第68話 魔女は聖女に助言する
「そろそろ港も近いそうです。こんなに早く移動できるのですね……」
「季節的にも西の風が吹きやすいから、ちょっと強くしてやればこんなもんだよ」
「テネリ様がいてくださってよかった」
そう微笑みながらティーポットに手を伸ばすソフィアが、テネリには確かに聖女に見えた。
個室をあてがわれただけありがたいが、小さなテーブルに向かい合わせに座ると足がぶつかってしまいそうだ。
「真名は考えた? 魔女の力を高めてくれるものであり、急所でもあるから慎重に――」
「はい、カロリーナはいかがでしょうか。私は守ることと癒すことしかできません。この力を強く欲するとき、国や民は危機に瀕している可能性が高いのです」
「歌か。うん、いいかも。時間にも季節にも状況にも左右されないもんね。ただ歌うだけでいいし、それはソフィアじゃない誰かが歌っていてもいい」
この数日の間テネリはソフィアへ、魔女としての基本的な魔法や知識を授けていた。使い魔のこと、魔力のこと、誓約の意味と効果と。
ソフィアへ教えながら、リベルのことばかり思い出す。彼女はどう説明しただろうか、何が大切だと言っただろうかと。それに、弟子は他にいないと言ったのに教えるのが上手だった理由も。
「そうです。どんな状況にあっても力を揮えるように」
「カロリーナもとても可愛いんだけど、こっちはどう?」
小さなテーブルに指でゆっくり一文字ずつ記す。ソフィアの表情を見て文字を確認できたら次の文字を。
「あ、り、あ。これは?」
「大体同じような意味で、何が違うかって言うと――」
快晴の空色をしたソフィアの瞳を見つめて解説をしようとしたテネリを、差し込むような頭痛が襲う。こめかみを押さえながら椅子の背にもたれ、ぎゅっと目をつむる。
この会話は以前にもどこかでしたはずだ。リベルが木の枝で文字を書いた。意味を問うテネリの耳に口を寄せて、……彼女はなんと言ったのだったか。
「テネリ様、大丈夫ですか? お顔の色が優れないようです」
「大丈夫」
伸ばされたソフィアの手首を掴み、そっと押しやる。代わりに喉に流し込んだ温い紅茶が心地よかった。
「ご無理はなさらないでくださいね」
「うん。でね、続きなんだけど、アリアは歌だけでなく旋律を意味するでしょ。カエルラでは歌劇における主人公の独唱を意味したりもする」
「確かに、聞いたことがあります」
「この言葉の意味をしっかり認識するの。そうすれば舌を切られても喉を焼かれても、メロディーを奏でることだけ忘れなければ道が拓ける。敵のハミングだっていい。さらに、ソフィアひとりが歌えば一層強くなれる、っていう条件付けだってできる」
テネリの言葉を食い入るように聞き、真剣な表情で頷くソフィアが「はい」と震える唇で発した。
「あなたは王妃になる。魔女のいない国だとか平和な国だとか言われてるけど、それは昨日までのことだと毎朝思い出して」
「……はい」
レナートの姿が見えなくなったのは少し目を離した間のことだった。少しずつ侵食していたカエルラの脅威が、突然その夜リサスレニスに牙を剥いた。
盤石だと思っていた足元が崩れるのは、いつだって一瞬のうちだ。
「ソフィアは自分が力を欲するときがどんな時か、よくわかってるみたいだから話はこれで終わり」
「はい! ありがとうございます」
テネリもソフィアも、大きく息を吐いて脱力した。船内でやるべきことはこれで全て完了だ。鳩も昨日アレッシオに言われて聖都へ飛ばしたところ、先ほど返事を持って戻って来るという快挙を成し遂げた。
生まれたときから魔力を持ち、魔法を使いながら育つ一般的な魔女とソフィアは違う。聖女の印が出て初めて魔力を知覚するのだと、この船上で話して初めて知った。
「魔女としては生後数ヶ月のベイビーだってのに、凄い魔力量とセンスだよね」
「そうでしょうか」
「リベルが一番強いって思ってたけど、代々の聖女のほうが強いんだろうな……そりゃそっか、私の魔法も止められるんだもんね」
まだ翠の目の力が弱まる前、レナートはテネリに魔法を使わせなかった。誓約の文言は聖都へ戻るまでわからないが、恐らく聖女の力を防御と癒しに限定する内容も含まれているのだろう、とテネリはあたりをつけている。
「私、テネリ様には幸せになってもらいたいと思っています」
「んんっ。いきなりなに」
「レナート様のこと、好きなんですよねっ?」
「はっ?」
持ち上げようとしたカップを取り落とし、ソーサーの上でガチャガチャと耳障りな音をたてる。
「おふたりが無事にご結婚できるよう、私も聖王様にお願いしますから。諦めないでください。きっと大丈夫ですから」
「えっと、え?」
真っ直ぐなソフィアの目に、テネリはなんと返答したものかわからない。
魔女が人間と結婚できるわけがない。リベルの過去はその当たり前のことをテネリに思い知らせた。気持ちでどうにかなるものではないと。
「ふたりとも、もう港に着くよ」
答えに窮したテネリを救ったのは、アレッシオのノックだった。




