第1話「朝のパンと竜のくしゃみ」
辺境の村に来てから、二週間が過ぎた。
朝の空気は冷たく澄んでいて、鳥の声が遠くから聞こえてくる。
王都の喧騒とは違う、静かで素朴な時間。
私は、少しずつこの生活に慣れ始めていた。
小屋の中では、ルゥが丸くなって眠っていた。
彼の呼吸は穏やかで、時折、鼻先がぴくりと動く。
私はそっと毛布をかけ直し、扉を開けて外へ出た。
「今日は、パンを買いに行こう」
そう呟いたのは、ほんの気まぐれだった。
村のパン屋は、広場の端にある小さな店。
焼きたての香りが、朝の風に乗って漂ってくる。
私は籠を手に、村の道を歩いた。
道端には野草が揺れ、子どもたちが木の枝で遊んでいた。
彼らは私を見ると、一瞬だけ目を丸くして、すぐに笑顔を向けてきた。
「おはよう、セレナさん!」
「パン屋さん、もう焼けてるよ!」
私は微笑んで頷いた。
「ありがとう。今日は、少しだけ贅沢しようかな」
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第一章:パン屋とくしゃみ
パン屋の店先では、煙突から白い煙が立ち上っていた。
店主のマルゴさんは、腕まくりをして生地をこねていた。
「おや、セレナ嬢。珍しいね、朝から来るなんて」
彼は笑いながら、焼きたての丸パンを籠に入れてくれた。
「今日は、ルゥがよく食べる日で。少し多めにいただけますか?」
「竜がパンを食うなんて、面白い話だな。
まあ、あいつは静かだし、村の子どもにも人気だ。
……ただ、煙には気をつけな」
「煙?」
その瞬間だった。
店の裏から、くしゃみの音が響いた。
「……ハクシュンッ!!」
それは、雷のような音だった。
そして、煙突から勢いよく白煙が吹き出し、店の屋根がぐらりと揺れた。
「ルゥ! ついてきてたの!?」
私は慌てて裏へ回ると、そこには鼻を赤くしたルゥがいた。
彼はパンの香りに誘われて店の裏まで来ていたらしく、煙に鼻をくすぐられていた。
「ごめんなさい、マルゴさん……」
私は頭を下げながら、ルゥの鼻先を布で拭いた。
マルゴさんは大笑いしていた。
「いやいや、いいさ。竜のくしゃみなんて、そうそう見られるもんじゃない。
それに、屋根は無事だ。……たぶん」
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第二章:笑いと風
その騒ぎに、村の子どもたちが集まってきた。
「ルゥがくしゃみしたの!?」「見たい見たい!」
ルゥは少し恥ずかしそうに顔を伏せたが、子どもたちは怖がるどころか、彼の背に花を乗せたり、鼻先を撫でたりしていた。
「セレナさん、ルゥって優しいね」
「くしゃみ、もう一回してくれないかな?」
私は思わず笑ってしまった。
王都では、竜は恐れられる存在だった。
けれど、ここでは――ただの“ちょっと大きな友達”だった。
ルゥは、静かに鳴いた。
それは、照れくさそうな音だった。
私はパンの籠を抱えながら、空を見上げた。
青く澄んだ空。
風が吹き抜け、パンの香りと笑い声を運んでいく。
「ねえ、ルゥ。
この村、悪くないね」
彼は、そっと私の肩に頭を寄せた。
それは、同意の仕草だった。
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第三章:帰り道と小さな誓い
帰り道、私はルゥと並んで歩いた。
彼の足音は重く、けれど優しかった。
「王都では、こんなふうに笑うこと、なかったな」
私はぽつりと呟いた。
ルゥは空を見上げ、静かに鳴いた。
それは、過去を包み込む音だった。
「でも、今は違う。
あなたがいてくれるから、私はもう少しだけ……生きてみようと思える」
風が吹いた。
それは、パンの香りと、くしゃみと、笑いを運ぶ風だった。
そして私は、小屋の扉を開けた。
今日という日が、少しだけ特別だったことを、胸に刻みながら。




