第92話 魔女は親離れについて考える
ライアンの真剣な眼差しにテネリは首を傾げる。いつもどことなく捻くれた態度で、意地悪なことばかり言う彼のほうが馴染み深いのだ。
だがそれはそれとして、テネリは小さく息をついて首を振った。
「必要ないよ。大体、ヒト型になってるのが不自然なことなんだしさ」
「でも!」
なおも食い下がるライアンだが、双子の侍女が茶を並べ始めて口を噤む。
「百歩譲ってヒト型にしたとして、ウルは一生私と一緒にいたいの? 魔力切れを起こすたびに元の姿に戻るんだから、おちおち外にも出れないよ」
この短期間で二度も魔力切れを起こしたのは、どちらもイレギュラーな出来事だ。普通に生活していればまず有り得ないだろう。しかしイレギュラーというのは突然やって来る。
「お、俺は――」
「ライアン君はウルに人でいてもらいたいんだね」
レナートが呟くのを聞いて、テネリがハッとしてライアンを見る。それは予想していなかった展開だ。
俯いたライアンを慰めるように、タヌキが彼の頬に手を伸ばした。
愛を知ってしまったテネリにも、種の違いによる報われない気持ちは痛いほどわかる。でも、だからこそ。
「んー、いや、駄目だね。こればっかりは聞けない。魔女に慈善を期待しないでほしいもんだよ。あんたたちが幸せになるために私が魔力を使い続けるメリットある?」
「メリットって!」
「使い魔でいるってことは、主人のために命を懸けるってこと。最悪の場合には私の代わりに死んでもらうけど、ライアンはそれでいいんだ?」
「テネリ」
レナートがテネリに静かに首を振る。唇を強く噛むライアンを見て、言い過ぎたらしいと気づいた。テネリにとって人間の感情を慮るのは、喫緊の課題かもしれない。
それでも、言うべきことはまだある。
「ウル、私が最初に言ったこと覚えてる?」
「キュゥ」
ウルは小さく鳴くだけだったが、知ろうと思えば使い魔の喜怒哀楽くらいテネリにもわかる。どうやら理解したらしいと確認し、テネリは微笑んだ。
「じゃ、この話はこれでおしまい」
「どういうことだ?」
「別に。私とウルだけの秘密だよ」
――東の大陸に住むタヌキは自分で人間に化けられるみたいよ。
より人間らしい姿を求めたウルにテネリはこう伝えていた。
魔女の魔力を長く受けていて、ヒトの姿になる感覚もわかっているタヌキなど、この世界広しと言えどもそうそういないだろう。強い想いがあるのなら、奇跡は起こるかもしれない。
レナートはテネリがこれ以上なにも言うつもりがないことを察して、顔をあげた。
「それじゃあ、ライアンとウルを客間に通してくれ。今後のことはゆっくり相談するとして、先ずは旅の疲れを癒すといい。ふたりも、案内を終えたら休んでいい。ありがとう」
屋敷の主人によって指示を与えられた双子が客人を連れて部屋を出て行き、応接室にはテネリとレナートだけが残される。
手つかずのまま残されたアマレッティを口に放り込んで、テネリが薄っすらと笑う。
「ライアンのやつ、やっと親離れしたかと思ったらずいぶん難しい恋したね」
「親のつもりだったのか、それはそれで同情するが……。ところで、さっきの叫び声は一体?」
「え? あーなんだっけなー」
テネリが言いよどむと、両の肩を掴まれてレナートの方へと振り向かされる。その顔いっぱいに心配だと書いてある気がして、テネリは諦めて口を開いた。
「傷が……」
「胸の傷か? どうした?」
「治ってた」
「は?」
ぎゅっと掴まれた両肩が、ふわっと楽になった。レナートの力が抜けたようだ。テネリから身体を離したレナートが左手でこめかみを揉む仕草をする。
「すまない。ええと、あの怪我がたったの二日で治ったというのは、驚くと同時に大変喜ばしいことだ。俺も安心した、が。魔女にとっても叫ぶほどの回復速度だったということか?」
「ソフィアの癒しのおかげで治りが早いのは確かなんだけど、そうじゃなくて、私すごい大きい傷跡あったでしょ。あれがほとんどなくなってる」
生みの母親が苦しみから逃れようと、テネリを襲ったときの傷だ。テネリにとってそれは、魔女が人間を苦しめる存在であることを忘れないための戒めとなっていた。
「そんなことがあるのか」
「うーん、でも今さらなんで消えたんだろ。ソフィアの力かなぁ」
「そう言えば、古傷で皮膚が固くなっていたから、今回の怪我もあの程度で済んだと侍医が」
「なにそれ、すごい奇跡。でも消えるのはちょっとヤだな」
そっと両手で傷痕のあるあたりに触れる。
湯浴みを終えた直後、鏡を見て思わず叫んだのは恐ろしかったからだ。母親の思い出が無くなってしまう気がして。
「嫌だなんて嘘よ。それはアンタが消したの」
テネリのものでもレナートのものでもない声に振り返ると、どこから入って来たのか部屋の隅にミアがいた。
「テネリが消したとは?」
「考えてもみなさいよ。石化して飲まず食わずだったインヴィでさえ生き続けるほど、魔女の生命力や回復力は強いの。人間に切りつけられたくらいで何百年も痕が残るわけないじゃないの」
室内に沈黙が落ちる。ミアの言葉の意味を正しく理解した者はいない、というより理解したくないというほうが正しいだろうか。テネリは乾いた笑いをあげた。
「はは。ちょっと何言ってるかわかんない」
「正確にはあえて治さずに残してた、かしらね。母親との唯一の思い出だったんでしょ。でも今のアンタは、そんなものに縋らなくても母親と過ごした日々を思い出したし、居場所も見つけた」
「え……、は? え?」
全てが無意識のうちに起こったことであるため、テネリには肯定することも否定することもできない。しかしミアの言い分は正しいような気がして言葉に詰まった。
ミアは「それに……」と続ける。金の瞳が愉快気に歪んだ。
「なんなら、誰かさんにはどうせなら傷のない綺麗な肌を見てもらいたいとか思ったんでしょ」
「えっ?」
「俺が君の心の支えになれたのなら光栄だ。で、見てもらいたい誰かさんとは誰だろうな?」
目が合ったレナートは、いたずらっぽく微笑んでテネリを抱き締め、テネリは悲鳴を上げた。
明日、3話更新して完結する予定です
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