第91話 聖騎士様は見てはいけないものを見る
さらにあくる日の昼下がり、アルジェント侯爵のタウンハウスで若い女の絶叫が迸った。叫んだのはテネリで、家主であるレナートのほか家中の侍従がテネリの部屋の前に集まる。
侍従たちにとっては、一週間ほど前に家出した女主人が大怪我をして戻って来たのだから、喜びと申し訳なさと安堵と心配とが綯い交ぜになった状況だ。そこに叫び声が轟いたせいで、もう気が気でない。
「テネリ、どうした!」
部屋に到着してすぐ、殴るようなノックもそこそこにレナートが扉を勢い良く開ける。
「なっ、なっ、なっ――」
最初にレナートの視界に入ったのは、薔薇色の長い髪と真っ白な素肌。そう素肌、裸だ。驚いてレナートを見たテネリの頬もまた、薔薇色に染まって行く。
室内にいたメイドが、立ちふさがるようにしてテネリの前に立ち、レナートは反射的に扉を閉めた。振り返って侍従たちを睨みつけるが、誰も彼も遠くを見て素知らぬふりをする。
メイドが出てくるのを待つしかないか、とレナートが唇を噛んだとき、聞き覚えのある声が二重になって響いた。
「ただいま戻りました。わたくしどもがお嬢様の様子を見て参りましょうか」
「ああ、戻ったか。長旅のあとですまないが、頼めるだろうか。テネリも顔を見たら喜ぶはずだ」
集まった侍従たちのさらに背後にいたのは、ノルド領に残っていた双子の侍女だ。カエルラから戻ってすぐに、ハーブの栽培を切り上げて聖都へ戻るよう連絡していたのだが、いまようやく到着したらしい。
「応接室へ」
「ライアン様をお通ししております」
双子は口々にそれだけ言うと、丁寧に頭を下げてからテネリの部屋へと入っていった。レナートは何か物足りない気持ちで応接室へ向かう。
「やあライアン君、久しいな。怪我はもういいのか?」
室内へ入り、立ち上がったライアンに腰掛けるよう手で案内しながら、レナートは先ほど抱いた違和感をさらに強くした。
向かいへ座ろうと数歩ほど進んだところで、違和感の正体に気づく。
「ウルはどうした? ラナラーナも連れて来てよいと伝えたはずだが」
ライアンは何も言わず、足元に置いてあったらしい荷物を持ち上げた。それは以前にも使ったことのある犬用のケージだが、中身はもちろん犬ではない。
「ウル……か」
「ウルもラナもある日突然、元の姿に戻った。テネリたちがあんたを探しにノルド領を出て、一週間もしないうちに、だ」
テーブルの上に置かれたケージの中で、もふもふのタヌキがライアンの正面に座ったレナートに小さく頭を下げた。まるで申し訳ないと謝っているように見えて、レナートは首を振ってケージを開けた。
ローテーブルとはいえウルには高いのか、降りることもせずに右往左往している。そこへテネリの声が聞こえてきた。駄々をこねているのを、双子の侍女があやしているようだ。
「やだー! やだー! いまはレナートに会いたくないー!」
「そう仰っても、ライアン様もお戻りなんですよ」
「多分何も見てませんから大丈夫です」
先ほどの出来事が彼女の足を止めているらしい。レナートも本音を言えば、どんな顔をして会えばいいのかわからない。が、一体なぜ彼女が叫んだのかは知っておきたいし、さらに今は一刻も早くウルに会ってもらいたいところだ。
「ちょっとすまない」
レナートは一言ライアンに謝って席を立つと、応接室の扉を開けた。聞こえて来た声の大きさから言って、もう部屋の前あたりにはいるはずだ。
と同時に、足元を黒っぽいものがすり抜けて飛び出して行った。
「ヒィーン」
子猫よりもずっと高く細い声でウルが鳴いた。
部屋の前で双子に引きずられるような態勢だったテネリが、動きを止めてタヌキを見る。
「ウル? わぁ、ウルだ。元に戻っちゃってるね」
テネリがウルを抱き上げて顔を上げる。レナートと目が合うや否や回れ右をしたが、すぐに双子に捕まってしまった。
「テネリ、とりあえず部屋へ入ってくれ」
「ぅぅ」
「入ってくれ」
「……はぁい」
レナートは、俯いたままそそくさと応接室へ入るテネリに苦笑しつつ、双子に茶の準備を依頼した。
「またなんかやらかしたんだって?」
「やらかしたって失礼だね、テネリさんはなんと人間を救ったのです!」
「先ずはそこに座って」
「わぁっ! もう! レナートのばか!」
挨拶もなしに軽口を叩くテネリとライアンを見て、レナートは大人げなくテネリのこめかみにキスをした。なんだか無性に腹が立ったのだ。真っ赤な顔でレナートを罵りながらも、素直に隣に座るテネリの頬を撫でる。
「そういうのは後でやれっていつも言ってんだろ」
ライアンがため息交じりにケージを床へ下ろす。それを見てテネリは腕の中のタヌキに視線を落とした。
「ウルのことごめんね、面倒見てくれてありがと。私が魔力切れ起こしちゃったから変化の魔法が切れちゃったんだね。使い魔としての契約と変化の魔法は別だからさ、契約は残るんだけど」
「ラナはいなくなった」
「繋がりは切れてないし、元気にしてるみたい。でもウルもラナもそろそろ契約終わらせてあげないとね」
テネリの言葉に、その場にいた誰もが一斉に彼女を見た。腕の中のタヌキさえも、テネリを見上げて瞬きを繰り返している。
レナートは、テネリが鳩と一度限りの契約をしていたのを思い出した。
「それは……『使い魔はその場限り』っていうポリシーか?」
「もちろん。ラナはもう少ししたら冬眠の時期に入るしね。元々こんなに長く役目を引き受けてもらうつもりはなかったんだけど」
ウルはもぞもぞと動いてテネリの腕を出ると、ライアンの足元に纏わりついた。それを抱き上げたライアンが、喉の奥から絞り出すようにして問う。
「本人の意思は?」




