第74話 魔女は真名の意味を知る
アレッシオが準備したテネリの家はごく普通の三階建ての小さな住宅だ。と言っても、ここへ住み始めてまだ3日。以前の住人が置いていった最低限の家具があるだけで、ガランとしている。
自宅へ戻ると、窓際の日向で昼寝をしていたミアが眠そうに頭をもたげた。
「あら、早いわね。なにかあった?」
「レナートが来た」
「……はーん、なるほどね」
ミアは金色の瞳を意地悪くすがめて尻尾を緩く振った。テネリがエプロンを脱ぎながら窓辺に近づくと、背後から聞き慣れた声がする。
「鍵を閉めないのは不用心だな」
「――っ! な、な、なにっ?」
テネリが驚きのあまり何も言えずにいるうちに、レナートは我が物顔で家へ入る。長い足であっという間にテネリの目の前までやって来ると、一瞬だけ窓の向こうへ視線を投げてからカーテンを閉めてしまった。
「大事な話をするにはちょうどいいな。人目はなくて、時間はたっぷりある」
「話すことなんてないけど」
「さっきの話が終わってないのでは?」
ふたりの足元をすり抜けて、ミアが部屋の真ん中にあるダイニングテーブルへと飛び乗った。1階は小さなキッチンと小さなダイニングセット、そして小さな観葉植物があるだけだ。
テネリもレナートと向き合わざるを得ない。
「だから……交尾できないじゃんって」
俯いたテネリの口から、目の前にいるレナートが辛うじて聞き取れる程度の呟きがこぼれる。レナートは口元に笑みを浮かべてテネリの頬に触れた。
「まず第一に、俺はそういった行為より心の繋がりのほうが大事だと考えている」
「でもずっとできないのは辛いって聞いたことある」
「そうだな、そうかもしれない。でも――」
レナートが言葉をきって、テネリを見つめた。頬を撫でていた優しい指は、耳に触れ、頭を撫で、そして髪を一房持ち上げる。
テネリは触れられた場所が、まるで太陽に照らされたみたいに熱を持つのを感じた。リベルや生みの母に頭を撫でてもらった時のような安らぎとは少し違う。インヴィの薬を飲んだときや、レナートとキスをしたときのように身体の内側から熱くなるような感覚とも違う。
不思議と泣きたくなるような温かさだ。
「でも?」
みるみるうちに薔薇色に戻ったテネリの髪に、小さくキスをしたレナートが困ったように笑う。
「俺は君としか、そういった行為をしたいと思わない。もし君が……俺の前から姿を消しても、俺はきっと誰ともしない。だから君がそれを心配する意味はないんだ」
「そんなの――」
あり得ない、と言おうとしたテネリの脳裏にボブ爺さんの言葉が浮かぶ。
――幸せだったよ
ボブが若い頃、自分に好意を寄せていたことにテネリは気づいていた。しかし人間の青春時代などテネリにとっては一瞬だ。誰も彼も、好意を寄せてもすぐに心変わりする。だからボブも同じだと思って気にしていなかったのに、彼はずっと独りだった。
ぎゅっと握り込んだテネリの拳を、レナートの大きな手が包む。
「俺には君だけなんだ」
「さ、先のことはわからないでしょ。だって貴族の男に守る貞操なんてないって、お客さんも言ってたし」
そうだ。田舎の隅っこで畑仕事をするボブと、若く煌びやかな女性たちに囲まれるレナートとは違う。いつかきっと心変わりして後悔するに違いないのだ、とテネリは唇を尖らせた。
「それはさっきの新聞の話か? 貴族かそうでないかに関係なく、貞操を守る男は思っている以上に多いものだ。俺の父もそうだろう?」
「ルイジは結婚してるから……あれ? ベリーニ伯爵も結婚してるんだっけ」
「ん、何を言ってる? 結婚してなければ息子も娘もできやしないだろう」
「えっと、ごめん。貞操ってどういう意味?」
蜂蜜色の瞳を真ん丸にするテネリの耳に、クツクツと笑うミアの声が届いた。笑っているのを隠しているつもりか、背中を向けて身体を震わせている。
一方でレナートはどう説明したものかと言葉を選んでいく。
「倫理的に純潔を守るということだ」
「そうだよね」
「倫理的に純潔を守るというのは、妻または夫以外の人間と性的な関係を持たないということだ」
「そうなの? 貞操と貞節って同じ意味だと思ってたのに」
納得がいかないと言いたげに眉を寄せてテネリが首を傾げる。レナートはテネリが何を言いたいのかわからず、同じように首を傾げた。
「意味は同じだ。貞節が女性にのみ限定される言い回しであることを除けば」
「ん? つまり貞節も、夫以外の人と……ってこと? 処女とは違うの?」
「アーッハッハッハ! だからリベルに言ったのに。『あの子、絶対意味をちゃんとわかってないわよ』って!」
ついに耐えきれなくなった黒猫が、腹を抱えて笑いだした。
その姿を見て、テネリはやっとリベルの言葉の意味を正しく理解した。真名としてテネリが考えた「バージニア」を却下した理由も。貞節を意味する「カスティ」を推した理由も。
「リベル……!」
「おっ、おい!」
理解したと同時に全身から力が抜けたテネリを、レナートがすんでのところで抱きかかえた。




