紫露草の花束を
決行は早い方がいい。
罪人が罪を忘れてしまっては、ワトソンくんが浮かばれないからだ。
私は首相がいるというビルディングに侵入した。もちろん、マフィアに手引きしてもらった。ワーグナー女史も今回は私の味方だ。三足の草鞋を履いていた彼女はマフィアや我々の研究室よりも政府内部の事情に最も精通している。
ワーグナー女史の指示の通りの侵入経路を通り、誰にも怪しまれることなく、私は階の上層へと上がっていく。上層へ行く権限は元々の私の研究室長という立場を使えば簡単だった。
少し寄り道をして、最大の武器を確保し、最上階へ向かう。そこには今、会議で国の重鎮が集っている。昨日の今日の出来事だ、私がばら蒔いた動画の件を、どう収拾つけるかで頭を悩ませていることだろう。
だが、もうそんな頭を悩ませる必要はなくなる。私がなくしてやる。
私は会議室の扉をノックもなしに開いた。片耳につけたイヤホンをそのままに、私は口角を吊り上げ、久しぶりだね、諸君、と皮肉たっぷりに告げた。
「どうせ昨日の動画のことなのだろう? 当事者の私も混ぜてもらおうじゃないか」
反論はなかった。交渉、と判断したのだろう。それは大間違いだ。
「会議室カメラ占領完了。動画生放送を開始します」
イヤホンからワーグナー女史の声が聞こえてくる。
そう。私はただ死なせるだけなんて生温い復讐はしない。この国がどれだけ罪にまみれているか晒し、社会的に殺し、精神的に殺し、最後に身体的に殺すのだ。……この動画生放送を当然政府反抗組織も見ているだろう。
私が口を開く前に、重鎮の一人が口にした。私の後方を指差して。
「それは何かね?」
「人間を物扱いとは人間の風上にも置けないですね。彼のことは皆さまがご存知のはずです。表向き、『一から生命を造り出す生命学』を推しておきながら、裏では世界的に批判の多い『クローニング技術』、更には細胞強化の非道なる人体実験を行っていたのでしょう? 彼はその被験者であり、クローンのオリジナルだ。なあ、ジン・アリセ氏」
まあ物扱いしていたのは私も同じだ。彼を「武器」と思っていたのだから。口には出していないのでいいだろう。
名前を呼ばれたアリセ氏は、肩をびくん、と揺らし、静かに、しかし明瞭に「はい」と答えた。
「僕のクローンがたくさん造られた。そして僕共々、『彼ら』は過酷な実験を受けた。薬物投与で苦しむ『彼ら』を放置し、大量に見殺しにした……僕は、僕と同じ顔の子が次々と死んでいくのを見て、次は自分かもしれないと怖くなった。けれど、オリジナルである僕は死ぬことを許されなかった。そうして今、生きています」
アリセ氏とは事前にエレベーター内で説明していた。政府の闇たるアリセ氏に課された実験の内容を、世間に明らかにする、と。アリセ氏はアリセ氏で実験に思うところがあったらしく、私の要望を快諾してくれた。これで犠牲者が減るのなら、と。
しかし、アリセ氏一人の言葉では、政府は揺るがない。素知らぬ振りを通せばいいからだ。
「何を言っているのかわからないね。クローンを我が国が造ったという証拠でもあるのかい?」
私は笑った。あまりに予想通りすぎる言葉だったからだ。こいつらは何もわかっちゃいない。「エリサ・クリスティ」という人間の恐ろしさを。
私が、切り札を持っていないとでも思うのか?
「ジン・カタギリの名は、知っていますね」
「裏社会を牛耳るマフィアのボスの名前くらい知っている。見くびってもらっては困るな。我々は国だぞ?」
強気な発言をする人物。だが、汗が吹き出ているのが丸わかりだ。
何故なら、研究室にカタギリ氏の情報をリークするようワーグナー女史に指示したのは国だからだ。
そうして、私とカタギリ氏に繋がりを持たせてしまったことが、そもそもの間違いなのだ。
「カタギリ氏の記憶調査を行った結果、国の実験からアリセ氏の力を借りて脱走した被験者の生き残りであることが判明しました」
「あの子は生きていたの!?」
そこに食いついてきたアリセ氏。非常にいいタイミングだ。アリセ氏には事前にカタギリ氏のことは伝えていない。この嘘偽りのない反応を否定することは難しい。
それでも国は悪あがきを続ける。
「それこそ証拠があるのかね? カタギリという人物がアリセくんのクローンであるという」
「そんな証明、簡単でしょう? DNA検査を行えばいいだけ。貴方たちは本当に科学を舐めていますね」
全員の顔が青ざめた。こんな簡単なことにも気づかないなんて、この国の基本的な科学力がないことが見え透いている。
落ち着きたまえ、と出されたマグカップに、問答無用でスプーンを入れる。銀のスプーンだ。銀も象牙と同じく毒を見抜く。……例によって変色した銀のスプーンを私は投げ捨てた。
「そんなに私を殺したいなら、暗殺者か私より科学力のある科学者を雇った方がいいですよ」
そう告げると、下方から爆発音が聞こえた。大きく傾ぐ会議室、視界。動揺が場に走る。
「下で爆発!? しかも大規模だと!?」
「非常階段も潰された!」
そんな絶望的な反応に私はゆらりと口角を上げ、重鎮共に微笑む。
「どうせここから脱出できたとして、ここでの一幕はインターネットで生放送済みです。果たして貴方たちに社会的居場所なんてあるでしょうか?」
絶望色に染まっていく一同を見渡し、私はこっそりアリセ氏に、私の権限が使えるカードキーを渡した。
「君は逃げたまえ。クローン実験の生き証人となるために」
「あ、貴女は?」
ふっと笑んだ。
「もとより、生きる気などないのだよ。さあ、早く」
アリセ氏は戸惑いながらも、エレベーターへ走っていった。エレベーターは動くよう、ワーグナー女史に爆弾の配置は調整してもらっていたのだ。
それに気づいた一人が駆け出そうとするが、遅い。この階までのエレベーターは一つ。そしてアリセ氏もまた人体実験で異常な身体能力を身につけた身。普通の人間が追いつけるわけもなかった。
私は笑う。壊れたように。滑稽な国の重鎮たちを。ワトソンくんを殺した、敵たちを。
「さあ、派手にフィナーレと行こうじゃないか」
崩れゆくビルディング、阿鼻叫喚の重鎮たちは、既にに崩れ始めた壁により、圧死を遂げている者もいた。逃げようにも、逃げ場がない。逃げたところで、きっと放送を見た反抗組織が放っておかないだろう。
ああ、これで完全な復讐の達成だ。──そして、私はワトソンくんと同じく死者となる。死後の世界とやらで彼と会えるかはわからなかったが。
そこで、ふと不平を口にした。それは轟音に呑まれて誰の耳にも届かなかっただろうが、ただの自己満足だから、いい。
「どうせ心中するなら、トウルくんとがよかったな……」
初めて口にした最愛の人のファーストネーム。
ごめんな、ワトソンくん。君の名前を口にするには、私は弱すぎた。
こんなだから、最後まで、片想いだったんだろうな。
その思考を最後に、エリサ・クリスティの命はこの世から消えた。
役目を終えたアイリッシュが、マイク付のヘッドフォンを外し、エリサから託されたトウルの日記を抱きしめた。
もう叶わない片想いと、もう叶わない両想いに、アイリッシュの目から光るものが零れた。
それは机を濡らし、やがて涸れて、消えた。
その涙は、まるで紫露草の孕む露のように……




