第89話 魔女もたまには素直になる
「ん……暑……」
テネリは寝苦しさを覚えて目を覚ました。寝返りをうとうにも、左手を拘束されているようで動かせない。シパシパして瞼も開かない中、右手で布団をめくると胸を鋭い痛みが走った。
「……っ!」
「テネリ、起きたのか? 体調はどうだ、傷は?」
その声がレナートのものであることはすぐにわかったが、音声の発せられた地点が驚きの近さで、テネリはパチリと目を開いた。
開いた視界の中心に、彫刻のような美貌が現れる。天井に描かれた絵画さえよく見えず、テネリは自分がどこにいるのか把握できなかった。
「近……」
「なんだ?」
「いや、かっこいいなって」
「……は?」
テネリとレナートは見つめ合ったまま、それぞれに状況を整理する。
自分が何を口走ったのか理解すると同時に、テネリの頬が薔薇色へと変わった。レナートは真っ赤になってうろたえるテネリを見て、深く息を吐きながら脱力するようにベッドへ顔を突っ伏した。
「えっと」
「それは反則だろう……。体調はもういいのか?」
「傷がまだ痛い、けど動かなければ大丈夫」
窓辺で日向ぼっこをしていたミアが、ベッドの上へと飛び乗った。小さな重みがテネリの身体に伝わる。
「アンタの薬も塗ってあるから、明日には痛みもひいてるわ」
「そか。ありがと」
「じゃ、アタシはソフィアに知らせてくるわね」
尻尾を左右に揺らせて、ミアがベッドを飛び降りる。カリカリと扉を引っ掻くと、レナートがそれを開けてやった。
豪奢な扉には見覚えがあるし、天井画も全容が見えて初代聖女オフィーキアとそれに仕える聖人が描かれたものだとわかった。なるほどここは王宮の一室かと納得する。
「病み上がりなんだから、ふたりで変なことするんじゃないわよ!」
「……はぁっ? しないか――痛っ! いったーい!」
「おい、大丈夫か」
傷の痛みに言い返すこともできないまま、ミアはどこかへ行ってしまった。出入口から飛んできたレナートが、テネリの手を握って髪を撫でる。
翠の瞳は不安そうに揺れて、テネリだけを見ていた。視線がぶつかると、まるで心臓がぎゅっと縮まったみたいに痛くなる。これは傷の痛みとは別物だ。テネリは慌てて目を逸らした。
「うん、平気。それでインヴィはどうなった?」
「死んだよ。もう何も心配することはない。犯人グループからは何名か死傷者が出たが、民にはなんの被害もなかった。君のおかげだ」
「そう、よかった」
テネリが微笑むと、レナートは満足そうに笑ってテネリの頬を撫でた。ベッドの端に腰かけて、どこから話そうかと呟く。
「そんなに長く寝てた?」
「いや、丸一日ってところだよ。魔力を使い果たすなんて無茶をするから」
言葉を切ったレナートがテネリを見つめる。心配と怒りとをちょっぴり混ぜた、安堵の表情だ。
テネリは自分の手でインヴィを殺さなかった、という現実を少しずつ受け入れ始めた。それは今感じている幸せを手放さなくていいということだ。
レナートがそばにいて、手を握って見つめてくれる。話しかけてくれる、笑ってくれる。当たり前のようでいて、全く当たり前ではない幸せがまだここにある。
嬉しいとか安心したとか、そんな感情が胸にこみ上げて涙になって溢れた。
「私、生きてていいんだ」
「生きていてくれないと俺が困る」
レナートがゆっくりと顔を近づけて、テネリの額に口付けた。テネリにとっては、その動作や言葉のひとつひとつが嬉しくて幸せでむずがゆい。
へにゃりと笑うテネリの目尻を、レナートの指が拭った。
「インヴィを殺したのは誰?」
「さぁ、誰だったかな。もう覚えてないよ」
「そっか」
魔女は嘘つきだ。人を陥れるためならどんな嘘だってつくから、慣れっこだった。けれどもこんなに優しい嘘を、テネリは知らない。
テネリは自分の左手を握るレナートの右手を両手で包み、自分の頬へと導いた。剣を握る彼の手は大きくてごつごつしているが、とても温かい。
この温もりだけは、ずっと失いたくないものだ。永遠に。そう、魔女として生きる長い時もずっと。
「どうした?」
「好きだなぁと思って」
「それは、手が?」
「何言ってんの、レナートがだよ」
ここでとぼけるとは思わなかった。テネリは唇を尖らせてジトリと睨みつける。怪我人の弱々しさを利用して素直になってみたというのに、大事なタイミングで空気が読めないヤツは最悪だ。
レナートは顔をくしゃりと崩して笑う。
「ハハ、悪かった。素直なテネリは珍しいから、意地悪してみたくなったんだ」
「サイアク」
「ああ。俺も好きだよ。いや、愛してる」
テネリが頬へ導いたレナートの右手は、優しく頬を撫でてから親指だけがテネリの唇をなぞった。指の軌跡を追うように唇が熱を持つ。テネリは翠色の瞳から目が離せなくなっていた。
「レナー」
言い終える前に、ふたりの唇が重なった。ずっと前に演技で口づけた時とは違う、熱くて優しくて泣きたくなるようなキスだ。
一度離れた唇が、まだ足りないとでも言うようにお互いを求める。いろいろな理由をつけては自分の気持ちを誤魔化して来たが、もうその必要はないし、そうすることもできそうにない。だから言葉にして伝えなくては。
再び近づいた唇が触れたそのとき、部屋の扉が大きな音をたてて勢い良く開いた。
「目を覚ましたって聞いたよ!」
「きゃああああああああああああっ!」
ずかずかと部屋に入って来たのはアレッシオだ。その後ろにはソフィアや聖王ディエゴ、それに先王フェデリコまでいる。
レナートが握った拳を震わせながら、怒りを押し殺すようにゆっくりと振り返った。
「殿下、入室前のノックはオムツの外れない幼子でさえできますよ?」
「あはは! テネリ嬢、芋虫みたいになっちゃったね!」
アレッシオは寝具にくるまって丸くなったテネリを指さして、腹を抱えながら笑った。




