第77話 聖女は眠れぬ夜に外へ出る
曇天の魔女インヴィ・ヌビルスが完全に捕縛された状態で連れ戻されてから、リサスレニス聖国の城内は常に慌ただしかった。業務に忙殺され、疲れ切った人々は些細な違和感になど気づかない――。
インヴィの処刑を明日に控えた深夜、ソフィアはもう何度目かわからない寝がえりの途中で身体を起こした。ベッドから降りると、毛足の長いふわふわのカーペットが素足を包む。
魔女の処刑は他人事ではない、とソフィアが言っても理解してくれる人間はほとんどいないだろう。だがソフィアは確かに一度は魔女として処刑されかけたし、今は自分が聖女と呼ばれているだけの魔女だと理解している。
インヴィは悪事を働いたから処刑するのだよと、アレッシオは不安がるソフィアに安心を与えようとしてくれた。けれども魔女だというだけでひっそり暮らそうとするテネリを見て、自分だけぬくぬくとしていることに疑問も覚える。
「……はぁ」
何かざわざわと心が落ち着かない。明日の処刑に対する緊張だけではなく、今、何かがおかしいと感じているのだ。これは魔女としての感覚であり、精度に自信はまるでないのだが。
ソフィアはガウンを羽織り、ルームシューズではなく低いヒールのパンプスを選んで履いた。心を占拠する不安感の原因も探りたいところだが、今ソフィアがすべきなのは明日に備えて眠ること。だから落ち着きを取り戻す必要がある。
部屋の扉を開けるとすかさず声がかかる。
「聖女様、どちらへ?」
「眠れなくて、少しお散歩しようかと」
部屋の前で番をしていた護衛が眉を顰めた。ソフィアは寝つきも良く、今まで夜中に出歩いたことがなかったせいだろう。
先王が歓迎の意を込めて整えたという庭を少し歩けば、花の香りで安らぐこともできるはずだ。庭へ出ようと聖女宮の長い廊下を歩くうちに、騎士団の詰所の一角が窓から見えた。
王城の敷地内には多くの建物があるが、聖女宮と騎士団関連施設は比較的中心に近い位置にある。これはどちらも敷地の防衛に関係するためだ。
ただし詰所の地下には牢もあるため、聖女宮と詰所とが直接行き来することはできないようになっている。
「何かおかしいと思いませんか?」
「おかしい、ですか」
ソフィアが立ち止まって背後の護衛に声をかけた。護衛はソフィアの視線の先を追ったが、何も感じられないらしく首を傾げるばかりだ。ソフィアもまた、何がおかしいか明確に説明できない。ただ、不安感の原因は詰所にあったのだと感覚的に理解しただけだった。
「はい、何か気になります。行ってみましょう」
「いけません、聖女様。我々が確認して参ります」
女性の護衛がソフィアの傍らに立ち、男性の護衛が歩き出す。だがそれもソフィアには何かが引っ掛かった。言葉に言い表せない不安感――。
一瞬だけ考えて、ハッとする。当たり前のことながら、地下牢にはインヴィがいるのだ。
「いいえ、私も行きます。もし魔女に何かがあったのなら、私でなければならないはずです」
各国の聖騎士団に相当する部隊では、それぞれが信じる神――リサスレニスならば聖女の加護が与えられ、魔女に対抗できる力を得るのだと言われている。
だが少なくともこの護衛たちは近衛兵であって、魔女を目の前にした場合にどうにかできる力はない。
「しかし……っ!」
なおも食い下がる護衛に困ったように笑いかけて、ソフィアは詰所へ向かって歩き出した。
近づくほどに全身が粟立つような感覚に襲われる。憎悪だ。解き放ってはいけないものが出てきてしまった。
「聖女様、どうしてこちらへ?」
詰所へ向かう途中の修練場の付近で、前から歩いてきた男が問う。
体格のいい四十手前のこの男は古くから聖王派に属する子爵家の子息で、カエルラとの戦争においても真っ先に参じてくれた人物だ。騎士団の中でもいくつかの大隊を配下に持ち、相応の地位にある。
「ああ、ガスパル様。お会いできて良かった。妙な胸騒ぎがして不安だったのですが、インヴィは……」
ガスパルはソフィアに冷たい視線を投げただけで、背後の護衛を叱責した。
「どうしてみすみすこっちへ来させた? 何のために聖女の護衛につけたと思っている」
「すっ、すみません!」
ソフィアの背後からは逼迫した男女の謝罪が聞こえた。会話の意味がわからずにソフィアが目を白黒させたとき、ガスパルの後ろにさらに複数の人の気配。
少し距離を置いて息をひそめながら様子を窺っているその気配に、ソフィアが目を向ける。ふたりの男が大きな荷物を運んでいる……ように見えたが、それは荷物と言うにはあまりにも禍々しいものだった。
「それは――っ!」
毛布に巻かれてはいるが、それは確かにインヴィ・ヌビルスだ。毛布の捲れた部分から薔薇の蔓がこぼれている。
「良い子で寝ていれば誰も手を出さなかったものを」
大きな一歩でソフィアの目の前に立ちはだかったガスパルの大きな拳が、ソフィアが状況を理解する前にその腹へと埋められた。




