第76話 魔女は恋心を持て余す
その日テネリとレナートは修道院からほど近い宿屋で一泊することとなった。空き部屋がひとつしかないという事実に、テネリがパニックになる事件もあったのだが。
「患者の症状が快方に向かって、見舞客が増えていたのは計算外だったな」
部屋に入るなり、ミアは本来の仕事である警備業務を遂行するため出て行ってしまった。最も警備してほしいのはこの室内だというのに。
小さな部屋で二人きりとなり、それぞれ別のベッドに腰かけた状態だ。レナートが身じろぎするたびテネリの身体が固まって、妙な緊張感が部屋を満たしていた。
5分ほどその状態が続いたところで、レナートが諦めたように口を開く。
「そんなに俺を見張ってばかりいると疲れてしまうぞ」
「べ、別に見張ってるわけじゃ――」
「それとも、意識してもらえているのだと喜ぶべきか?」
レナートの言葉に、静まりはじめたテネリの心音がまたドキリと跳ねる。返すべき言葉がすぐには思いつかず、枕を投げつけることで恥ずかしさを誤魔化した。
「もう! だからそういうこと言うキャラじゃないでしょ!」
「そうだな。俺も、少し意識してしまっているんだろう。冗談のように茶化していないと、無理にでも君を聖都へ連れ帰ってしまいそうだ」
眉を下げて自嘲気味に笑うレナートは、テネリも初めて見る。優等生で少し腹黒くて、何事にも余裕のある自信家だと思っていたのに。同時に、レナートがいかにテネリの気持ちを尊重しようと努めてくれているのかを知る。
胸がふわっと軽くなった気がして、テネリは肩の力を抜いた。
「今日の修道院さ、」
「意識されなさすぎるのも寂しいものだな」
「あっ、いや、……はぁ?」
レナートは「冗談だ」と笑って話の続きを促した。
「すっごい感謝されたけど、あんまり現実感ないなと思って」
彼らのほとんどはカフェ・ファータの上得意だったらしい。食事に使われていた魔法薬への依存症状は、他の人々と比べ物にならないほど酷い状態だったという。それがテネリの作った解毒剤で徐々に治ってきたのだと院長が説明してくれた。
「ドゥラクナで暴動があって、それを鎮圧するのに聖騎士団も動かしたという話をしたことがあったろう。修道院にいた者の多くは、その暴動に参加していたんだ。今がいかに正気を取り戻した状態かわかるんじゃないか?」
「うん。だいぶ元気になったみたいで良かった。でも私、善意で助けたわけじゃないからなぁ」
当時は協力することの対価として平穏な生活を与えてもらえるのだと思っていた。もちろん、国家の秘密を聞かされたせいで半ば強制的なものではあったが。
「動機はどうあれ、治療のための薬を作るという発想ができることが善なる魔女だと思うがな」
レナートの言葉は、いつもテネリに自分とは違う観点を教えてくれる。確かに、これが曇天の魔女や帝国の魔女なら間違っても薬なんて作ることはなかっただろう。テネリの知る限り、こういうときに治療方法を考える魔女は一人だけだ。
「リベルはいつも人のために何かしてたから」
「ああ、リベルか。……インヴィのこと、よく我慢したな」
「人間には人間のルールがあるし、インヴィを裁きたいのは私だけじゃないもんね」
インヴィの処刑についてはアレッシオに任せてきた。
間接的とはいえリベルを殺したインヴィのことを、テネリはもちろん許せやしない。できることならこの手で殺してやりたいとも思っている。
だがそれは人間のやり方ではないらしい。
それに仮に魔女の問題だからと人間側が目をつぶってくれたとしても、インヴィを殺せば嫌われ者のテネリはすぐに他の魔女たちに囚われるだろう。
つまりレナートのそばにいたいのだ。
そう気づいて、テネリは自分の両膝をぎゅっと胸に掻き抱いた。じわりと頬が熱くなって鼓動が加速する。人間がこれを恋と呼ぶことくらいは、テネリでも知っている。そばにいたくて、触れたくて、名前を呼んでほしくて。
「俺はリサスレニスの善なる魔女を誇りに思うよ」
「んっ! あ、ありがと……?」
動悸の抑え方も知らないというのに、レナートへの恋心を自覚した直後にそんなことを言われても困ってしまう。暴れ狂う心臓を持て余しながら、いっそ憎らしいほど穏やかなレナートの横顔を見つめた。
「そういえば明日が処刑の予定日だったな」
「あーそうなんだ。それはそれで現実感がない」
「見物するか? 空を飛ぶならすぐだろう?」
いたずらっ子のような翠色の瞳がテネリに向いた。その瞳に、インヴィの死ぬ瞬間を映して欲しくないなとテネリは思う。死を通して彼の記憶に残り続けてほしくない。魔女は執着心が強いのだ。
綺麗な瞳をもっと近くで見たくて、テネリは枕を取りに行くふりをしてレナートのそばへ寄った。
「んー。それよりせっかく双竜湖に来たんだし……」
ベッドに腰かけるレナートの脇に立つと、背の高い彼より視線が高くなって気分がいい。スッと通った鼻筋も長い睫毛も、そばかすひとつない肌も作り物みたいだ。
「どうした?」
テネリを見上げる翠の瞳に戸惑いの色が浮かぶ。
「えっ……、あっ! ちがっ、ちがっ、ばかっ!」
見惚れ過ぎた。我に返ると、端正な顔が思ったよりもずっと近いところにある。枕を手に取って照れ隠しにボスボスと叩くうち、振り上げた枕がテネリのバランスを崩してしまった。
「きゃーっ」
「危ない!」
支えるためレナートがすぐに手を伸ばすも、テネリはそれを避けようとして身体を捩る。結局足がもつれ、そのまま前へと倒れこんだ。
「大丈夫か?」
深みのあるレナートの声が耳元で聞こえる。顔を上げると、目を逸らすこともできないような距離に翠の瞳があって、体の下には引き締まった筋肉が感じられた。
テネリは何が起きたのかを理解したものの、一瞬にして熱がのぼってしまった頭では思考がまとまらない。ただ右手の下にいつもより早いレナートの鼓動を感じ、それが余計にテネリの思考を塗りつぶす。
二人の唇がどちらからともなく近づいて重なる。
「ストーップ! 何してんのよアンタたちーっ!」
ミアの叫び声を合図に、ふたりはばね仕掛けの人形のように飛び起きた。




