第66話 魔女は聖女の先生になる
船首に立つソフィアの手から飛び立った鳩が、頭上をくるりと旋回してから船の舳先に止まった。
甲板を一周走るだけでもいい運動になりそうな大きさの船で、いくつかの部隊を連れて聖都へ向けて出発したところだ。
「また失敗……」
大きく肩を落としたソフィアが舳先へと歩を進める。船尾で待つアレッシオに向けて、使い魔にした鳩を飛ばす練習をしているのだが上手くいかない。
ソフィアの師匠となったテネリは根気よく指導を繰り返した。
「ちゃんと使い魔にお届け先の明確なイメージを伝えないと駄目だよ。アレッシオなんて分かりやすく美男子だし、強い感情があるなら普通よりずっと伝わりやすいと思うんだけどなぁ」
「つっ……強い感情、ですか。あっ! 鳩さん!」
テネリの言葉に顔を真っ赤にしたソフィアが、指示もないまま飛び立った鳩を追いかけて走り出す。恐らく、大きく揺れた情緒に使い魔が驚いたのだろう。
「難航しているようだな」
「えっ? あ、うんそうかな、そうだね」
突然現れたレナートに、テネリの声が上擦る。大きく左に一歩ずれて鳩を探す振りをしたら、レナートもまた一歩近寄った。
「なんで避ける?」
「私が魔女だってバレてるのに、婚約者の振りしても仕方ないでしょ。魔女相手に正式な婚約破棄だって必要ないよ」
「振りじゃない」
反論しようと右隣りの男を仰ぎ見ると、待ってましたとばかりにテネリの頬にキスが落とされた。
何を言おうとしていたのかすっかり忘れて、テネリは左の頬に手を当てる。そこだけ高熱を持ってしまったものだから、冷やさなければならない。
「なっ、いきな……なんなわけ?」
「なにって、愛情表現だろう」
今度は言いたいことが渋滞しすぎてスムーズに言葉として出てこない。
誰かに借りたのか、侯爵にしては薄手で少々質素なシャツを着たレナートは、スタイルの良さを遺憾なく見せつけている。テネリはぷいとそっぽを向いて目を逸らした。
「何考えてんのか全然わかんない」
「もっとわかりやすい愛情表現がお望みだったか?」
「レナートってそういうキャラだったっけ?」
強く風が吹いてソフィアのドレスの裾がパタパタとはためく。リベルの家から拝借してきたテネリのワンピースは、横に立つレナートのおかげで風に揺れてはいるものの押さえる必要もなければ寒さも感じない。左頬に添えた手をさらに強く押し当てた。
「それで、ソフィアの様子は?」
「うーん、筋はいいと思うんだよね。今日中には使役できるようになるんじゃないかな」
「そうか。殿下が向こうで寂しそうにしていたものだから、様子を見に来たんだ」
レナートが親指で船尾方向を指して笑う。その言葉でテネリは「鳩が届くまでここにいろ」と言ってから、数時間が経過していることを思い出した。
「あはは、可哀想にね」
「王族にそういう扱いができるのは君だけだ」
「魔女だからね」
ついさっきまで「私は魔女だ」と強調して伝えていたはずなのに、ふいに零れ落ちた言葉のほうがずっと存在感がある。彼我の立場を明確にしてしまった気がするのだ。まるで木から滑り落ちた時のような小さなひっかき傷が、心の表面にたくさんついている。
しかしレナートは何も気にしていないような表情で、テネリの頭をくしゃっと撫でた。
「そうだ。そしてそれは協力者の特権でもある。リサスレニスにおいて、協力者はある程度の我が儘も許される」
「じゃあまずは大金をもらわないと」
「鉱山のほうが長く金を生むぞ」
「広くて魔法が使い放題の土地も」
「美味い特産品があることも条件に加えよう」
レナートに乗せられて、夢のようなご褒美が本当に貰えるのではという気持ちになる。あの聖王が頷くかは怪しいところだが。
けれどもそれはテネリに笑顔をもたらし、無意識のうちに溜め込んでいた心の澱を洗い流す効果があった。
「あはは、そこまでしてくれるかな」
「させるんだ。君にはそれだけの力がある。望めばなんだって叶えられ――」
「何が叶えられるって?」
レナートの言葉に被せるように聞こえて来たのは、アレッシオの不機嫌な声だ。さすがに何時間も放っておいたせいでご立腹らしい。
「こっち来ちゃダメじゃん、寂しくなっちゃったの?」
腕を組み顎を上げて睨みつけるように立っていたアレッシオは、テネリの言葉を大仰に否定して数歩前進した。
「ちっ違う! 僕はレナートに用があって来たんだよ、大事な用がね!」
「ちょうどよかった。俺も殿下にお話したいことが」
「よし。そういうことだから、ソフィアのことはよろしく頼むね」
レナートを従えて歩き出したアレッシオが、背中を向けたまま右手を上げてひらひらと揺らして見せる。テネリは首を傾げながらそれを見送った。
「あんな余裕ぶってかっこつけられるような登場しなかったでしょ……」
「テネリ様! 鳩さん捕まえてきました」
「アレッシオは所用でお部屋に戻ったから、しばらくは私に使い魔を飛ばす練習しよう」
元気なソフィアの返事を背に受けながら、テネリは船尾へ向かう。
今後の指導スケジュールも検討するべきだし、聖女の誓約についても話をしなければならない。考えることはたくさんあるのだから、船尾で待つ時間も無駄ではないはずだ。




