第65話 魔女は盗み聞きをする
わっ、と小さく驚いた騎士の声で、テネリは黒猫が前方を横切ったことを知った。恐らく砦の中を巡回しているのだろうが、テネリの存在に気づきもせずに一目散に駆けて行くのは珍しいことだ。
テネリは両手を握って祈りの言葉を呟く案内の騎士を少し待たせ、ミアの後を追いかけてみることにした。
「……だからね……」
「その件なんだけど……」
話し声は意外にもすぐ近くから聞こえ、ミアの声も混じっている。廊下の突き当りを曲がったところにいるのだろう。
壁に身を寄せて耳を澄ませてみれば、ミアとソフィア、そしてレナートがいるのがわかった。
深呼吸して目を閉じる。ミアの視界を共有するのだ。ふたりの足元が見えるかという予想に反して、ミアの視界はソフィアの胸元くらいの高さにあった。窓の桟に乗っているのかもしれない。
「話をまとめるとテネリは俺との結婚はせず、伝統を曲げて誓約を先にすべきと殿下に進言したということか」
「殿下も賛成しています」
「まぁ……殿下は元々俺たちの結婚に反対だったからな」
「あら、テネリからはアレッシオのせいで婚約する羽目になったって聞いたわよ?」
レナートとソフィアが苦笑する。ふたりとも、テネリの前では見せないような飾っていない柔らかな雰囲気だ。
「あの人は思いついたことを後先考えずにすぐ実行するんだ」
「一応、最低限のリスク管理はしてらっしゃるはずなんだけど」
「好奇心が勝つんだよな」
「あの癖はきっと生涯治りませんよ」
レナートとソフィアの間に、兄と妹以上の感情がないことはテネリにもわかっている。けれども人間特有の親密さがあると思う。
ひとりでも十分生きていける魔女は、いつ敵対するかわからない他の魔女と特別に仲良くなったりはしない。寿命がまるで違う人間とも、情を通じることはあってもわかり合うことは難しい。
絆がないとは言わない。テネリとボブじいさんだって、人間の家族に近い親愛や信頼があるはずだ。だが赤ん坊だったボブが少年、青年を経て立派な大人になり、死を目前にするまでの間、テネリは何も変わらなかった。
彼らにとって共通の価値観である「生涯」は、テネリにとっては取るに足らない数十年だ。この感覚の違いがいかに大きいか、テネリはここ数ヶ月で少しだけ学んだ。
きっとレナートの一生分の時間をかけても、テネリは人の命を奪うことの重大さを、彼と同等に実感することはないだろう。つまり、そういうことだ。魔女と人間はわかり合えない、わかってあげられない。
「国の承認と法整備が必要な話であることは確かだ。リサスレニスに生きる者なら誰も王の決定に逆らえないことも、な」
その通り。仮にレナートがテネリとの婚姻を望んだとしても、人の世で生きるからには実現不可能な話だ。
レナートの言葉を最後に、テネリは視界の共有を終えて音を立てないように騎士のもとへ戻った。
案内されたのはアレッシオの部屋の半分よりさらに小さい個室。板のように固いベッドに横になると、カリカリと扉を引っ掻く音がした。
「どうだっ……た……? うわ」
扉を開けると同時に、隙間から黒猫がヌルリと入って来る。さらに視界に飛び込んできた違和感の主、レナートがテネリに扉を閉めさせなかった。
「こんばんは、お嬢さん」
「なに?」
「さっきソフィアから聞いたよ、誓約の儀を先にするって」
「その方がいいでしょ、ていうか最初からそうするべきだった」
力を入れて扉を押しても閉まらない。どうあっても部屋に入るつもりらしいと諦め、扉から手を離した。
「言いたいことはわかるけど、結果論に過ぎない」
狭い部屋には落ち着いてお茶を嗜むようなテーブルセットなどなく、レナートは部屋に入るなり書き物机の椅子にどかりと腰を下ろす。
「インヴィはあのまま首を落とせばいいし、ソフィアたちが誓約さえしちゃえば私の役目も百年先までない。やっと終わったって感じだね。でも振り返ってみればそこそこ面白い体験だったかな」
「ここ200年のうちで最も楽しい体験、だろ」
「なんで?」
「俺がいるから」
目を丸くしたテネリは、次の瞬間に腹を抱えて笑いだした。随分と自己評価の高いコメントだ。
「よく言う」
「それより、俺の婚約者だってことも忘れてくれるなよ?」
「結婚する必要ないし、それにもう私が魔女だってバレたでしょ。だからきっと聖王さまが許さないよ」
「それはそれ。今回の件の後始末でまだまだ忙しいのに、国中の令嬢に囲まれたくないんでね」
そう言えばアレッシオも言っていた。テネリとレナートの婚約の目的は、他家のご令嬢との婚姻話が進まないようにするためだと。
「けど私は協力者として平穏な生活が約束されてるんだからさ、手伝う義理はないんだよね」
「では人間のルールに則って、正式な婚約破棄が済むまでは婚約者だ」
「は? 正式にって、どうやって破棄すんの?」
立ち上がったレナートは質問に答えず、ドアの側に立ったままのテネリの頭を軽く撫でて部屋を出て行った。




