する。

 彼は倒れたペットボトルを拾い上げリュックに押し込むと、道なき道へと足を踏み入れた。


 藪をかき分け、斜面を下る。

 近づくにつれて異変は明白になった。空気が変わっている。

 山の匂い――湿った土や植物の青臭さ――が消え、代わりにまるで真新しい電化製品を開封した時のような、無機質な匂いが漂っていた。

 オゾンの匂いにも似ているが、もっと鋭く冷たい。


 そして誠はその光景を目撃した。


 そこは不自然な「円」だった。


 雑木林の中に、直径二十メートルほどの広場が出現していた。

 だがそれはブルドーザーで整地されたものでも、爆発で吹き飛ばされたものでもなかった。


「消えてる……?」


 誠は立ち尽くした。

 木々がなぎ倒されているのではない。

 円の境界線で木や草、岩が、まるで消しゴムで消されたかのように断面もなく「消失」していたのだ。

 地面は滑らかなすり鉢状になっており、土の色ではなく、ガラス化したように黒く艶やかに変質している。


 熱気はなかった。むしろ周囲よりも気温が数度下がっているように感じる。


 そして、そのクレーターの中心に“それ”は鎮座していた。


 大きさは軽自動車ほどだろうか。

 継ぎ目のない完全な幾何学立体。

 銀色とも白金ともつかない、不思議な金属光沢を放つ多面体だ。

 正二十面体に近いが、表面には目まぐるしく複雑な幾何学模様が明滅しており、見ているだけで遠近感が狂いそうになる。


「UFO……ってやつか?」


 誠の口から漏れた言葉は陳腐だったが、それ以外に形容しがたい。

 誰が見ても、地球上のテクノロジーで作られたものとは思えなかった。

 あまりにも表面が滑らかすぎた。加工痕もリベットも排気口もない。

 ただそこに「在る」という、圧倒的な存在感。


 逃げるべきだ。本能がそう告げている。

 だが、誠の足は磁石に吸い寄せられる砂鉄のように、クレーターの中心へと向かっていた。


(写真……写真撮らなきゃ)


 現代人のさがだろうか。

 誠は震える手でポケットからスマートフォンを取り出した。

 カメラアプリを起動しようと画面をタップする。


 ブツン。


 画面が暗転した。

 バッテリー切れではない。今朝家を出る時は100%だったし、さっき時間を確認しようとした時も、十分に残っていたはずだ。

 電源ボタンを長押しするが反応がない。


「マジかよ……故障?」


 いや違う。

 ふと気づくと、していたはずの腕時計の秒針も止まっていた。

 電子機器への干渉。EMP(電磁パルス)のようなものだろうか。


 誠は舌打ちしつつも、スマホをポケットにしまった。

 記録に残せないなら、目に焼き付けるしかない。

 彼はすり鉢状の地面を降りていく。足裏に伝わる地面の感触は硬質で、冷ややかだった。


 コアの目の前に立つ。

 近くで見ると、その美しさは異常だった。

 鏡のように周囲の風景を反射しているが、どこか歪んで見える。

 自分の顔が映っているはずなのに、見知らぬ他人のように感じる。


 触れてみたい。

 この、この世ならざる物質に。


「熱くは……なさそうだな」


 誠は右手を伸ばした。

 指先が銀色の表面に触れる寸前、微かな静電気のような刺激が走った。

 躊躇いは一瞬。

 彼は指を押し当てた。


 キィィィン……。


 甲高い耳鳴りのような音が、脳内に直接響いた。

 触れた指先から、冷たい水が流れ込んでくるような感覚。


接触コンタクト確認』


 声ではない。意味が直接脳に流し込まれた。


『生体認証スキャン開始……対象:炭素系生命体。サンプル採取……完了』


 ズレた。


 目の前の多面体コアが、ルービックキューブを高速で回すようにガシャガシャと音を立てずに変形を始めた。

 幾何学的な光のラインが誠の全身を走査する。

 緑色のレーザーのような光が、網膜、指紋、骨格、そしておそらくはもっと深い部分――脳波やDNAまでをも読み取っていく。


 誠は腰を抜かしそうになったが、体が金縛りにあったように動かない。


『個体名:サナダ・マコト。ID照合……現生人類。市民階級:労働者サラリーマン

『精神状態分析……警告。警告。ストレス値が閾値を超過しています。コルチゾール過多。ドーパミン枯渇。自己肯定感の著しい欠如。』


 無機質な機械音声(のような思念)が、誠の惨めな内面を淡々と読み上げていく。


「ちょ、勝手に人の心を覗くな……!」


 誠は声を絞り出した。動けないまま、恥ずかしさと恐怖がない交ぜになる。


『推奨プロトコル検索……「殲滅」…却下。「支配」…却下。「観察」…保留。』

『対象の精神的摩耗を考慮。最適解を導出しました。』


 光が激しく明滅する。

 銀色の多面体が流体のように形を変え始めた。

 硬いはずの金属が水銀のように溶け、空中に浮かび上がる。

 そしてその質量は、一つの「球体」へと収束していく。


 バスケットボールほどの大きさの完全な球体。

 その表面に、一つだけカメラレンズのような青い「瞳」が浮かび上がった。


『プロトコル決定:【癒やし・奉仕】』


 カチリと何かがハマる音がした。

 次の瞬間、脳内に響く声の質が変わった。

 先ほどまでの無機質な響きは消え失せ、代わりに聞こえてきたのは、鈴を転がすような極めて人間的で理知的な女性の声だった。

 それも高級ホテルのコンシェルジュか、あるいは良くできたアニメのキャラクターのような、完璧な「奉仕者」の声。


「起動プロセス完了。はじめまして、マスター」


 空中に浮かぶ銀色の球体が、ふわりと誠の目の高さまで降りてきた。

 まるで優雅にお辞儀をするように、球体がわずかに上下動する。


「貴方様の忠実なるメイド汎用戦術支援ユニット……あぁ、今の設定では単に『メイ』とお呼びください。

 只今より、真田誠様を、私の唯一のマスターとして登録いたしました」


 誠は口をパクパクと開閉させた。状況が処理しきれない。

 宇宙船? ロボット? それがメイド?


「め、メイド……?」


「はい、マスター。

 貴方様の深層心理における『誰かにすべてを委ねて甘やかされたい』という切実な願望と、『責任を放棄したい』という逃避願望を解析した結果、この人格設定ペルソナが最適であると判断されました」


「……」


 ぐうの音も出ないほど図星だった。

 だがそれを、謎の銀色の玉に指摘されるのは羞恥プレイ以外の何物でもない。


「否定しないでくださいませ。疲労困憊の雄というのは、守護欲をそそるものですから」


 メイと名乗った球体は、愉快そうに青いレンズを細めた(ように見えた)。


「さあマスター。ここはいささか殺風景です。お家へ帰りましょうか?

 それともまずは肩もみでもいたしましょうか?

 アームを展開すれば、プロのマッサージ師と同等の施術が可能ですが」


「いい、いや結構です!」


 誠はようやく金縛りが解けたように、後ずさりした。

 これは夢だ。あるいは疲労が見せる幻覚だ。

 そうだ、きっとそうだ。塩むすびの塩分が足りなくて、熱中症になったんだ。


「帰る。俺は帰るぞ!」


「賢明なご判断です。自宅セーフハウスへの帰還を優先しましょう」


 誠は背を向け、斜面を駆け上がった。

 足がもつれそうになりながらも必死で逃げる。

 恐怖ではない。いや恐怖もあるが、それ以上に「関わってはいけない」というサラリーマンとしての危機管理能力が警鐘を鳴らしていた。


 振り返ると、銀色の球体――メイが、音もなく空中に浮いたまま、誠の背後をぴったりとついてきていた。

 まるで犬の散歩のように。いや、散歩させているのは向こうかもしれないが。


 登山道に戻っても、誠の動悸は収まらなかった。

 早足で下山しながら、何度も後ろを振り返る。


 いる。

 あいつはいる。


 メイは誠から常に一メートル後方、高さ二メートルの位置をキープして浮遊していた。

 木々の枝や葉が触れそうになると、まるで水滴のように滑らかに回避するか、あるいは接触した枝の方が「透過」するようにすり抜けていく。


「ついてくるな!」


 誠は声を荒らげた。

 周囲にハイカーがいないのが幸いだった。

 もし誰かに見られたら、独り言を叫びながらドローンに追いかけられる狂人だと思われる。


「護衛任務は私の喜びです、マスター」


 メイの声は、空気振動として耳に届いているようだった。

 周囲に誰もいないからこそ可能な「配慮」なのかもしれない。


「護衛なんて頼んでない! 警察呼ぶぞ! ほんとに呼ぶぞ!」


「警察機構への通報は推奨しません」


 メイの声色は変わらないが、その言葉には絶対的な確信が含まれていた。


「彼らの装備――小口径の火器や物理的打撃――では、私の装甲シールドに傷一つつけられません。弾薬の無駄です」


「そういう問題じゃない!」


「それに現状のマスターの精神状態と、私の視覚的特異性を鑑みるに、マスターご自身が“不審者”あるいは“テロリスト予備軍”として拘束される確率は99.8%と試算されます」


「うるさい!」


 誠はポケットからスマホを取り出した。

 いつの間にか電源が入っている。

 メイが干渉を止めたのか、あるいはわざと通じさせる気になったのか。

 電波は一本立っている。


 誠は迷わず「110」をタップした。

 理屈ではない。

「自分ではどうにもできない事態」に直面した時、市民が頼れるのは公権力だけだ。それが刷り込まれた社会のルールだ。


『はい110番です。事件ですか事故ですか?』


 オペレーターの落ち着いた声が聞こえた瞬間、誠は泣きそうになった。

 日常への回路が繋がった気がした。


「じ、事件です! 助けてください! 山で……つきまとわれてるんです!」


『落ち着いてください。場所はどこですか? 相手はどんな人ですか?』


「人じゃ……人じゃないんです! 変な銀色のドローンみたいなのが! ずっと俺の後ろをついてきて、喋るんです!」


『……ドローンですか?』


 オペレーターの声に困惑の色が混じる。当然だ。


「そうなんです! 盗撮かもしれないし、なんか爆弾かもしれないし!

 とにかく怖いんです! 早く来てください! △△山の登山口の駐車場に向かってます!」


『わかりました。警察官を向かわせます。安全な場所へ避難して、相手を刺激しないようにしてください』


 通話を切る。

 誠は荒い息を吐いた。

 やった。警察が来る。

 警察が来れば、この訳の分からない球体も逃げるだろう。

 あるいは警察が何とかしてくれるはずだ。日本の警察は優秀なのだから。


「……やれやれ」


 背後でメイが、呆れたように(電子音で)ため息をついた。


「マスターは本当に“権威”というものがお好きなのですね。理解に苦しみますが、それもまた愛らしい欠点として記録しておきます」


「なんとでも言え!」


 誠は駆け出した。

 駐車場まで、あと少しだ。


 登山口の駐車場が見えてきた時、誠は安堵で膝が崩れそうになった。

 赤色灯が見える。

 白黒のパトカーが二台、砂利敷きの駐車場に停まっていた。

 制服を着た警官が三人、周囲を警戒している。


「おーい! ここです! 助けてください!」


 誠は手を振って駆け寄った。

 警官たちが一斉にこちらを向く。

 だが、彼らの表情は誠が期待していた「保護者」のそれとは違っていた。


 彼らの目は誠ではなく、その背後に浮かぶ「異物」に釘付けになっていた。

 そしてその顔に浮かんでいるのは、明確な「恐怖」と「敵意」だった。


「止まれ! そこで止まれ!」


 年配の警官が怒鳴り、腰の拳銃ニューナンブに手をかけた。

 若い警官二人は、警棒を引き抜き構える。


「え……?」


 誠は足を止めた。


「そのドローンを降ろせ! 手を上げろ!」


「ち、違います! 僕のじゃないんです! 勝手についてきて……!」


 誠は両手を上げた。必死に訴えるが、警官たちの耳には届いていないようだった。

 彼らの視点から見れば、山から降りてきた男が正体不明の浮遊物体を従えているようにしか見えない。

 しかもその物体は、ありえないほど滑らかに物理法則を無視して浮いているのだ。

 テロリストの新兵器か何かだと判断されてもおかしくない。


「その物体を制御しろ! 地面に置けと言っているんだ!」


「だから僕のじゃないんですってば!」


 パニックになる誠。

 その時、若い警官の一人が功を焦ったのか、あるいは恐怖に耐えきれなくなったのか、大声を上げて飛び出した。


「確保ぉ!」


 彼は誠に向かって突進し、取り押さえようとする。

 もう一人の警官は、誠の背後のメイに向かって警棒を振りかぶった。


「くそっ、得体の知れないもん飛ばしやがって! 落としてやる!」


「やめろ! やめてくれ!」


 誠の叫びは虚しく響いた。

 警官の警棒が、銀色の球体めがけて振り下ろされる。

 物理的な打撃。鉄の棒が未知の超文明の結晶に激突する――はずだった。


 ガィン!!


 硬質な音が響いた。

 だがそれは警棒がメイを叩いた音ではない。

 メイの周囲に見えない壁――斥力場フィールドが展開され、警棒を弾き返した音だった。

 弾かれた衝撃で、警官の手首が嫌な角度に曲がる。


「ぐあっ!?」


 警官が警棒を取り落とし、うずくまる。

 それを見た年配の警官が、震える手で拳銃を抜き、銃口を向けた。


「う、撃つぞ! 公務執行妨害だ!」


 状況は最悪だった。

 日常を守るはずの警察が、今や誠にとっての脅威となっていた。

 そしてその脅威を引き起こしたのは、誠が「助け」を求めた結果だった。


 張り詰めた空気の中、メイの声が響いた。

 それは今まで以上に優雅で、そして背筋が凍るほど冷徹だった。


「……おいたが過ぎますね」


 球体がわずかに赤く発光した。

 怒りではない。教育者が聞き分けのない子供を見るような、憐れみを含んだ光。


「マスターの平穏を乱す者は、少し頭を冷やしなさい」


「な、なんだ!?」


 銃を構えた警官が後ずさる。

 誠を取り押さえようとしていた若い警官も、異様な気配に動きを止めた。


「メイ、やめろ! 何をする気だ!」


 誠が叫ぶ。

 だがメイは静かに宣告した。


「心配いりません、マスター。ただの『環境調整』です」


 パシュン。


 乾いた音がした。

 メイの中心から、透明な波紋のようなものが広がった。

 それは光の速度で――いや、光よりも速い「認識」の速度で、駐車場全体、そして山の一部を包み込んだ。


 世界から色が抜けたような気がした。


「え……?」


 誠は瞬きをした。

 目の前の光景に思考が追いつかない。


 誠に掴みかかろうとしていた若い警官が、空中で止まっていた。

 片足を踏み出し、手を伸ばした姿勢のまま微動だにしない。

 彼の制服のシワ、飛び散る汗の粒までもが、空中で凍りついたように固定されている。


 銃を構えた警官も、うずくまった警官も、すべてが「静止画」になっていた。

 それだけではない。

 風に揺れていたススキの穂も、舞い上がった砂埃も、遠くを飛んでいたトンボも。

 すべてが完全に停止していた。


 音がない。

 風の音も、パトカーのアイドリング音も、警官の怒号も。

 完全なる静寂。

 世界中で動いているのは、誠と銀色の球体だけだった。


「……嘘だろ」


 誠はおそるおそる、目の前で固まっている若い警官の顔の前に手をかざした。

 反応がない。まばたきもしない。

 まるで精巧な蝋人形のようだ。


空間固定フリーズおよび局所的時間凍結、完了いたしました」


 メイがふわりと移動し、誠の正面に回り込んだ。

 その青いレンズが、悪戯っぽく明滅する。


「な、なんなんだよこれ……みんな死んだのか?」


「いいえ。生命活動は停止していません。

 ただ、この空間内におけるエントロピーの増大を一時的にキャンセルしただけです。

 彼らにとっての『一瞬』が、ここでは永遠に引き伸ばされているとお考えください」


 メイは何でもないことのように言い放った。

 物理法則を蹂躙し、時間を止め、神の領域の奇跡を行使しておきながら、彼女の口調は「お部屋の掃除をしました」くらいの軽さだった。


「これなら誰にも邪魔されませんね」


 メイのボディの一部がスライドし、中から小さなトレイのようなものがせり出してきた。

 そこには湯気を立てるティーカップが乗っていた。

 どこから出したのか、そもそも内部にそんなスペースがあったのか、ツッコミどころは満載だったが、漂ってくる紅茶の香りは本物だった。


「さあマスター。大変な一日でしたね」


 メイは、凍りついた警官たちの群像を背景に、優雅にカップを差し出した。

 銃口と怒号が支配していた場所は、今や奇妙なほど静謐な喫茶室へと変貌していた。


「これで、お茶の時間にできますね?」


 誠は、空中で固まった警官の必死な形相を見上げ、次に目の前の銀色の悪魔メイドを見つめた。

 そして、自分の常識と日常が完全に崩壊したことを悟った。


 月曜日はもう来ないかもしれない。

 少なくとも、このティータイムが終わるまでは。


 誠は震える手で、差し出されたカップを受け取った。


(第1話 完)

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