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tomari〜私の時計は進まない〜  作者: 七瀬渚
第5章/この目を見つめて(Kakeru Chiaki)
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85.僕は独りじゃなかった


 あの不安は気のせいじゃなかった。そう知ったのは翌日の朝礼のとき。


 上長からの話が終わった頃に、菊川さんは大股の堂々とした足取りで皆の前に出てきた。

 こちらを見渡したその顔は、雲一つない青空のように清々しい笑みで満ちていた。



「来月いっぱいでここを退職します。皆様には本当にお世話になりました。あと少しの間にはなりますがよろしくお願いいたします」



 …………



「…………え?」



 何人かがちらりと僕の方を見た。ということは声に出てしまったんだろうけど、僕の気持ちはそれどころじゃない。


 立っていながら宙にいるみたいに、重力の概念が崩壊して。現実を受け入れられない頭が限りなく白へと移り変わっていく。身体もまるで自分のものではないかのように五感が遠のいて。


 その後の上長と菊川さんのやり取りは、一応聞こえてはいるはずなのに全く頭に入ってこなかった。



「どういうことですか、菊川さん! そんないきなり退職だなんて!」


 朝礼が終わってすぐに、僕は彼に詰め寄ってしまった。廊下の片隅とはいえ目立っていたかも知れない。焦燥が抑えられなかったから。


「千秋さん、荒ぶってるな〜」


「自分のときより慌ててるじゃん」


「仲良かったもんね。千秋さんなら個人的に話聞いてると思ったんだけど、そうじゃなかったんだね」


 周りからいくつかの声を感じるけれど、僕の視界には困ったように笑う菊川さんしか映らない。

 大きな手が伸びてきて僕の肩をポンと叩いた。


「今夜また話すからさ。まぁ心配するな。お前も俺もそれなりに要領はいい。環境に変化があってもなんとか上手くやっていけるさ」


「僕だって本当は不安ですよ。その上菊川さんがいなくなってしまうと思うと、正直とても心細いです」


「この後の仕事はちゃんと割り切ってやれよ?」


「それはもちろんですけど……」


 僕は菊川さんに何度も甘えてきてしまった。だからこそできるだけ恩を返していきたいと思ってたのに。


 もう……どうして同じようなことがこんなにも続くんだろう。なんでみんな遠くに行ってしまうの。


 来月。二月と言えば立春。

 春の足音が聞こえてくる頃なのに。いや、だからなのか。春はやっぱり別れの季節なんだろうか。


 僕は“始まり”を見出すことができるんだろうか。


 今はそれすらわからない。季節外れの木枯らしみたいな乾いた音が鳴り止まない、こんな状態ではとても。



 割り切りにはある程度慣れているつもりだ。その後の仕事にだって特に支障はきたさなかった。


 だけどみんなも言っていたように、自分のとき以上のショックを受けている。人の決めたことをそのまま受け入れる、内容によってはとても難しいことなんだ。心に負担もかかる。


 でも自分が今までしてきたことを思うと……どうなんだろうと考えてしまう。人に同じような思いをさせなかったと言い切れるか。

 少なくとも心当たりが一つある。トマリと距離を置いたとき。彼女は仕事の相談相手を失って心細く思ったかも知れないから。


 僕を特別な目でなんて見ていなかったとしても、純粋な信頼の気持ちは確かに伝わっていたから。


 近付いたり離れたり、傷付けたり傷付けられたり、人ってそんなことばかりだな。

 熟れた灼熱の果実がオフィスの窓を赤く染める頃、僕の中にはそんな実感だけが残った。



 待ち合わせは何度か来ているあの隠れ家。本社の近くなのに何故か存在を主張しない、でも雰囲気は抜群に良いカフェバーだ。

 菊川さんの仕事が長引いたから、僕の方が先に向かうことになった。


 入店から三十分くらい経った頃、菊川さんがひらひらと手を振りながらやってきた。

 彼は向かい側の席に腰を下ろすとすぐにメニュー表を手に取った。


「待たせて悪いな。まずは何か頼んでゆっくりしよう。そうだ、旅行の計画についても話そうな」


「はい……それはいいんですけど」


「お前またカシスオレンジ?」


「……そうします」


 せっかく明るく話しかけてくれてるんだから顔くらい上げなきゃ悪いとわかっているのに。重く垂れ込めた気持ちに理性が押し潰される。


 菊川さんとの旅行も、これが最後になってしまうのかな。仕事仲間じゃないお前になんて用はないとか言われたらどうしよう。

 普段じゃ考えられないくらいの疑心暗鬼まで何処かから湧いてくる始末。


 なんとなくテーブルの上に乗せていた両手が、やがてゴツゴツと硬い感触に包まれた。だけど温かい。僕はやっと顔を上げられた。


「元気出せよ、千秋。一生会えない訳じゃないんだからさ」


「本当ですか」


「当たり前だろ。仕事仲間兼友人、何年やってると思ってるんだ」


「菊川さん……」


「よしよし、泣いていいんだぞ〜、カケルちゃん。お兄ちゃんが傍にいてやるからな〜」


「泣きませんよ」


「説得力ないな。そんなに目を潤ませて」


 軽くふくれる僕を菊川さんは優しい目で見つめる。なんだかダニーと重なってしまって、僕の目頭は一層の熱を帯びた。

 感情が結晶化して、乾いた口からぽろり、ぽろりと零れてくる。


「たとえ職場は離れても、僕の知ってる場所に菊川さんがいてくれてるってことが大事だったから。ずっとは無理なんだろうけど、それでもこんな近いうちになんて寂しいから」


「ほんとお前は、素直なところが強みだよな」


「そうですか? 子どもっぽくないですか」


「なんだ、自覚あるのか」


「酷い。さすがにみんなの前ではここまで弱音吐きませんよ。暑苦しいときは……あると思いますけど」


「悪い悪い。でも長所と短所は紙一重って言うだろ? そんなお前だからなんだかんだと愛されるんだと思うぞ」


「そんなことないですよ。もう社内では嫌われ者ですよ」


 気にしてないつもりだったのにな。また一つ、要らない弱音が出てきてしまった。


 菊川さんが数回、首を横に振る。どういう意味かわからなくてしばらくはぽかんとしてた。


「確かにお前は目立つし優秀だから嫉妬されやすい。足を引っ張ってやりたいと思った奴がいたのも事実だろう。だけどな、ほとんどの奴は嫌ってるんじゃない。心配してるんだ」


「え……」


「気付かなかったのか? 善意に疎いと損するぞ」


「なんでも都合よく解釈するのも良くないと思いますけど」


「まぁ何事もほどほどにだな」


 ほどほど、か。菊川さんらしい、緩い返しだ。

 確かに以前の僕なら、人の善意をちゃんとキャッチして素直に感謝するくらいできていた気がする。その余裕もないということは、やはり自覚している以上に疲弊していたんだろうな。


 いつの間にか現れた店員さんが、さらりと優雅な手つきでお酒を置いていった。

 シャンディガフとカシスオレンジ。前に来たときもこんな組み合わせだったっけ。


 菊川さんがグラスをこちらへ向ける。乾杯の言葉を交わしたけれど、僕の方はなんだか気怠く悲しいため息のような声になってしまった。申し訳ない。


 ある程度喉を潤した後、菊川さんがメニュー表を開き僕の方へ寄せながら見せてくれた。


「なんか食うだろ。お前最近すっかり細くなったから、力のつきそうなもの選んだ方がいいんじゃないのか。それとも逆にあっさりしたものがいいか?」


「心配かけてすみません。食べれない訳じゃないので、大体なんでもいけると思いますよ」


「そうか。パスタ好きだったよな、確か。炭水化物は大事だぞ〜。ほら、結構種類がある」


「そうですね……この青じそとしらすとか良いかも」


「他は?」


「すぐには思い付かなくて……」


「じゃあ俺が適当に選んでいいか」


「もちろんです」


 菊川さんは、よし、と力強く呟いてメニュー表を何回かめくっていく。その目は少年のように輝いている。

 楽しそうだ。これから去っていく人とは思えないくらい。寂しかった僕の心にも柔らかな光が差し込んだように感じた。


 注文を終えてからしばらくして運ばれてきたのはカプレーゼや海鮮のアヒージョ、ローストビーフ、海老と蒸し鶏の二種の生春巻きなど。取り皿は四枚つけてくれている。ちょうど良かった。パスタの量が結構多くて一人で食べ切れるか微妙なところだったから。菊川さんは細身な割によく食べるから心強い。

 二人ともグラスがもうすぐ空きそうなのに気付いて、飲み物もさっきと同じものを注文しておいた。


 菊川さんは一度ちらりと辺りを見渡してから、僕の方へ顔を近付ける。


「たとえ職場が離れても。お前はさっきそう言ってたけど、結構遠くに行くってことなのか」


「菊川さんにはもう言っちゃいますけど、子会社への出向です。オフィスでの勤務がメインとなるみたいですよ」


「ああ、ここからだと距離あるもんな。引っ越しも必要になってくるんじゃないのか」


「そうですね……それも考えていました。通勤時間は確実に伸びますし、負担を考えるとその方が効率良いかなって」


「そうか。う〜ん、お前は現場に出る仕事の方が向いてると思うんだけどな。店長とかマネージャーみたいに」


「好きなのはそっちですけど、マネージャーやっててあんな噂が出回ったんですからしょうがないですよ」


 菊川さんはローストビーフを口に運ぶ合間で、何度か煮え切らないように唸っていた。


 僕はパスタを小皿に取り分けながら、これから大きく変わっていくであろう生活を想像してみる。心機一転、生活環境を変えるというのも良いように思えてきた。



――なぁ、千秋。


 向かい側で、小皿のふちにフォークが置かれるのが見えた。


 ゆっくり顔を上げた。

 先ほどの無邪気な顔とは打って変わり、真剣な眼差しが真っ直ぐこちらへ注がれていた。


 ドク、と心臓が音を立てる。まだ意味はわからない、それでも何かの予感を確実に捉えて。


「菊川さん……?」


「すぐにとはいかないんだけど、できれば俺がまたお前の前に現れるのを待っててほしい」


「待ってますよ。これからも友人だってさっき言ってたじゃないですか」


「それとはまた違った意味だ。大事な話を持っていく予定でいる」


「大事な話って……」


「不確かなまま話す訳にはいかないから。俺も新しい場所で安定するまでにそれなりの時間がかかるだろう。お前のことが大切だから、状況が整ってからが良いと思ってるんだ。はっきり言えなくてごめんな」


 はい、と呟きのようにか細い返事くらいしかできなかった。


 彼は優しく微笑む。その表情からして、少なくとも悪い話ではないと想像がつく。


 失いかけていた感覚が戻ってくる。

 僕を大切に思ってくれている。それをしっかり感じ取ることができるから。


「ありがとうございます、菊川さん」


 まだわかってないのに。すでに見えているかのような熱い感情が込み上げてくる。

 なんとなく、僕は独りじゃないと思えた。


「すみません、ちょっとお手洗い」


「大丈夫か! 気持ち悪いのか?」


「いえ、大丈夫です……ちょっと……ここでは、まずいので……う……」


「また泣き上戸かよ!」


 菊川さんには盛大に笑われた。頭を撫でられる前にと逃げるように立ち上がった。


 本当は夜風に当たりたい。

 こんな無駄に強い感受性、トマリには本当に重くないのだろうかと心配になる。


 トマリは飲めないと聞いているけど、僕がこんな感じになったときは、寄りかかって火照りを冷ますことを許してくれるだろうか。帰り道で見た星空の余韻に浸りながらソファでくつろいだりして。

 そんな未来に辿り着ける可能性を、少しは期待してもいいんだろうか。


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