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紫露草  作者: 九JACK
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二輪目

 さて、と室長が呟いたところで、助手は回想に耽るのをやめて、室長と目を合わせた。そして合わせた瞬間、嫌な予感がした。

 何せ室長がそのとき浮かべていた笑みと来たら、妖艶でありながら、新しい悪戯を思いついた子どものような笑顔だったのだ。助手は二年という経験則で知っていた。この笑みが出たときは、大抵ただ事では済まない。もっと言えば、とんでもないことをさせられる。

 その予想を裏切らず、室長はとんでもないことを口にした。

「実はこの辺りを牛耳っているマフィアのボス──ジン・カタギリといったか。その人物が特殊な体質を持っているという情報を得た。生命学の発展に有益な体質かもしれないため、検体を採取したい。……というわけで、本日の仕事を肩代わりする代わりに、私の優秀な助手のワトソンくん、そのマフィアとの交渉に行ってくれ」

「嘘でしょう!?」

 さすがの助手も絶句した。だが、エリサ・クリスティがこちらの想像を凌駕するのはいつものことだ。

「純粋な乙女心を弄んだ罰だよ」

 室長に純粋な乙女心という言葉は、なんとなく似合わない気がしたが、賢明な助手はそれを口には出さなかった。口にしたなら、室長の更なる逆鱗に触れることになるのは目に見えていたからだ。面倒事を増やす必要はない。

 それでも溜め息だけは盛大に吐き出して、青年は珈琲を淹れた。二人分。マグカップは一般的なものと取っ手の二つついたものだ。取っ手が二つついた方が室長専用のマグカップである。動物をモチーフにしたプリントがされているようだが、何の動物かわからない、微妙なデザインのマグカップで、室長曰く、テンらしい。

 ちなみにだが室長のマグカップには細工がされていて、温まると黄色、冷めると深みのある黄色になる。金色に近いか。テンの夏毛と冬毛の特徴が反映されているのだろう。いつ見ても奇っ怪だが洒落が利いていることは否定できない。ちなみに二つの取っ手は耳を表しているのだという。

 これが非常にお気に入りだということで、出張先にも持っていくほどだ。何故取っ手が二つも必要なのだろう、と疑問をぶつけたところ、好きな方で持てるからという気分屋な答えが返ってきた。

 だが、確かに取っ手が二つの方が実用的であった。特に受け渡しのとき。大抵は取っ手が一つだから、渡す側か受け取る側が取っ手じゃないところを掴まなければならない。その点において、二つ取っ手というのは優秀だった。

 温かい飲み物を渡すとき、カップはわりと熱くなるのだ。火傷防ぐ策としては素晴らしい。

 助手からカップを受け取ると、室長は少し香りを楽しんでから、一口口に含んだ。

「うん、やはり朝の珈琲は格別だな」

「室長の場合、徹夜明けの珈琲の間違いでしょう」

 ピンクの濃い下縁でも隠しきれていない目の隈を見ながら助手が言う。室長は研究命のため、食事時間、睡眠時間すらも削って研究に励んでいる。助手は二年間見ていて思ったが、やはり異常だ。この人物は研究のためなら五、六徹は平気でする。時に、世界記録を塗り替えたいのでは、と思うほど。

 健康には気遣ってほしいところだが、この人が研究を続けて成果を挙げようとするのは、研究室で働く研究員たちの給料のためであるため、その生活習慣の悪さを強く指摘できない。国に所属しているこの研究室は、その成果に見合った分だけの給料が支給される。同じ国に属す者でも、安定した収入を得られる公務員とは大違いなのだ。

 室長は以前、猫の皮膚からコピー細胞を作って、遺伝子情報を操作しながら、細胞を分裂させ、育てて、ピンク色の毛の猫というのを作るという成果を挙げている。その人工猫は国の首相がいたく気に入り、大金と引き換えにして買い取ったとか。

 そんな「人工生命体」を初めて造った者として、エリサ・クリスティの名は世界中に轟いている。

 今度は人間を造ってほしいというのが研究員からの期待であり、国からの要望である。生命学を牽引する者として、その期待と希望に応えようと、エリサ・クリスティは日夜研究に励んでいるのだ。

 エリサ・クリスティは生命学の科学者としては、天才で尊敬に値する人間であるのは間違いない。だが、その肩書きだけがその人間の全てではないのだ、と助手歴二年の青年は思う。




 マフィアと接触を謀れ、という無茶ぶり。もうどんな無茶ぶりも驚かないと心に決めていたが、驚かざるを得なかった。きっと自分はこの人に一生敵わないのだろう、と思う。

 ここは肚を括って行くしかない。どこのマフィアかはわかる。半分ブラックに足を突っ込んでいる研究室だ。裏社会の事情もある程度流れてくる。

 珈琲を飲み終えると、支度をする。幸い、マフィアの根城の一つは、この研究室の近くにある。わざわざこういう位置に研究室を置く辺り、国も厭らしい。

 はあ、と溜め息を吐きながらも、室長助手は研究室を後にした。




 弾ける薬莢、止めどない銃声。ゲームならば、高校生男子が喜びそうなフレーズだが、実際にそんな場面に遭遇した場合、冗談にならない。

 思いつきで物を言う室長が、今回の当該マフィアにアポイントメントを入れているはずもなく。

 マフィアの領域である裏路地に足を踏み入れた途端、どこからともなく黒服がぞろぞろと出てきて、発砲を始めた。

 助手は幸いなことに、室長出張の際に護衛を何度かした経験があるため、護身術を身につけていた。そのため、咄嗟の銃撃戦もかわしながら対応できた。

 隠れられそうな物陰を見つけると、そこにすぐさま身を隠した。それから銃撃の轟音に晒されながらも相手に通るように大声で告げる。

「僕は怪しい者ではありません。近くに研究室があるでしょう? そこの研究員のトウル・ワトソンという者です」

 名乗ればいくらか攻撃は和らぐか、と考えた一か八かの作戦だったが、功を奏したようで、黒服たちに戸惑いの声が走る。中には上と連絡を取っている者もいたため、もしかしたら上手く行くかもしれない。

 しばらくして、黒服たちの顔は不平たらたらだったが、どうやら通してくれることになったらしい。害意がないことを示すため、ボディチェックを受けた。特に武器凶器になるようなものは持っていない。何せ、今回の仕事は交渉だけだ。身一つで充分だった。

 客室のようなところに通されて、一人の人物がそこにいることに気づき、挨拶をして──それからその人物の顔をまじまじと見て、仰天する。

 目の前にいるその人物こそが、目的の「ジン・カタギリ」だったのだ。顔くらいは知っていた。まさかこうも早く本人に会えるとは思っていなかった。

 カタギリは青年の名乗りを聞くなり、「片桐迅だ」と名乗り返す。それから無表情に近い顔に僅かに苦いものを滲ませ、言う。

「俺にも用事があるんだ。事前にアポイントメントは取ってくれ」

 ごもっともな意見である。頷くしかない。

「それについては誠に申し訳なく思っております。今後は気をつけます」

 というか、気をつけないと、命がいくつあっても足りない。

 謝罪に満足したのか、カタギリ氏は続ける。

「まあ、幸い、今の俺は暇だ。話くらいなら聞いてやれる」

 言外に用件を話せ、と言われたため、深呼吸を一つ、本日の用件を伝える。

「僕の所属する近くの研究室が生命学の研究室であることはご存知と思います。今回、我々は研究の発展のために貴方にご助力をいただけないかとこちらに窺った次第です」

 遠回しにカタギリ氏の特異性を知っていると伝えたためか、カタギリ氏は、警護のためにいたのであろう部下の黒服を、部屋から追い出した。おそらく、自分の体質のことをあまり他者に知られたくないのだろう。部下が出ていくと、「誰だそんな情報を流したのは」とカタギリ氏は小さく毒づいた。

「まあいい。情報の出所はともかく、お前たちはそれで俺に何を求める?」

 機嫌の悪そうな鋭い目付きで髪を掻き上げるカタギリ氏から放たれる尋常じゃない威圧。だがたじろぐことはなかった。既にこういう緊迫には何度も遭遇し、慣れているのだ。

 単純明快な要求を口にした。

「検体提供を頂きたいと思いまして」

 ほう、と少し興味なさげな溜め息を吐き出し、カタギリ氏はかまわないと首を縦に振った。

 それにほっと安堵したのも束の間、カタギリ氏は殺気を込めた眼光を放つ。

「ただし、俺や俺から採取した検体、体質に関する情報を外部に洩らすようなことがあったら……わかっているな?」

「はい」

 おそらく研究室ごと壊滅させられるだろう。カタギリ氏の言葉はそれほど重たかった。

 頷いてから、日取りの話に移る。すると、ぽん、と一つの携帯端末を渡された。

「そちらの都合もあるだろうが、こちらの都合もある。帳尻合わせが必要だろうから日取りはすぐには決められない。その端末ならうちのものだから情報が漏洩することもないだろう。しばらくアポイントメントやこちらへのやりとりはそれでやるといい」

 アドレス帳は一件だけ。なんとカタギリ氏に直通で繋がるようだ。随分と信頼されたものだ。

「あとそっちの室長……エリサ・クリスティといったか。そいつとも顔を合わせておきたい。都合のつく日を作っておいてくれ」

「わかりました」

 そこまでの話で、その日は退散することになった。



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