第二十一話 二人と一匹で温泉旅館、なんだけど
「ねえ、お爺ちゃんとなにを話していたの?」
実家を出て旅館に向かう途中で、運転している先生に尋ねた。だって、家を出る直前まで二人で熱心に話し込んでいるんだもの、気になるじゃない?
「最近の米事情について色々と。米アレルギーって聞いたことあるか?」
「お米アレルギー? 卵やお蕎麦は聞いたことあるけど、お米なんて聞いたことないよ」
「だろうな。だが、最近では時々報告があがってくるんだ。農薬のせいなのか日本人の食生活の変化のせいなのか、まだよく分かっていなが、米に含まれているでんぷん質が原因ではないかと言われている」
「えっと、お米の中にあるでんぷん質が、アレルゲンってこと?」
「そうだ」
信じられないよ。お米だよ? なんだかんだと言っても、日本では断トツトップの主食なんだよ? 日本人でお米が食べられなくなったら、どうなっちゃうの?
「報告ケースの数が少ないから、なかなか治療方針が定まらないっていのうが現状だ。食事療法を踏まえて、大学の農学部と共同で、低アレルゲンの白米を作る研究が始まっているって話を、お爺さんにしていた」
「へえ……。お医者さんは、お医者さんだけで仕事をしていたらいいってわけじゃないんだね」
「特にアレルギーの問題はな」
先生の病院にも、時々アレルギーの症状のせいで運び込まれてくる人もいるらしい。
「お医者さんって、学校を卒業したらそれでおしまいってわけじゃないんだね、そんなふうに、次々と新しい病気とかアレルギーが出てくるんだからさ」
「そうだな。だから部屋に、医学書が山積みになっていくわけだ」
そう言えば先生の部屋の書斎には、何年度版の何とかって本がたくさんあったっけ。
「私なんてぜーったい無理だ。頭がパンクしちゃうよ」
そんな話をしているうちに、目的の旅館に到着した。観光旅館みたいなのを想像していたんだけど、意外と本格的なお宿だ。
「ここで良いんだよな?」
それは先生も感じたみたいで、本当にここか?って顔をして私を見た。
「うん。ちゃんと名前もあってるから間違いないよ」
駐車場に車を止めると、荷物とキャラメルのバスケットを持って旅館に入った。
「光栄出版さんからの御紹介で予約をさせていただいた、猫田と申しますが……」
フロントで名乗ると、女将さんらしき人が奥から顔を出した。和服姿のお若くて可愛らしい女性だ。
「ようこそいらっしゃいました。おうかがいしてます、東出様と猫田さま、それから猫ちゃんですね」
「はい」
案内されたお部屋は、旅館の外観と同じでとても素敵なお部屋で、和室とベッドルームにわかれていた。そして普通のお部屋と違うのは、広縁にキャットタワー付きのゲージが設置されていること。一緒にいる時はお部屋で自由にさせていても良いんだけど、お風呂に行っている時は、ここでお留守番させておく方が安全ってことらしい。
「あ、先生、露天風呂もあるよ。足湯ができるようにもなってる」
「驚きだな」
「ペット可ってことだから、もっと今どきなお宿だと思ってた」
「俺もだ」
さっそく大浴場でゆっくり疲れを癒そうってことになって、キャラメルをキャットタワー付きゲージでお留守番をさせて部屋を出た。大浴場まで続く廊下を歩いてくと、途中で、日本庭園の中を渡り廊下で通り抜けるようになっていた。お庭も綺麗に剪定されていてる。
「本格的な旅館だよね」
「こんな旅館でペット同伴可っていうのも珍しいな、もしかしたら、経営者が無類の犬猫好きなのかもしれない」
「だねー」
コラムを描く時の参考にするために、ところどころで写真を撮っておく。
そして大浴場にたどりついたところで、数人のお客さんがガヤガヤとしていた。その中のオジサンの一人が、気分が悪そうな感じで胸を抑えている。
「どうしたのかな?」
「具合が悪くなったらしいな」
先生が声をかけようと一歩踏み出したとたんに、その人が顔をしかめて倒れ込んだ。先生は、手に持っていた浴衣を私に押しつけて足早に駆け寄ると、オジサンを仰向けにして声をかけた。だけどオジサンの反応はほんど無い。
「恵、フロントに行って救急車を手配してもらってくれ。心筋梗塞の恐れがあるから、急いで来てもらうように伝えてもらってくれ。落ち着いてな。こっちが慌てて話しかけると、相手もパニックになるから」
先生が顔を上げて、私に指示を飛ばしてきた。
「分かった」
先生に言われた私は、着替えを抱えたままフロントに急いだ。そして、そこに立っていた番頭さんみたいなお兄さんに、一呼吸おいてから声をかける。
「すみません、大浴場で男の人が倒れたので救急車を呼んでほしいんですが」
私の言葉に、お兄さんは慌てた様子で電話を手に取る。あれ? 落ち着いて喋りかけたのに慌てちゃってるよ、何がいけなかったのかな……。
「あ、それと倒れた人は心筋梗塞らしいので、急いで来てもらえるように伝えてもらえますか? 今はお医者さんが、倒れた人に付き添っているので」
「分かりました」
お兄さんが救急車の手配をするのを確認してから、足早に自分達の部屋に戻った。そして貴重品を入れた金庫を開けて、先生の携帯電話とお財布を出すと、それを持って大浴場に引き返す。
大浴場の前に戻ると、先生が倒れた男の人を上向きに寝かせて、心臓マッサージをしているところだった。
「先生、呼んでもらったから」
「分かった」
手は動かしたまま視線だけこっちに向けてうなづくと、私が手にしているものを見て、少しだけ首をかしげた。
「どうせ一緒に行くって言うだろうと思って。携帯電話とお財布持ってきたの。中に病院のIDカードが入ってたよね」
「ああ、助かる」
それからしばらくしてサイレンの音がして、救急隊員さんが二人、治療機材を乗せたストレッチャーを押しながら足早にやって来た。隊員さんと先生との間で、私には分からない医学用語のやり取りが交わされると、隊員さんは手慣れた様子で、倒れていた男の人をストレッチャーに乗せて再び戻っていく。
「恵、俺も病院について行くから、すまないが食事は一人で先に食べていてくれるか」
「うん。じゃあ電話とお財布ね。それとここの旅館のパンフレット」
「なんでパンフレット?」
「タクシーで帰ってくるなら住所が必要でしょ? 旅館の名前さえ分かれば大丈夫だとは思うけど、先生、ここの旅館の名前、言える?」
「なるほど」
先生は三点とも受け取ってお尻のポケットに押し込むと、足早に救急隊員さんの後に続いた。ポケットから手を離した瞬間には、こっちのことなんてすっかり頭から抜け落ちてたよね。だって、完全にお医者さんの顔をしていたもの。
旅館のスタッフさん達がやって来て、運ばれていったオジサンのお友達と、一緒にこれからどうするかを話し合いながら行ってしまうと、残された人達はビックリしましたね~とか、大事ないと良いんですけどね~とか話し合いながら、それぞれの部屋へと戻っていった。
「さてと。先生には申し訳ないけど、私だけでも大浴場を楽しませてもらおうかな」
私は気を取り直してお風呂に入ることにする。浴場には何人か年輩の人達がお湯につかっていて、入ってきた私になにかあったの?と尋ねてきた。
「お風呂上がりの人だと思うんですけど、気分が悪くなったみたいで。救急車が来たみたいですよ」
「あら、そうなの。大したことがないと良いわね」
「そうですね~」
たまたまお隣にいたオバチャンとそんな話をしながら、お湯につかる。家のバスタブも広い方だけど、大浴場には勝てないよね、こんなふうにノンビリと温泉につかれるなんて、何年ぶりかな。
「そちらもワンちゃんと一緒に御宿泊?」
「うちは猫なんですよ」
「そうなの。ありがたいわよね、ワンちゃんや猫ちゃんと一緒に泊まれる旅館なんて」
「そうですね~。こういう旅館が全国に増えると、気兼ねなくペットと一緒に旅行ができるんですけどね」
まあ我が家の場合は、ペットよりも先生のお休みの方が、問題なような気はするけれど。
先生を待たせるかもっていう心配をせずにいられたせいか、ちょっと長く入りすぎちゃったみたいで、のぼせ気味になりながら、浴衣に着替えてお部屋に戻った。部屋のテーブルの上に、可愛らしい便箋が置かれていた。
『お食事の準備ができています。お部屋にお運びしますので、お戻りになったら内線で御連絡ください』
化粧水でパタパタとしながら、電話で一人分だけお食事を運んでもらうようにお願いすると、しばらくして仲居さんと女将さんがお料理を持ってお部屋にやって来た。
「救急車で同行してくださったのは、こちらの先生だったんですね。ありがとうございました」
「いえいえ」
「先生がお戻りになったら、お食事を出しますから仰ってくださいね」
「あ、でもいつになるか分からないですから、お気になさらず……」
食事に関しては、先生がいない間に近くにコンビニが無いかどうか調べて、買い出しに行ってこようかなって考えていたぐらいだし。だって、それこそ戻ってくるのが深夜になったりするかもしれないでしょ? きっと今頃は、時間のことも私のことも、すっかり忘れちゃってるだろうから。
「それこそお気になさらず。誰か必ずいますから」
「そうですか? だったらその時はお願いします」
テーブルに並んだのは地元で獲れた海の幸と山の幸。キャラメルのためには、ちょっとお高いキャットフードを用意していたので、それを持ってきたお皿に入れる。
「キャラメルお待たせ~」
ゲージから出してやると、真っ直ぐお皿に向かってカリカリと音を立てながら食べ始めた。いつもなら三時頃におやつを出しているんだけど、今日は移動中でなにも食べさせていなかったから、お腹が空いていたみたい。ちょっと可哀想なことをしちゃったかな。
テレビをつけて、久し振りに地元ローカルの番組を見ながらご飯を食べることにする。
「じゃあ、いただきまーす」
先生、今頃なにしてるかな。こんなに美味しいご飯、食べ損ねちゃったらもったいないよね。
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そして先生が戻ってきたのは、あと三十分で日付が変わっちゃうよって頃だった。キャラメルと一緒に、ベッドに寝っ転がってテレビを観ていた時に、軽くノックする音がしたので起き上がってドアへと急ぐ。
「お帰りなさい。オジサン、どうだった?」
「ただいま。本人の容態が安定したらバイパス手術だそうだ」
「血管に金網みたいなのを入れる手術じゃなくて?」
以前、先生から聞いたことのある手術方法のことを思い出して質問する。
「ステントのことか? 血管造影をしたら、一か所だけじゃなく他にも詰まりかけている血管があることが分かったから、担当医がそちらのほうが良いだろうと判断した。俺は付き添っただけだから、そのへんの判断はあちら任せだ」
「そうなの。なにはともあれお疲れ様。ご飯どうする? 女将さんが、帰ってきたら声をかけてくださいって言ってたけど、こんな時間だし……」
「ああ、戻ってきたらフロントで顔を合わせたよ。三十分ほどしたら持ってきてくれるらしい。今回のことのお詫びだとか言っていたが、逆に申し訳ないな」
やれやれと座布団の上に座り込む先生の元に、キャラメルが走り寄ってきてニャーンと鳴く。きっとお帰りなさいって言ってるんだと思う。先生もそれが分かったのか、キャラメルの頭を優しく撫でた。
「シャワーぐらい浴びている時間はあるかな」
「せっかく露天風呂があるんだからそっちに入れば? ご飯は私が出るから」
「なら頼む」
「こっちのことは気にせずに、ゆっくり入ってきたら良いよ」
そして先生がのんびりと露天風呂に入っている間に、女将さんがご飯を運んできてくれてテーブルに並べてくれた。
遅い時間ということもあって、私が食べた夕飯とは違い、お夜食系って感じでのっぺい汁とおむすびとお漬物。なんでも、先生が軽いものでけっこうですって言ったらしい。女将さんは、こんなもので良いのかしらって悩んでいたみたいだけど、普段でも遅くなったらお茶漬け食べてる人だから、問題ないですよって言ったら安心したみたいだった。
そういうわけで、私達とキャラメルとの初めての旅行は、突発的なアクシデントはあったものの、おおむね成功だったと言える。
私としては、先生が仕事をしている時の様子を垣間見ることができたから、不謹慎かもしれないけど、ちょっとだけ嬉しかったかな。




