「ある意味怖い話」部分
それから三日後の夕方。
玄関先で気絶した際、思い切り上がりがまちに額をぶつけたせいでできたたんこぶを時折こすりながら、俺は退勤の準備をしていた。
そこへやってきたのが、社内でも1、2を争う遊び人として名高い矢野先輩である。
先輩は、午後五時を迎えたことがうれしくてたまらない、といわんばかりの笑みを浮かべ、真正の遊び人にしかできないへらへらした足どりで俺の席に近づくと、背後からそっと両肩に手を置いた。
「いよっ。今日はもう仕事終わり?」
「ええ、まあ。急ぎの案件は一通り終えたので」
「あ、そう。じゃあさ、どう、これから、また?」
楽しいナイトライフへの期待感に胸ふくらませる口調で誘いかける先輩に、俺はすげなく首を左右に振る。
「いやいやいやいや。勘弁してくださいよ」
「なんだよ、楽しかっただろ、お前、女の子たちからあんなにモテちゃってさあ」
「いやいやいやいや、大変だったんですよ、あの後。内緒であの店に行ったことが、妻にばれて、ものすごい復讐されたんですから」
「へえ、どんな?」
興味ありげな顔をする先輩に、俺は例の事件の一部始終を小声で打ち明ける。
「……というわけですよ。もう本当に散々で」
「そりゃすごいな。でもさでもさ、女子高生の群れに追いかけられるなんて、ある意味ごほうびじゃん」
「いやいやいやいや、実際に追いかけられた身になってくださいよ、マジでシャレにならなかったんですから」
「そっかあ。いやそれにしてもすごいね、奥さん。よくそんだけの人数に動員かけられたよね」
「ええ、近くの女子校出身てことだけは知ってたんですけどね。なんでも、強豪ダンス部のOGで、今でも一声かけりゃ、後輩が大挙して集まるとかで」
「そうなんだ。体育会系のタテのつながりってやつ?なかなか恐ろしいね」
「そうなんですよ。おかげでほら、こんなこぶまでできてしまうし、しばらく小遣いもなしってことにされたし、ということで、今日は、すみませんが」
「なんだよなんだよ、付き合い悪いな。そんなの黙って行ったら分からないって。軍資金が足りなきゃ、貸してやるしさ」
貸してくれる、という一言に、俺の心は、やや揺れた。
が、その揺れる心を、不動心で押さえつける。
「いやいや、この間も黙って行ったのにばれたんですよ?後輩がお店でバイトしてたとかで」
「ああ、そりゃついてなかったな~。じゃあさ、こうしようぜ。今日は遠征して、も少し遠いところにある店に行ってみる。な、それならいいだろ?実はこの間、情報誌でちょっと気になる店見つけちゃってさあ」
遠い店?なら、大丈夫かな?
先輩の口車に乗せられて、不動心も揺らぎだし……早い話が、俺もだんだんそそられてくる。
「いや、でも、さっきも言いましたけど、軍資金が」
「だからさ、それは貸してやるって!なんなら、おごってやってもいいから」
「え、おごりですか?」
ぐらりがしゃんと不動心が倒れたのを悟られたか、ここぞとばかりに先輩は、手を合わせてきた。
「なあ、頼むよ。一人じゃ心細いし、この頃みんなマジメでさ、つきあってくれるのお前ぐらいしかいないんだよ。なんなら、アリバイ作りに俺から奥さんに電話してもいいからさ。な?」
「……おごりで、電話でアリバイも作ってくれるんですね?」
「うん、うん!」
「裏切ったら許しませんよ?」
「大丈夫だって!ほら、この目を見てくれ!」
きらきらと輝く目は、どう見ても今宵のお楽しみにワクワクしているだけで、誠意のカケラも見いだせなかったが……ここまで好条件なら、正直多少のリスクに目をつぶる価値はある。
そうだな。いくらなんでも、あれだけきついお仕置きされてから一週間も経ってないのにまたやらかすなんて、さすがに思ってないだろうし。かえって、今がチャンスかもしれない……。
「……分かりました。じゃあ、行きましょうか」
「そうこなくっちゃ!じゃあ、早速……」
今にも社からとびだしていきそうな先輩を、
「ちょっと待ってください、まずはアリバイの電話をかけますから……」
と呼び止める。
「おっと、そうだったそうだった。んじゃ、早く電話しろよ、途中で代わってやるから。なあに任せろ、うまく言ってやるって……」
浮かれまくった調子で電話に出られたらどうしよう、と思ってはらはらしていたのだが、そこは遊び人の本領発揮、適度に申し訳なさそうな、残念そうな、めんどくさそうな調子でもって、先輩は鮮やかに妻を言いくるめてくれた。
その晩は、三日前の憂さ晴らしもあって大いにはじけ、店がはねてからのアフターまで楽しんで、深夜にタクシーで帰宅(なんと、タクシー代まで先輩がおごってくれたのだ)。ざっとシャワーを浴びて、既に寝ていた妻の横へ、体をすべり込ませる。
「ン……お疲れ……」
寝ぼけ半分でそういう妻に、
「ああ、ただいま。ごめん、遅くなって。いやもう、大変だったよ、先方がはしゃいじゃってさ……」
と、かねて用意のいいわけを口にしかけたところで、
「ン……そっか。お疲れ。おやすみ……」
と、妻は再び寝入ってしまったのである。
女子高生の尾行も、待ち伏せもなかったし、お店でおかしなふるまいを見せた子もいなかった。妻もこの調子だし、ひょっとして、うまくごまかせた、のか?
布団をかぶりながら、俺の頬に自然と笑みが浮かぶ。
なんだ、簡単じゃないか。この程度でどうにかなるなら、どうってことないぞ。よおし、これなら、月に2回、いや3回は、夜遊びできる……!
将来の限りない希望に胸ふくらませ、この上なく幸福な気持ちで、俺は眠りに落ちたのである。
次の日の朝。
二日酔い、とまではいかないが、深酒の影響でどうにも気分がすぐれないまま、俺はいつもどおりに起きて顔を洗って朝飯を食って歯をみがいて、出勤の準備を整えた。
ああ、なんだか体が重い。駅前のコンビニで、エナジードリンクの一本も入れていくかな。
朝から体に悪そうなことを考えながら「じゃあ、行ってくる」と無人の廊下(の向こうのリビングにいるはずの妻)に声をかけ、うつむいて玄関扉の鍵を開けると、そのまま一歩、外へ出る。
そこで一発伸びでもしようかと顔を上げたところで、俺は凍りついた。
くたびれた無地の白Tシャツにジーパン。黄色い工事用ヘルメットにサングラス、そして手ぬぐいのほっかむり。両手に軍手をはめ、肩には勇ましく角材――ゲバ棒を担いだ、遙か1970年頃の遺物そっくりな格好をしたヤツらが、十重二十重に家の玄関の前を取り巻いていたのである。
その数、ざっと百人以上。
資料映画で見たぞ!?学生運動?全共闘?まさかこいつら……!
たった一人、俺と同じくらいの背のヤツを除き、おしなべて頭一つは小さく、ややきゃしゃな体つき。それは自然と例の女子高生たちを思い出させ……いきなり、四日前の悪夢が鮮明に蘇った。
まずい!
あわててきびすを返し、家の中にかけこうもするが……ああ、なんということか。玄関には、最後の仕上げとばかりにヘルメットをすっぽりかぶりつつある妻が、既に仁王立ちで待ちかまえているではないか。
「ま、待ってくれ!違う、違うんだ、あれは先輩が……」
必死で言いかけたところで、妻はおもむろにほっかむりを首元までずらし、ただ一言、宣った。
「かかれ」
その途端、ものすごい衝撃が頭に降り注ぎ、目から幾十もの星が飛び出して……俺は「これのどこがごほうびだよ」と心の中で毒づきつつ、くるりと白目をむいて、人生で二度目の失神を経験することになったのだった。
後半部分投稿。これにて完結。




