第2章 第10話 三人目
〇雪華
「はぁ……っ、はぁ……っ」
私は走っていました。体育祭だから当然と言えば当然かもしれませんが、鬼ごっこが種目に選ばれるという話は古今東西探しても見つからないでしょう。
「千堂ちゃんこっち!」
神出鬼没。地域の方も参加自由にしたとはいえいつの間にか校舎にまで入り込んでいた万さんが小さな身体でぴょんぴょん飛び跳ねて私を呼んでいます。
「いやー、実にボク好みの展開だよ。さっすが新斗。本当に自慢の後輩だよ」
私と一緒に廊下を駆けながら万さんは心底楽しそうに笑みを深めます。
「校長との鬼ごっこ。捕まったら最悪殺されるかもしれない。逃げ切れば校長は責任を取って辞職か降格、少なくとも数十年積み重ねたキャリアは終わる。ボクの人生でも類を見ない全員が本気になっている状況。ほんっっっっとうに、楽しい!」
そう。私は校長先生から逃げているのです。先生たちには内緒で始めた身勝手な体育祭。そしておそらく私の号令一つで終わらせることも続けることもできる。きっと校長先生は私を早く捕まえて中止の命令を出させる気です。でも私を見失えば別の手段を講じるはず……それは体育祭の邪魔になります。つまり付かず離れず、校長先生の視界に入った状態で逃げ続ける必要がある。本当に……きつすぎます。
「楽しい楽しいっ。あははっ! ねぇ楽しいね千堂ちゃん! やっぱ本気はさいっこうに楽しいね!」
「なんでこの状況で楽しめてるんですか……狂ってます」
本来万さんはこの事態に一切関係ありません。それなのに勝手に入り込んできて一番楽しそうにしています。常軌を逸した人間性です。こういう人に惹かれる気持ちは……正直わからなくもないです。
「それでこの後の作戦は? 新斗はなんて言ってた?」
後ろを振り返れば十数メートル離れた地点に校長先生はいます。少しでも立ち止まればたちまち捕まってしまうでしょう。そんな状態でありながら万さんは余裕そうに訊ねてきます。
「なにも……聞いていませんが……っ」
私が先輩から聞いたのは、休日に勝手に体育祭をやるということだけ。突然追われて戸惑っているのが正直な気持ちです。
「何も聞いてないって……じゃあこれからどうする気なの?」
「わかりません……でも体育祭のために捕まっちゃいけないことだけはわかります……っ」
さっきまで体育祭を見ていたからわかります。みなさん、体育祭を本当に楽しんでいる。運動が得意な方は自分の全力をぶつけ合い、苦手な方も応援で自分のできることを精一杯やっている。そして教師不在の中、体育祭実行委員会の方々は必死に運営をがんばっていました。
地域の方々や先生方には悪いですが、生徒みなさんが本気を曝け出して楽しんでいるこの体育祭は。間違いなく正しいと思うのです。
「私がどうなろうが絶対にこの体育祭は成功させます……っ。それが私の正義です……っ」
「……君も充分狂ってるよ」
横を見る余裕なんて当然なく、見えたのは一瞬です。ただ一瞬見えた万さんの横顔は、ひどくつまらなそうでした。
「待て……待ってくれ……!」
まずいです……どんどん校長先生との距離が詰まっていくのが後ろからの声でわかります。相手は初老とはいえ正直私の運動能力は下の下……どうにかしなければいけません。
「そうです……香苗さんを呼びましょう……! あの人なら老人だろうが構わずボッコボコにしてくれます……!」
「あー無理。ボクと桑原死ぬほど仲悪いから。絶対助けになんて来てくれないよ」
「なら他の方は……!」
「そもそもボク、スマホ持ってないんだよねー。ほら、今の世の中何でもスマホありきじゃん? それに迎合するのもつまらないと思わない?」
「だったら先輩のところに……! どうせ先輩は部室でサボってるはずです……!」
「だめだめ! 新斗との再会はもっと劇的なものにしなきゃ! 最低限泣かせるって決めてるんだもん!」
「だったら帰ってくださいよ! あなた関係ないでしょ!?」
「やだよこんな楽しそうなイベント参加しないわけないじゃん!」
「ほんっっっっと使えません!」
「そう言われたのは人生で初めてだなー」
そうこう万さんと言い合っている間に……!
「つか……まえたぁ……!」
校長先生は私のすぐ後ろまで迫ってきていました。もうだめ……と諦めそうになったその時。
「ぐはぁっ!?」
背後の声は悲鳴へと変わり、衝撃音が静かな廊下に響き渡りました。
「……別にあんたを助けにきたわけじゃないから」
そんなどこかで聞いたようなセリフを発しながら現れたのは……。
「百井さん!?」
私をいじめていた主犯格。そして体育祭に参加していたはずの百井雨音さんでした。
「どうして……ここに……!?」
あれから百井さんはずっと静かでした。リーダーとして振る舞うことはなく、私に媚びを売ろうとしてくる元いじめ仲間からも離れ、ずっと一人でつまらなそうにしていました。何度も声をかけましたが私の呼びかけに応えることはなく、ただ鋭い瞳で私を睨みつけていた百井さん。それなのにどうして私を助けになんて……。
「だから言ってんでしょ。あんたを助けたわけじゃない。あたしにはあたしのやるべきことがあるの。本気でやらなきゃいけないことが」
おそらく校長先生を蹴り飛ばしたのでしょう。床に倒れている先生のジャケットのポケットに手を突っ込み、百井さんはスマートフォンをひったくりました。そして倒れている校長先生の顔で認証を突破すると、自分のスマートフォンに重ねます。
「あれ何やってんの?」
「……データの同期です」
スマートフォンに疎い万さんに状況を伝えます。万さんは校長先生のスマートフォンのデータを別のスマートフォンにコピーしているのです。
「犯罪ですよ……!」
「だからなに?」
事もなさげにそう言い放つ百井さん。相変わらずその瞳は何一つ変わっていない。自分のためなら他人を蹴落としてもいいと言わんばかりの敵意のこもった瞳です。
「あんたをいじめたことに反省はしてる。悪かったとも思ってる。でもあたしはあきらめない。どんな手を使ってでも必ず返り咲いてみせる。どんな悪魔に魂を売ってでもね」
悪魔……? つまり誰かに協力しているということでしょうか。でも校長先生のスマートフォンのデータなんて何に……。
「あんたは正義のために。万さん、あんたは楽しいことのために全力を尽くしてるんでしょ? あたしも同じ。必ず上に立つ。そのためならなんだってするってこと」
「へぇ、中々楽しそうだね」
そんな百井さんを見て万さんはなお楽し気です。ですが百井さんはその真逆の顔をしています。
「あんたたち何か勘違いしてるみたいだけど。敵はお互いだけじゃないから。あの人の特別はあたしのもの。寝首をかかれないように気をつけなよ」
「あの人……?」
「そんなことよりいいの? 千堂。あんたはあんたのやるべきことがあるんでしょ」
そうです……校長先生はうずくまっていて動けません。今なら話ができる。
「校長先生、もう一度交渉です」
私はあの日のリベンジのために口を開きました。




