第84話 魔女はとっておきの魔法を繰り出す
建物の中は恐ろしささえ感じるほど静かだった。時間が止まったようにガランとした中で、ただソフィアの歌だけがどこかから聞こえてくる。
エントランスの隅に、毛布が掛けられた大きな何かがある。二百余年の月日を生きたテネリにも、戦場を駆けた経験のあるレナートやアレッシオにも、その何かは見覚えがあった。遺体だ。
近づこうとするテネリを手で制し、レナートが走り寄って毛布をそっとめくる。続いてマントに縫い付けられた名前を読み上げた。
「マ……マルコ・マリーノ」
「ああ……。それはガスパルの隊の見習い上がりの子だね。カエルラとの戦が初陣だったはずだよ」
「王子様って家臣みんな覚えてんの?」
「まさか。カエルラとの国境へ向かう際に使った港が、彼の出身地だそうでね。少し話を聞いたんだけど、そのときに初陣なんだと目をキラキラさせていたよ」
戻って来たレナートが小さく首を振る。
ぽつりと寝かされていたマルコが生きているとは、誰も思っていない。しかしレナートの表情から、彼が安らかな死を迎えたわけではないことがわかる。
「凶器はわからないが、首を深く斬られていた」
「うーん、人間って仲間割れでいきなり首切ったりするの?」
「しないな。騎士なら絶対に」
「だねー。野盗ならいざ知らず、だ」
テネリは、インヴィが長い爪を鋭い武器に変えて人をいたぶることがあるのを思い出した。全く理解できない趣味だと思っていたが、理解できない自分にホッとする。
「じゃ、インヴィの仕業だね」
「そう、だね」
アレッシオは眉を寄せて厳しい表情だ。レナートは否定も肯定もしないまま、唇を噛む。テネリは遺体とふたりの表情とを見比べて、腕を組んだ。
インヴィが人を死なせたのなら、もちろん許してはおけない。亡くなったマルコを悼む気持ちだって無いとは言わない。けれども彼らと同じ表情になれないせいで、テネリは自分が異物なのだと思い知らされた。
「レナートとアレッシオはソフィア探しに行きなよ」
「は?」
「テネリ嬢は?」
テネリの提案にふたりの男が目を丸くする。レナートは怒気を含むような、アレッシオは心底意味がわからないといった風の声を漏らした。
「私はインヴィをおびき出す。そのほうが捜索に専念できるでしょ。それに敵はインヴィだけじゃないんだから、アレッシオをひとりで放り出すわけにもいかない。違う?」
「僕はこう見えても剣術の腕前は中々のものだけどね」
「俺は反対だ」
「反対意見は却下ですー。はい、行って!」
ふたりの背中を押しやるが、レナートだけはびくともしない。
「駄目だ! そんな危険な――」
「ソフィアの魔力はそう長く持たない。だからアレッシオが結界を引き継ぐの。そしたらレナートは二人を守らないと」
テネリとレナートの強い視線がぶつかり合うが、先に目を逸らしたのはレナートのほうだった。小さく息をついてテネリに背を向ける。
「ソフィアを助けたらすぐ戻る」
「テネリ嬢、無理はするんじゃないよ」
「ごゆっくりー」
テネリは足早に歩いて行くふたりの背を一瞥してから二階へ上がった。
恐らく犯人はインヴィのためにそれなりの部屋を用意しているはずだ、とテネリは考えている。例えば当主の部屋や客室のような。だから二階にいるに違いないし、そうでなくとも二階に誘いこめばレナートたちは自由に外へ出ることができる。
階段を登って右手側の廊下へ向かい、いくつかの部屋を覗く。誰もいないことを確認してほっと胸をなでおろした。人間がいたらそれはそれで面倒だからだ。
適当な部屋の扉を開けて中へ入る。整ってはいるものの味気ないその部屋は、元は客室だったのだろうか。ソファーやテーブルに埃避けの白い布が掛けられていた。
薔薇の意匠がほどこされた杖を取り出し、ひとつゆっくり深呼吸をする。ストロベリーブロンドの髪が根元からゆるやかに薔薇色へと変じていった。
インヴィに負けるとは思わない。ミイラ状態から起き上がったばかりの彼女なら、なおさらだ。今もきっと魔力の回復のために休んでいて、だからこれだけ静かなのだろう。
「あいつは、生かしてはおけないからね」
誰に言うでもなく呟きながら窓を開ける。
同族殺しは魔女にとって禁忌だ。彼女を殺せば大陸中の魔女がテネリを追うだろう。恐らく帝国の魔女は嬉々として捕まえに来る。帝国を動かし、リサスレニスに侵攻させてでも。
だがそれでも、リベルの仇はとりたいし、レナートに彼女を殺させたくもない。これは薔薇の魔女テネリ・ローザの意地と我が儘だ。
「天候操作、ハレ」
小さく唱えて窓から空に向けて杖をくるりと回す。
曇天がインヴィの味方をするとはいえ、今のインヴィが曇り空の下にいようと恐るるには足らない。それでも雲をうごかしたのは、何か嫌な予感がしたからだ。自分は何か、大事なことを見落としているのではないかと。
少しずつ雲が動いて、朝の爽やかな淡青色が姿を現す。
同時に屋敷のどこかで陶器の割れる音がした。雲を動かすだけと言っても、天候操作は大規模魔法群の代表だ。インヴィもテネリの魔力に気づいたのだろう。
「私はここだよ、インヴィ。早く来なよ。……領域創出、薔薇の舞台」
杖を持った腕を真っ直ぐに伸ばし、テネリがくるりとその場で回る。足下から蔓薔薇が幾何学模様を描きながら広がって、あっという間に床を覆い隠していく。それは家具はもちろん壁さえぶち破って、テネリが確認してきた複数の部屋をひとつづきにしてしまった。
薔薇はところどころで美しい花を咲かせながら、天井を支えるべく上へと枝を伸ばしていく。
自分だけの特別な魔法を作りなさい、それがリベルの口癖だった。誰にも真似できない、特別な魔法を。そしてテネリが考え、術式を組み、改良をほどこしてきたのがこれだ。
最初は母から身を守るための、小さな小さなテネリの個室だった。そのうちに人間から身を隠すために使うようになり、さらにここ数ヶ月で大きく術式を変えた。この日のために。
「テネリ、テネリ、テネリッ!」
怒りに満ちたインヴィの声が、すぐそばまでやって来た。




