第79話 聖女は魔女の本質を知る
「くそっ、くそっ! テネリめ……聖女め……」
艶の無い髪をばさばさと振り乱しながら床に爪をたてる姿は異様で、ソフィアもガスパルも声が出せない。
ゆっくりと女が顔を上げ、薄曇りの空の色をした目が対峙する人々を睨みつけた。ともすれば母親よりも年上に見えるほど老いた容姿に驚いて、ソフィアは瞬きを繰り返す。
――中年になるまで成長が止まらなかったらしいんだよね
以前、テネリが曇天の魔女について問われたときにそう答えていたのを思い出した。だから素顔を晒さないのだと。そして、やはりこの女がインヴィであったのだと首肯した。
そのうちにガスパルが彼女をどこかへ運ばせようと、近くにいた若い男に声をかけた。騎士団員の男ふたりがおずおずと、うずくまったままのインヴィへ近づいて行く。
「あの……」
壊れた操り人形のような不自然さで頭を上げたインヴィが、手を差し伸べた男を見つめて口を開いた。
「いい男ね……銀色の目がとても綺麗……」
「あ、はぁ」
「でも翠じゃなきゃ」
赤が散る。
素人の描いた絵画を眺めるような冷めた目で彼女が首を撫でると、パッと血が迸った。ソフィアには、いやその場にいた誰にも、何が起きたのかを正しく理解することはできなかった。インヴィが手を伸ばして男の首に触れた、ただそれだけにしか見えなかったのだ。
生暖かいような冷たいような液体が頬に飛んで、ソフィアは声が出せない。ガスパルが何事かを叫びながら、インヴィに剣を向けるのが見えた。血濡れた男がどさりと倒れる。
「聖女はもういいわ、正面から相手するのは面倒。でもわたくしに何かしようとするなら、死体も増えるわよ」
インヴィは大声で狂ったように笑いながら、ソフィアたちに背を向けて歩きだす。ガスパルがそれを追いかけて部屋を出て行くのが視界に入るが、ソフィアの頭はすでに思考を止めていた。
どれくらいの時間が経ったのか経っていないのかわからないが、ソフィアの耳にズリズリと物を引きずる音が入って来た。それが遺体を片付ける音なのだと気づいて、ぎゅっと目を閉じる。
「目が綺麗だったから死んだなんてお袋さんに言えるかよ」
「翠色じゃないからだろ」
「お前がそう伝えて来いよ」
遺体を片付ける男たちの会話を聞きながら、ソフィアは自分の身体を両手で掻き抱く。
魔女のいない国で生まれ育ち、初めて出会った魔女がテネリだったソフィアにとって、魔女の純粋な悪性は衝撃だ。魔女にとって人の命は羽毛のように軽い。だから人は魔女を恐れ、見つけ次第すぐに罰しようとするのだろう。
「遺体を片付けてくれたのか、ありがとう」
ガスパルが戻って来て、部屋の中に安堵が戻った。
屋敷へ雷を落としたり、壁を壊すほど暴れたために近隣の民が混乱しているらしい。恐らく捜査の手が伸びるだろうと、ガスパルはその対応について部下らしき男性と簡単に打ち合わせていた。
話し終えたガスパルがふいにソフィアへ向き直る。
「インヴィは死んだように眠りこけています。本調子じゃないらしい」
「まだ彼女を解放しようと考えていますか?」
ソフィアの問いにガスパルは唇を引き結ぶ。思い悩むように組んだ腕には、きつく包帯が巻かれていた。
少しの間のあとで、ガスパルが言葉を絞り出す。
「我々には魔女の助けが必要だ。だが助力を得る条件として提供できるのは、身柄の解放くらいしかありません」
「助けというのは……血が止まらないのですよね?」
彼の包帯は、カエルラとの戦で国境へ向かったときには既に存在したものだ。たいした怪我ではないと言っていたが、未だ治っていないのは明白。
加えて、ソフィアは以前テネリが話したことを思い出していた。インヴィがベリーニ伯爵たちに手渡す薬には副作用があるのだと。
ガスパルが眉根を寄せて腕の包帯に触れた。
「貴女は知る必要のないことだ」
「インヴィはそれを治してはくれません。なぜなら彼女があえて薬にそのような効果を――」
ガスパルが近くの椅子を強く蹴り飛ばして大きな音をたて、ソフィアの言葉を遮った。その場にいる誰もが声を殺して、怒り心頭のガスパルを見守っている。
「薬のことまで知っているならもう黙っていろ!」
「できません! 彼女を外に出すことはなりません。それに、インヴィに頼らずとも治せるのです……私や、テネリ様なら。」
「我々は、貴女の世話にも薔薇の魔女の世話にもならない。くそっ。貴女がいなければインヴィもあれほど興奮することはなかったし、こんな騒ぎが起きなければ王家の捜索がこちらに向くこともなかった」
ソフィアとガスパルの視線が強くぶつかる。一歩も引くつもりがないことは、お互いによくわかっていた。
小さく息を吐いたソフィアが先に口を開く。
「まず、治療しますので怪我人を連れて来て下さい。それから……少なくとも彼女と交渉する間は、あなた方も逃亡を阻止したいわけですよね。でも人間が魔女を留め置くことは不可能です。ですから私が彼女の部屋に結界を張ります。それでよろしいですね」
「結界の範囲は敷地の周囲にしてもらえますか。部屋に閉じ込めてしまっては交渉が難航する」
「そうしたら皆さんの安全が確保できません。先ほどのように――」
「構わない。自分のことだけ考えて……ああ、いや。もし貴女に助けを求める者がいたら、できることをしてやってください」
ガスパルが背を向け、扉の方へとゆっくり歩き始めた。ソフィアはそれを戸惑いながら見つめる。彼の背中は死を恐れていないというよりも、死にたがっているような気がしたのだ。




