第73話 お客様は話が聞きたい
テネリとレナートの口論はその後も十数分続いた。
聞こえてくる言葉も、注意できずにモジモジしている支配人も、楽しそうに眺めている料理長の姿も、全てが口論する若い男女の正体を明かしているのだ。店内にいる客は皆、アルジェント侯爵とその婚約者テネリ・ブローネ伯爵令嬢の口喧嘩の行く末を耳だけで見守っていた。
「だからどうして何も言わず出て行ったのかと聞いてるんだ」
「はっきり言わないとわかんないの?」
「さっきからそう言っている、曖昧にしてるのは君だぞ」
テネリが唇を噛んだ瞬間を見計らって、ひとりの客が手を上げる。支配人がそっと客の元へ赴き、オーダーをとった。
「だから結婚したくないんだってば」
「家出の直接的な理由とは思えないがな。貴族の結婚は個人の感情だけでは解消できない。話し合いが必要だ。だが君は――」
レナートが長々とテネリに結婚論をぶつ間に別の客が手をあげ、支配人がオーダーをとる。
十数分の間ずっと同じ話題がぐるぐるとまわった結果、店内の客は動いていいタイミングを図れるようになっていた。
「みんなに心配かけたのは悪かったけど。とにかく結婚は……」
「俺はテネリを一人にするつもりはない」
「どういうこと?」
今までのループと違って話が新展開を迎えたため、何人かの客が手をとめ、何人かの客はふたりのほうへ視線を向けた。
ざわめいた店内へテネリが目を走らせると、全員が思い思いに食事を楽しむいつもの店となる。客の間には、かつてない連帯感があった。
「誓約」
「は? もしかしてミアみたいになるつもり?」
「そうだ」
「あんなの全くイイモノじゃないって言ったよね? こないだもミアがどうなったか見たでしょ、あんな姿になっても死ねないんだよ?」
死という単語に客たちが息を呑む。一体なんの話をしているのか、いまいち全容が見えて来ない。
「だが君の薬のおかげですぐに良くなった」
「いつ視界を覗かれるかわかんないんだよ? 浮気だってできないよ」
「すると思ってたのなら甚だ遺憾だ」
一部の男性客が顔を見合わせて目を白黒させた。中には、「うわぁ」と呟いた男性が連れの女性に叩かれたりもしている。
また、勘のいい一部の客がテネリのことを魔女かもしれないと指摘し始めた。
「でも無理」
「家のことなら俺が責任を持ってどうにかする。誰にも何も言わせない」
「でも」
「他には何が問題になってる? ひとつひとつ解決していこう」
店内の女性客の一部が拳を握った。高位の貴族で優男のレナートが言葉を尽くしているのに、でもでもだってと頷かないテネリにヤキモキしているのだ。「他に何が問題」なのかは、もしかしたらレナートと同じくらい彼女たちも聞きたがっていたかもしれない。
「……言ってるじゃん」
「なにを?」
「だから、交尾できないって言ってるじゃん! 浮気もできないし交尾もできないし、その状態で永遠を生きれば絶対後悔するに決まってるでしょ! 私はレナートに幸せな人生を送ってもらいたいのにっ」
「その件は――」
レナートが何か言う前に、ふたりは店内の様子がおかしいことに気づいて口を噤んだ。店の中は静まり返って、誰もがふたりを見ていた。立ち上がっている者も少なくない。
誰の目にも明らかなほど、テネリの顔からわかりやすく血の気が引いて行った。テネリはすぐにレナートの胸に顔を埋め、ぶつぶつと何事か呟き始める。
「ねぇ、みんな聞いてた……。 えっ、どうしよう。忘却の薬持ってくればいいかな。家にあると思うんだけど、飲ませればいい? ぶっかける?」
「落ち着け、落ち着くんだ。大丈夫だから、誰も何も聞いてないし見てない。ほら、もう一度落ち着いてよく見て」
レナートに肩を掴まれ、そっと引き剥がされたテネリが顔を向けるのに合わせて、客たちはそれぞれのテーブルに座り直して食事を楽しみ始めた。このチームワークは二度と味わえないかもしれない、という確かな仲間意識が客の心をひとつにする。
「おっはようございまーす」
話の続きを切望する店内に、元気な声が響き渡った。午後から出勤予定であった従業員が少し早めに店へやって来たのだ。
「あっ、おはよー」
いたたまれない空気を壊してくれたことに感謝したテネリが声を掛けるが、従業員はきょろきょろと店内を見回して数度瞬きをした。
「え、なんですか? あれ? 俺なんかやっちゃいました?」
店内中から冷たい視線を浴びた従業員が狼狽えるうちに、テネリはレナートのそばを離れて支配人のところへと逃げ込んだ。客たちは賑やかな貴族カップルの口論の終わりを察して息を吐く。
「えっと。事務作業のお手伝い、でしたっけ」
「あ……。いえ、今日はこれで勤務終了で構いません。彼も十全に動くことができないかもしれませんから、ワタクシはホールを離れないつもりです。作業をお教えすることができませんから」
支配人は長年の接客経験から、ホール中の客、そしてテネリの背後に立つ貴族の視線が彼に何を求めているか即座に読み取った。客たちもまた、これが一流の店の接遇かと心で拍手を送る。
しかしテネリは客たちの期待とは裏腹に、レナートを振り返ることなく店を出て行ってしまった。
「可愛い婚約者ですね、旦那」
ひとつ小さく息をついたレナートがテネリを追いかけようと歩き出したところで、客の中の誰かが声をかけた。レナートは振り返ってニヤリと笑う。
「彼女は薔薇の魔女なんだ」




