六輪目
国の会合が終わり、事務員のおかげで仕事を早く片付けることのできた助手は室長専用の研究室に向かう。
すると、嬉しそうな顔の室長が出迎えた。
「いやいや、事務員を雇った甲斐があったな。どうもワトソンくんは研究員だというのに書類仕事が好きなようで研究に付き合ってもらえなくて寂しい思いをしていたのだ」
「それは放っとくと誰も書類仕事しないからでしょう」
溜め息と共に言い放つ。
室長も書類仕事はしないわけではないし、できないわけでもない。ただ、書類仕事をやる暇があるなら研究をする、という知っての通りの研究馬鹿なだけである。
どうやら、いつの間に雇ったか知れない事務員はやはり室長の計らいだったようだ。人がいいのか悪いのか。
「さて、今日はカタギリ氏の細胞を研究するぞ」
「えっ」
その言葉に助手は意外を感じた。研究好きのこの人がここ最近で一番の対象であろうジン・カタギリの細胞に手をつけていなかったとは。
「他の研究員に頼まなかったんですか?」
「この細胞は秘匿性の高いものだ。易々と部外者に見せられるわけがないだろう」
それは確かに一理ある。細胞の秘匿に関しては提供者のカタギリ氏も気にしていたところだ。
それに、と室長は続けた。
「私の助手はワトソンくん、君だけだよ。他の誰かと組むなんて真似は死んでもしないね」
「死なないでくださいね」
冗談だろうが、助手は釘を刺しておく。睡眠不足と栄養失調でいつ倒れるかわからないのが室長である。釘を打った先が糠でないことを祈る。
カタギリ氏の細胞はコールドスリープで固めてあるらしく、その細胞が収められた箱を室長は持ち出し──深刻な顔で助手を見た。
助手はなんだろう、と最初は思ったが、室長の手元を見てはっとする。
箱からはみ出る肉色の細胞。それは常ならざる変化だ。
開ければ、細胞はコールドスリープに抗い、その体積を増やしていた。
「カタギリ氏は回復能力がどうのと言っていたが、これは再生というより増殖だな。コールドスリープ程度で死なないとは思ったが、まさか生きているとは」
コールドスリープは一気に外気温を下げることによって、生物を仮死状態にするものだ。あらゆる科学の実験でこの知識は流用されている。例えば、今のように研究したい細胞に変化が起こらないようにするため、など。
しかし、ジン・カタギリの細胞はコールドスリープを凌駕した。コールドスリープは仮死状態、つまり半分死んだようなものだが……そんな環境下で、カタギリ氏の細胞は生きていた。
室長はこう断じる。
「生に貪欲な細胞だ」
そこには僅かながらに嫌悪の感情を浮かべていた。助手も自然と胸に凝るものを感じる。
こんな異常な細胞を普通に生まれ、暮らして、持つはずがない。しかし、ジン・カタギリは持っていた。そして、そのカタギリ氏には確たる証拠はないが、こんな噂がある。
かつて、人体実験の被験者だったのではないか、と。
人体実験。
この四文字に好印象を抱く人間はまずいないだろう。室長も助手も例に漏れなかった。更に考える。これほど生に貪欲な細胞を作り上げるために、果たしてどんな実験が成されたか。
カタギリ氏がどこぞの研究室の被験者であった、という確固たる証拠はない。ないが、人体実験以外の可能性がない以上、悲しくもそういう施設があったのだろう。
更に悲しいことに、その実験の成果であるカタギリ氏の細胞は──我らが生命学研究室に非常に役に立つのである。
生命学研究室は非道な人体実験などしない。他の研究分野の知識も借りて、一から生命体を生み出す学問だ。──借りられる知識は借りるしかない。
生命というのは最初は一つの細胞で、それが分裂して増殖して生命体という形になっていく。その過程の部分の手掛かりとして、カタギリ氏のコールドスリープも効かず、細胞分裂が行われるという原理は一生命学者として非常に興味をそそられるものだ。胸糞は悪いが。
「ワトソンくん、また予定を空けるぞ」
「先方への繋ぎなら任せてください」
かくして、再びジン・カタギリと会うこととなった。
カタギリ氏に細胞のことや過去のことで話があると打信したところ、話せることは少ないというが、会合に応じてくれることが決まった。
「二週間後にまた出張が入った。助手のワトソンくんと向かう」
そんな宣告を聞いた研究員たちは阿鼻叫喚となったが、そんなことはいちいち気にしていられない。
室長も助手も、考えることはたくさんあった。候補となろう実験施設、もしくはそれを所有する企業や国家……その中には当然、スポンサーである国も入っている。国は生命学研究室の他にも数多の研究室を持っているし、隠蔽体質があるから、把握しているより多くの後ろ暗い研究施設があっても不思議ではない。
場合によってはその施設、もしくは国などに探りを入れなくてはならない。最初は軽い気持ちで手に入れた細胞が、ここまで深刻な状況をもたらすとは。
ひとまず、やることは決まった。
胃薬を買い足さねばならない。
二週間後、再びジン・カタギリと会う。人避けを済ませると、早速本題を切り出した。
「コールドスリープをかけて保存していた貴方の細胞が増殖していました。
噂では貴方はどこかの実験施設の被験者だったと聞きます。そのときの記憶……なんでもいいので手掛かりになりそうなものを教えていただきたいのです」
カタギリ氏は顔をひきつらせた。聞いていて心地のいい話ではない。過去を抉られるのだ。表情もひきつるだろう。
だが、カタギリ氏は冷静にこう紡いだ。
「俺は昔、このアジトからそう遠くない病院付近の裏路地で拾われた。そのときには言葉なんて覚えてなくて、ただ一つ『ジン』という名前らしき言葉だけが頭に残っていた。
……残念だが、それ以上のことは俺も覚えていないから話せない」
申し訳なさそうにするカタギリ氏を尻目に室長と助手は視線を交わす。
「このアジト付近に病院……ありませんよね?」
「今は、な。昔はあの廃屋が病院だった。確か国営だったはず……国が実験を知られないために病院という隠れ蓑を使っていた可能性はある。ということは、我々にも調べようはある」
室長の語る「調べよう」とは、つまりは「国に脅しをかけて情報提供させる」という物騒きわまりないものだ。それを察した助手は胃痛に苛まれながらも、カタギリ氏に気を遣わせまいと、その会合を早々に切り上げることにした。
だが、この助手の行動が裏目に出たのか、カタギリ氏は無理矢理記憶を思い出そうとしていた。胸騒ぎがして電話をかけたら、それだ。助手は顔を歪め、カタギリ氏が記憶を思い出すことのリスクを語る。
まず、思い出せない記憶というものは往々にしてトラウマとなっているものだ。それを何の準備もなしに思い出したなら。精神の保つ保証はない。
第二に、ジン・カタギリが裏社会を牛耳るマフィアの長であることが問題として浮上してくる。助手が最初に訪問した際に感じた通りなら、彼には彼を愛する部下がいる。それに裏社会のトップという立場がある。そのトップが精神崩壊でもしてみろ、裏社会の混乱は避けられない。裏社会が混乱を極めると、表社会にも時折反りが来る。
そんなことを貴方は望まないだろう、と助手は指摘した。だが、カタギリ氏は頑なだった。
いつかは向き合わねばならないことなんだ、と告げて、一方的に通話を切られた。
……止められなかった、と憔悴する。そんな助手の元にやってきたのは、室長だった。




