第52話 聖騎士様は絶対絶命のピンチを自覚する
ランプひとつぶんの小さな明かりの中で、レナートはゆっくり手の平を開いたり閉じたり繰り返した。
どうにか上半身を起こすことには成功したが、壁に寄りかかっていないと姿勢を保つことは難しい。手足の痺れも改善したと言えるほどではなく、ただ拳を握るだけで一苦労だ。
「今のままでは、足枷ひとつ外せないな」
インヴィの条件はレナートが誓約し、使い魔のように永遠に彼女に付き従うこと。
従わない場合は国かテネリ、または両方を失うことになるらしい。インヴィの言葉通りなら、レナートに選択肢はないように思える。
「テネリが簡単にインヴィを自由にさせるとは思えない」
自分の強さには相当の自信を持っているテネリが、簡単にリサスレニスへの侵攻を許したり命を脅かされたりはしないだろう。
それより問題は、とレナートは重い腕を頭へ持って行く。こめかみを揉まなければ頭痛を紛らすこともできない。
リサスレニスがテネリを死なせないかが目下の問題と言えるだろう。
こればかりはどのように動くか想像がつかない。逆に、人間としての平穏な生活が得られないと考えたテネリがどう動くのかも。
「は、俺の価値はテネリによって国家レベルになったか」
独り言ちながら嘲笑を浮かべる。
ずっとアレッシオのスペアとして生き、騎士団へ奉職してさえ「魔女のいない国」で魔女を追う聖騎士団長という閑職を与えられた。レナートではなく、翠の目を守るために。
それが今や、テネリという爆弾のような魔女と国とを結びつける大役だ。なんとしても生き延び、リサスレニスに帰らなければならない。
「おはようございます、閣下」
耳にまとわりつく猫なで声に目を覚ます。スープと水差しを手に、インヴィがベッドの傍に立っていた。
「朝か」
「誓約、結ぶお気持ちになりましたか?」
差し出されたスープに目もくれず、返事もしないままでいるレナートに、インヴィはフフと笑いだした。
「わたくしのお出しするスープには確かに少量の薬が混入しています。誓約してくださったら、もちろん普通のお食事をお出ししますわ。ところで、いつまでも飲まず食わずでよろしいの? どちらにせよ、動けなくなればわたくしがこのスープを飲ませて差し上げるだけだわ」
インヴィの言葉は正しい。今のままでは例え薬の効果が切れたとしても、早々に動けなくなるだろう。せめて水だけでも飲むべきだが、あの水に何も入っていないとも思えない。
「わたくしはあなたが本当に好きなの。容姿や身分を気にせず優しくしてくださったあなたが」
「それは俺ではない」
「でも魂は同じだわ」
いかに違うと言っても分かり合える類の話ではない。レナートは否定することをやめ口を噤んだ。今は会話する体力さえ勿体ないのだ。
「いつまでも意地を張らないでくださいませね。今回は婚約者を殺めたりもしていないんですから。わたくしは城へ行ってこなければなりません。帰るのは夜になると思いますので、お水くらいはお飲みください」
「城?」
「ええ、カエリーの」
遠ざかって行く足音を聞きながらレナートは何度目になるかわからない溜息を吐いた。まさか、たった数日でカエルラに来ていたとは思わなかった。
さらに、城へ出向くということは軍を動かす可能性を示唆している。ライアンが、カエルラは戦争の準備をしていると言っていたからだ。
まだ動けるうちに何かしなければと思うのに、体の痺れもとれないし足枷もある。痺れと喉の渇きさえどうにかなれば、と喉に運んだ左手の袖に徽章が引っ掛かった。
形ばかりの聖騎士団長の職には勿体ない、立派な徽章だ。
引っ掛かったところを外そうと俯いたレナートの目に、鷲のブローチが飛び込んで来た。婚約記念品としてテネリが贈ったものだ。
――絶体絶命だと思ったら、これに祈ってね。
「ああ。これは誰がどう見ても絶体絶命だよな、テネリ」
鷲の翼に嵌まる七色の宝石は、微かなランプの明かりでもしっかりと輝いている。どうして今までこれに気づかなかったのかと思うほど、自己主張しているように見えた。
愛しい婚約者を想いながらブローチをぎゅっと握ると、ふわりと薔薇の香りが漂った。
「幻覚か?」
恋しさのあまり、あの甘い香りを思い出してしまったのだろうか。
レナートが矯めつ眇めつ取り外したブローチを眺めると、表側の鷲の意匠が開く仕組みになっていることに気づいた。
痺れる指を何度も引っ掛けて、パチリと音をたてて開いたとき、翼の裏からテネリの香りが匂い立つ。
「これは……!」
小物入れのような機構を持ったブローチの中に入っていたのは、テネリの薬だった。どんな効果効能のあるものかは見当がつかない。けれども、絶体絶命のときに頼って役に立つものなのは確かだ。
レナートは薬を摘まんで口に放り込んだ。




